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矛盾を矛盾のままに

私は仕事柄矛盾を残さないようにする性格なのだが、私生活では支障のない限り、矛盾しているものもなるべく矛盾したままそのままの形で受け入れるようにしている。そして、自分の子どもにも、ありのままを見せるように心がけている。

例えば、妻は子どもに「お手伝い」させる際、対価を与えることが多い。具体的には、夕食後の食器洗いをしたら10~20円を与えるという具合だ。働くということがどういうことか、お金を稼ぐというのがどういうことなのかを教える、経験させる、という意図があるそうだ。それはそれで合理的だし、いい教育なのではないかと思う。
他方、何かを与えられるということが、労働の対価だけではない(人生にはいわゆる「棚ぼた」があったり、利益勘定なしに他人に恵んでくれる人もいる)という感覚を身につけてほしいと、何もないときにぽっと何かを与えることもある。それも、まぁなるほどなと思う。

私も同様に子どもにお手伝いをさせることがある。ただ、私は対価は与えない。「奉仕」という考え方や、コミュニティーに帰属することで発生する責任や義務という考え方を理解してほしいためだ。平たく言えば、「儲かるからやる」のではなく、お金が貰えようが貰えまいが、一つ屋根の下で一緒に暮らす以上、お手伝いくらいしろ(自分のできることでコミュニティーに貢献しろ)ということだ。ご飯は食べる、洗濯もしてもらう、欲しいものは買ってもらう、でも自分はみんなのために何もしない、そういういわゆるフリーライドはすべきではない、ということだ。(もっとも、更に突き詰めていえば、そういったフリーライドする者は社会に不可避的に発生するし、そういった者をある程度大目に見てやるといったことも大切なことだとは考えているのだが。)

上記は一例なのだが、そんな具合で、私と妻は考え方や価値観が違うことがある。そして、お互いそれぞれの考え方が絶対的に間違っているとは思わないから、特段文句を言うことも、お互いの行動を一致させることもない。だから、子どもから見れば、一見矛盾が生じているように感じることだろう。全く同じお手伝いをしても、あるときは対価を貰え、あるときはもらえない。ある時は働いた対価だといって報酬をもらい、あるときは対価なくてもやれと言われる。

よく、夫婦で何が正しいかをすり合わせるのがよいという教育評論家の意見を聞く。父親と母親からそれぞれ違うことを言われると、子どもは混乱してしまうから、と。私はその意見に反対だ。実際の世界には白黒つけることができない物事のほうが多いし、唯一の「正解」が定まっているような問題はほぼない。

言葉もしっかりと話せない年齢までならまだしも、少なくとも小学校に入るころにはある程度論理的な思考はできるし、自分の考えや気持ちを伝えることもできる。世界とも触れ合い、子どもたちだけの新しいコミュニティーや人間関係もできてくる。そんな中で、それぞれの「正義」があり、いろいろな「正解」がある。その中から自分が正しいと思ったものを選び、選んだ理由を自分の中でしっかりと持っていてほしい。そして、後に考えが変わり、自分の選んだ答えが間違いだと思ったのなら、素直に謝れる人間になってほしいのだ。

結局のところ、最終的に人間は自分の足で大地に立ち、自分の身一つで世界と対峙しなければならない。そのために、この世界が抱える矛盾や衝突も含め、全部ありのまま見せたいのだ。

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