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実家から逃げ出したセクマイ学生から見た、東大の学費値上げ問題

この記事には、DVや、性的マイノリティが経験する差別の話など、重たい話が含まれます。
必要に応じては、無理などせずに、適度休憩などを挟みつつ、ご覧ください。


東大の学費値上げのニュースが先日、メディアのリークという形で報道されました。学内の噂によれば、明日(6月21日)金曜日の総長対話で、学費値上げのことが正式に公表されるそうです。

すでに東大生の間で、そして一部社会やメディアでも、本件に対して様々な議論がなられているのが見られます。学内では学費値上げ反対の運動を行う学生もいたりします。私は、その活動に感謝しており、また、陰から応援しています。あまり貢献できず、申し訳ないと思う気持ちもあります。

しかし同時に、私はLGBTの一当事者として、学費の値上げがどのように自分の生活を影響しうるかと感じたかに関して、値上げ反対派の議論とも少し乖離を感じました。どこを見ても、DV経験者の視点が、また、クィアの視点が、欠けている気もしました。自分は、議論の土台にも含まれていないのではないか、とも思ってしまいました。

まずは少し自分の状況を説明したいです。私は、現在学部三年生のトランスジェンダー当事者の学生です。昨年、DVの習慣がある家族のもとから逃げ出して、今はなんとか一人暮らししながら大学に通っています。今年度に学費免除や奨学金制度の申請をして、現在結果を待っている状態です。加えて、現在私は就職活動の真っ只中で、夏インターンの締切の波がきています。それでも、どうしても黙ってはいられなくなり、この文章を書くことにしました。

このnoteは、実家を逃げだすまでの体験と、現在進行形で直面している課題と、それらを踏まえて思ったことなどをまとめたものです。もちろん、自分は東大に通う全てのLGBTQの学生あるいはDVから逃れている学生を代表するつもりはありませんし、できるものでもありません。しかし、もしかすると、ここには、平均的な学生が思いもしたことのない話、一般的な生活をしている人にとっては想像にすら浮かばないような話があるかもしれません。これが、学費の値上げという問題を考える際の視野の拡大に繋がれば、幸いです。


学費免除・奨学金の申請 ー 制度想定「外」の私


学費免除や、奨学金制度を申請することの大変さに関しては、すでに十分の議論が出回っていると思います。その点については、先日noteにあったこの記事でも十分論じられていると思いますので、再度申し上げるつもりはありません。もしよかったらこちらの文章もお読みください。

さらに、私たちLGBTの一部学生や、複雑な家庭状況を抱え、家から逃げ出している学生には、すでにこの制度の利用自体が極めて困難なケースが多く見られます。このような学生たちが、そもそも申請しようとしても、申請段階でほとんどの場合は行き詰まってしまうのです。LGBTの一当事者として、そしてDV家庭から逃げている人間としてこれは断言できます。

まず、背景の話になりますが、既存の制度は、全て親がいる世帯での申請を前提としています。

実家から余儀なく逃げ出している学生にとって、これは何を意味するのか。家族と関係を持ち続けることが事実上不可能な場合、世帯の分離をせざるをえないわけです。つまり、とりあえず逃げようとするだけでは無理で、逃げ道を断つ大きなかつ不可逆的な決断を迫られるということです。

世帯の分離を決意をした上で、今度はその「特殊」な事情を説明・証明しないといけないことになります。私の場合、すでに20歳を超えていてDV保護法の対象外であり、またDVの実態に関しては骨折で入院するレベルだったものの、警察に通報をした履歴がないために警察からの報告書もない、という状況でした。大学の支援課とのやり取りの結果、支援措置の決定通知書を証拠として提出することでなんとか証明することが出来ました。それを取得するためには、市役所でスタッフに声をかけ、受付とは別に個別の部屋に呼び出され、今度は同じ話をするために警察署の生活安全課にいって、そこから申請の結果待ち、という流れでした。

ここまで踏み出して、一人世帯になったとしても、今度は「経済力の証明」というさらに高い壁が続きます。

すでに述べたとおり、世帯を根拠にしている制度なので、今度は自分の一人世帯の経済実力の証明が要求されます。支えてくれる保護者がいないことが想定外なので、一人世帯として認められるのは生活が成り立つ一人世帯だけなのです。ここでの「経済的な実力」というのは、学費の免除の申請が却下されても、十分に学費を払えるほどの経済力があることを証明しないといけない、ということです。学費免除の申請の際、独立家系調書というものを書かされました。毎月の収入と支出の見込みを申告しないといけないのですが、この調書の支出は、学費の免除を受けられない前提で、毎月44,000円の学費(値上げが決定した場合はさらに高額になります)を支出として記入することになります。それでも収入で生計が成り立っている人のみ、独立家計として初めて認められ、これでようやく学費の免除の申請ができるということです。そして、その確認のためには自分の所得証明書、(非)課税証明書、通帳の残高、アルバイトや業務委託等の収入の証明などを全て提出することを要求されます。

つまり、この制度は(親がいる)世帯を発想のベースとしているため、実家から逃げ出した学生に対しては、親の経済能力に相当する額を、学生本人に横滑りして適応することになるのです。どうやって解決したかは詳細を省きますが、今までの勤務先や知人などに連絡し、書類の発行などを手伝ってもらうため、大人たちに頭を下げ続けたことは、非常につらい経験でした。

↑独立家系調書の支出欄では、「必ず授業料を含めて計算すること」と強調されている

このプロセスで、自分は制度から想定もされていない存在であることを思い知らされました。日本学生支援機構の奨学金出願票を記入するとき、生計維持者の状況一覧の中では、私が該当する選択肢すら存在していませんでした。

奨学金出願票に丸をつけられる選択肢がなく、そのまま「該当なし」と書いた私

その他にも、支援課の窓口や支援課とのメールのやりとりをする時、スタッフによって回答が異なるケースも何度か発生し、一旦申請が済んだと思っても、後から追加の書類をさらに要求され、授業終了後、役所に営業時間ギリギリで駆け込んだりもしました。

ここまでで、ようやく申請が終わったとしても、奨学金の申請結果待ちの3ヶ月間は奨学金が振り込まれない状態が続きます。それに耐えられる資金力が求められ、さらには申請に落ちていないかなどの不安を抱えながら、申請が落ちた時の様々な準備をしながら、将来の生活がどうなるのか見通しが見られない状況の中過ごしていくことになります。


「留年したら支援停止」の落とし所 ー ストレートで卒業できないのは本当に努力不足なのか?


奨学金の申請と学費免除が、実家から余儀なく逃げ出す学生にとっての、制度利用の困難さに関して述べてきました。世帯分離の大きな決断をして、(私の場合は)保護措置の申請、さらには経済能力の証明のため、貯金を作る必要など、様々な大きな壁を乗り越えないといけないことは述べてきた通りです。正直、ここまでですでに大変ではないでしょうか。

しかし、仮に申請が通ったとしても、さらにもう一つ満たさなければならない条件があります:それは、留年してはいけない、ということです。学費免除・奨学金支援は、4年間での学部卒業を前提としている支援制度ですので、留年期間中は支援停止、そして留年を一度したら給付型奨学金の申請資格取り消しになります。

この、4年間で卒業しなければならない、という制約は、世間一般からしてみれば(特に日本社会では)真っ当であるのかもしれません。

しかし一度、DV被害者や性的マイノリティの当事者の視点から考えて直して欲しいと思います。

DVの被害者や、LGBTの当事者でなど、実家から逃げ出すしかない状況に置かれた人々が、計画性を持って、すでに述べた困難だらけの制度を利用して、その上で4年間で卒業することが、果たしてどのくらい現実的なことなのでしょうか?

そもそも、窮地に陥った人たちが、実家から逃げ出す決断をすぐにできるのでしょうか?多くの場合、DVの被害者や、性的マイノリティの人々は、親の権威や、または社会的な差別などに直面します。その中で、真っ先に自分を疑い、異常なのは自分である、といったふうに、自分を責めてしまうことは少なくありません。そのような、精神的にも不安的になりやすい状況において、今すぐ逃げ出さなければならない場合、そのための合理的な判断を下すことが困難であることは、十分に想像できます。

仮に精神的に耐え切れたとしても、自分が置かれている状態が自分の過ちの結果ではないことに納得し、さらに心身の安全のために一人で生活を始めるという決断まで到達することもまた、気が遠くなるほど長い道筋です。性的マイノリティの場合、自分のセクシュアリティを受け入れ、自己嫌悪から抜け出し、例えばトランスジェンダーにとっての性別移行といったような大きな決断をすることは、非常に勇気を有し、また体力と時間の負担がかかることです。

そして、決断後、実際に行動へ移すためには、経済的な準備を含めさらに多くの課題が出現します。バイトで貯金を稼ぎ、物件の契約をして、引っ越しを家族にバレないように進め、最低限の生活用具を揃える。ここまでして初めて、前述の奨学金と学費免除の申請のために動き出すことができるのです。

この全てを、高校卒業から間もない新入生に求めることは、果たして本当に現実的なことなのでしょうか?他にも、文部科学省が2022年に提供を始めたDV被害者向けの奨学金の制度を利用することは、理論上は可能です。しかし、東大に入学してくる優秀な学生でも、社会経験はまだ浅く、実際の制度利用まで辿り着ける人は、一体何人いるのでしょうか?そして、仮に実家から逃げ出すことができ、制度申請を完了したとしても、その後発生する様々な出費を負担できる18・19歳のはどれぐらいいるのでしょうか?

何よりも、DV被害者や性的マイノリティの学生で、実家から逃げ出すことを余儀なくされる学生の多数は、既に様々な要因に追い込まれている中で、限界が来てドタバタと「逃げ出す」、そういったケースがほとんどではないでしょうか?(実感にはなりますが、もちろんデータがそもそも存在しないので、実証しようもないのですが...)

少なくとも、私の場合はそうでした。DVが繰り返され、同時にモラハラと反省の強要を受け続けました。さらには自分の性的指向に関しても疑われ、家族にバレるのが怖かったです。家族に支配された環境の中、逆らうことも出来ないまま、うつと不安障害になりました。十分に勉強もできず、しかし休学の決断もできないまま、留年することを余儀なくされてしまいました。

そのような中、転機となったのは、大学の精神科に通い始め、カウンセラーに家庭の異常さを指摘された時でした。そこから徐々に心身の調子を整え、留年中にアルバイトで貯めた多少のお金をあてに、家族の制止を振り切って実家から逃げ出し、進学をし3年生になり、なんとか頑張って学費免除と奨学金を申請しました。

しかし、2年間留年してしまった結果、最短在学年数を超えたことから、私は給付型の申請対象から外れてしまいました。また、民間の奨学金への申請する道も、塞がれてしまいました。つまり、ここまで困難を必死に乗り越えて、ようやくなんとかキャンパスライフに戻れたものの、そのスタート地点は、借金というマイナス地点だったのです。(なお、前出の文科省のDV被害者向けの奨学金制度は、私の入学時にそもそも存在していなかったのと、3年生の時点では資格的に対象外でした。)

私が留年してしまったのは、本当に私のせいなのでしょうか?私の努力が足りなかったのでしょうか?

今改めて振り返って、私は最初から4年間で卒業することなどできない状況に置かれていたのだと、ようやく理解できました。そのような状況に置かれ、留年を余儀なくされた私に対して、学校側からはまるでそれらが私の過ちであるかのような対応をされました。「罰」を与えるかのように支援を遮断され、私は絶望的な状態へ陥りました。学校側はこの対応を通して、私にとっての選択肢をさらに狭めたのではないでしょうか?


10万円の学費値上げは何を意味するのか?ー東大はさらに誰を排除することになるのか


最後に、本題の学費値上げの話へと戻りたいと思います。

ここまで長々と、自分の体験を述べてきました。性的マイノリティの当事者、そしてDV家庭から逃げ出している学生にとって、現在の支援制度がどのくらい非合理的であるかを、様々に論じてきました。東大の既存の支援制度は全く不十分な状態にあり、支援をもっとも必要としている学生に、より手が届かないシステムであると、私は思います。

今の東大に求められるのは、このように取りこぼされてしまった人々への支援制度の拡大・支援対象の拡充、そして支援の手続きの簡素化や制度の柔軟化により、学生への軽減を図ることです。また、適切な制度を設計するためには、性的マイノリティ、DV被害者、障がいのある学生の他、在籍する様々な背景を持つ学生の需要の実態調査が必要です。

本来、一番理想的とされるのは、高等教育学費無料化など、支援の申請などの必要もないシステムです。いくら制度を簡素化したところで、申請が必要であること自体、学生にとって負担になります。

既に示した通り、現状として支援制度が十分に整っていない中で、さらに学費値上げを全ての学生一律にに求める大学の姿勢は、本当に正しいのでしょうか?

東大の学費値上げに関して、賛成意見の中で一番多く聞かれるのが、東大生の家庭にとって、10万円はほとんど負担にはならない、という声だと思います。確かに、東大に入学できている学生の家庭のうち裕福層である比率は、日本の平均を大幅に超えています。10万円の学費値上げを「10万円しか変わらない」と感じる家庭も少なくないかもしれません。

しかし、一律の値上げで一番影響を受け負担を強いられるのは、一番弱い立場にいる人たちです。この10万円の学費の値上げで、生活が瓦解してしまうかもしれない学生は、実際にいます。そのような人々のことを無視していいのでしょうか?そのような学生たちは、まさに東大生の親はみんな金持ちというステレオタイプによって、支援が必要にも関わらず、不可視化され続けた人たちです。そして、この学費の値上げは、すでに社会格差の結果人員構成が偏っている東大を、さらなるメリトクラシーを強化する装置にしてしまうのです。

そして、この学費の値上げは、性的マイノリティや、DV被害者など、安全な居場所をより一層必要としている学生たちにとっての、致命的な打撃になります。学校が守ってくれないことに対する絶望、自分の居場所を失ってしまうかもしれない恐怖、そして未来に対する不安を強めます。そのような人々は、不合理な制度によって排除され続け、居なかったこととして扱われるうちに、最初は怒りの声が上がっても、最後ほとんどの人たちは、諦めて、別のところに消えて行くのです。

奨学金の申請時、自分の生計維持状況の欄に「該当なし」と記入した際、私は強い無力さを感じました。「私、ここから消えた方がいいのかな」とも思いました。DVを受けていた証拠として、支援措置の申請をした時もそうでした。警察署の狭くて暗い取調室の中で、怖いマッチョな警官の前で、もう忘れ去りたい辛い話を繰り返し説明しないといけなかった時、もう人生諦めようと真剣に考えました。生計が成り立っていると証明するため、職場の大人たちの前で頭を下げ続け、なんとか証明書類を作成してくれた時、自分は人間としての尊厳を捨てた感覚に襲われ、涙をこらえました。

東大に起因する制度の不合理性の結果、大変な思いをしている例は他にもあります。その一つとして、寮の問題があります。トランスジェンダーとして、戸籍・学籍上の性別の理由から、私は大学の提供する寮の申請を諦めました。この問題については、学内の性的マイノリティの支援者団体が、ジェンダー・ニュートラルなフロアの設置に関して、交渉を始めて既に二年間が過ぎましたが、予算を理由に、いまだに進展がありません。その結果、私は今月4万円台、お隣がゴミ屋敷で、トイレに換気扇もない、配達物が盗まれる旧耐震のアパートに住んでいます。寮に住めれば必要のない家具の購入費用も、貯金から捻出しました。

インターセクショナリティ(交差性理論)ということばに出会った時、これは私の話だと思いました。様々な社会的立場は絡み合い、固有の抑圧的な構造を生み出すことを示す言葉です。逆説的に言えば、多くの問題は、明確に一つだけの原因を特定して説明することはできず、多くの構造的差別は、一つのシステムになって経験されることになります。これは、DVサバイバーとトランスジェンダー当事者という二つの問題の交差でもそうだと思います。一見関係があまりなさそうな二つの問題が、足し算ではなく、掛け算のように、合わさって襲ってきていると感じます。

クィアの学生たちは、国や公共の制度から周縁化され、人一倍の負担を抱えて生活していることが多いです。トランスジェンダー・ケアの医療資源の不足によって、自己責任で医療行為を行い、医師の指導があれば必要のないホルモン投与のリスクを抱える人がいます。性別適合手術に関しても、保険適応が事実上できない日本で、戸籍上での性別の変更を望みたい場合は、お金を貯めて自費で手術を受けないといけない人たちもいます。そして、体がまるで反抗するかのように自分の意思に従わず、自分が同一化できない身体的特徴を他人からも自分からもどうにか隠し通すのに毎日必死です。毎日布団から起き上がって生きて行くだけでも、負担が大きいのです。そして、英米で始まり、日本でも日々強くなっていくトランスへのバックラッシュと差別に怯えながら、強制的に不必要にジェンダー化されたスペースを出入りして、日々生き続けています。

そのような日常の経験とDV被害の経験の交差によって、さらなる窮地へと追い込まれていくことになります。トランスジェンダーへの支援の欠如と、DV被害者への支援の欠如の結果として、二重に制度の想定外であること。自身の感情的にも、生み出された負の連鎖から抜け出すことは容易ではありません。

この大学に通いながら、私はすでに多くのことを諦めました。本来は大学院に行きたかったけれども、金銭的な余裕がない上、これ以上現状の制度に身を任せる勇気もありません。本来学生生活では、興味のある授業を満遍なく受けたいです。しかし、収入確保のためアルバイトに多くの時間を割かなければならず、履修を諦めざるを得ないことは、しばしばあります。交換留学に行っている学生を見ると、羨ましくてたまりません。アルバイトで稼いだ給料は、趣味に使う余裕もなく、口座に貯めながら、家賃として引き落とされて消えていく。貯金の残高はみるみるうちに減っていき、生活費の残高が給料日直前は四桁ギリギリ維持しているかしていないかで、不安な気持ちになります。大好きだったサークルには、顔を出す余裕すらもうありません。それでも知り合いの前では大丈夫そうな顔をして、ゼミのコンパにはきちんと参加し、バイトと学業の合間は、周りの就活生と同じ枠で、就活で競うことになる。同じスタートラインに立てていないことは、当たり前なこととして受け入れてしまいました。

さらに苦しいのは、一寸先は闇なんだということです。何か不測の事態がおこり、バイトや授業にいけなくなってしまった場合、私の生計は直ちに崩れます。あるいは成績不振で留年などをしてしまったら、支援は即ストップになり、私の生活は瓦解してしまいます。気がつけば、実家から逃げ出し、次なる居場所として求めたはずの大学が、私に対して敵意を向けているかのような環境になっていました。この状況から早く抜け出さないと、全てが壊れてしまう、そんなことを日常的に感じるようになってしまいました。

それでも、私はまだ運が良かった方の人なのです。ここまで辿り着けなかった人が大勢いることを忘れてはいけません。この大学に通うトランスジェンダーの当事者の友人が心身共に体調を崩していく例を、多く見てきました。性別移行のためのホルモンの薬が親に見つかり没収された人、実家に戻るために嫌な服装をして辛そうに振る舞っていた友人、ようやく性別再適合手術をし貯金が減った矢先奨学金が不許可になった子、休学したまま音信不通になった後輩… 私は何もしてあげられなかったのかと、何度悔しく思ったことか。サバイバーズ・ギルトを思い出してしまうことも、時よりあります。

本来、性的マイノリティへの包括は、学校側が責任を持って進めるべきものであります。藤井総長の元で、この大学はD&I宣言を公表しました。実は宣言の策定の段階で、私自身も意見交換会に参加しました。不安もありつつ、藤井総長のもとでは、ようやく私たちに少しは目は向けてくれるのかな、と正直期待した気持ちもありました。しかし宣言公開以降も、学内のセクマイ支援のサークルは、この数年間で数件もの要望書を提出してきましたが、前述したように、寮のオールジェンダーフロアの設置を含め、ほとんどの要望については予算を理由に、止まったままです。その流れの中で起きた、学費値上げ騒動。今回の報道を受けて、がっかりしました。学費値上げの議論に際して、当事者学生の声を反映する場すらなかったのです。あのD&I宣言は、形式的なだけの条文だったのでしょうか?D&Iが本来守るべき学生たちの声は、結局のところ無視されたままになるのでしょうか?

私たちが求めているのは、同情ではないです。私は自分を可哀想な人だと思っていませんし、絶対憐憫の対象として下に見られることもしたくないのです。

そうではなくむしろ、学費の値上げに対して、静観することは何を意味するのか、一度考えていただきたいです。これは、この大学のあり方、ひいては社会全体のあり方にも関わる問題です。私たちはどんな社会に生きたいのか。

ここまで付き合ってくださり、ありがとうございました。

もし参考する価値があると感じた場合は、シェアしていただければと思います。この記事が、今回この学費値上げ問題に関して、考え直すきっかけになれたら幸いです。


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