【第一話】◯ぼく◯ 1
◎あらすじ◎
女優を目指す恋人の楓と二人暮らしをしているぼく。慎ましくも幸せな毎日だ。しかし、ある日突然現れた男によって、ぼくは四日後の死を宣告されてしまう。その未来を、楓はまだ知らない。
十年前、恋人だった雄馬が突然、この世を去った。以来、わたしの世界はガラリと変わった。女優の道は諦めた。五年前には新しい恋人ができたのだけど、その関係も正直ギクシャクしている。この先どう生きていけばいいのか、わたし自身、十年前からずっと分からないままだった。
十年前のぼくと十年後のわたしの想いが重なり合う時、ずっと止まったままになっていた二人の時間がふたたび動き出す。
一組の男女が時を超え、愛し合う、環世界を巡るラブストーリー
──────────────────────
環世界は、〔…中略〕たとえそれがわれわれの肉眼ではなくわれわれの心の目を開いてくれるだけだとしても、その中を散策することは、おおいに報われることなのである。
【ユクスキュル 〈生物から見た世界〉より】
◇
みんな、楽しそうに笑っている。
太陽の光が窓から射し込み、笑うみんなをぽかぽかと暖めている。
みんな、なにをそんなに笑っているのだろう。
ぼくも彼らの会話に入りたいけど、ぼくと彼らの間には目には見えない透明の壁があって、だからぼくは、彼らに近づくどころか彼らの声さえ聞こえない。
最近よく見る、不思議な夢だ。
見ている時は、あぁ、またこの夢かと辟易するのだけれど、夢から覚めると、すでにどんな夢を見ていたのかは忘れている、何度も繰り返し見ているようで、初めて見るような、奇妙な夢。
すると突然、視界がフッと暗転する。
いつもこうだ。気付けばぼくは深い暗闇の中に立ち尽くしている。
消えかけのロウソクに照らされるように目の前がほんのりと明るくなっていて、そこに古臭いテレビと丸時計が縦に並んで浮かんでいる。
テレビ画面に流れているのは、昔の白黒アニメーションのように細切れになった映像だ。
画質は曖昧。
音もない。
だけどどうやら、ぼくの過去の思い出の映像らしいというのは、なんとなく分かる。
父さんと初めて喧嘩をした日の思い出、
楓とはじめてキスをした日の思い出、
授業中に居眠りをして先生に怒られるリュウの背中を後ろの席からクスクスと笑って見ていた小学生の頃の思い出……。
これまでの二十七年間の思い出の断片が順不同に流れている。
そこから視線を少し上げると、丸時計の長針と短針が、それぞれ競い合うようにぐるぐると回転している。
どちらも一秒に一周以上の早さで回転しているせいで、右に回っているのか左に回っているのか分からない。
『雄馬───』
後ろから誰かに呼ばれたような気がして振り返る。
すると、ずっと奥の方でなにかが蛍のようにポッポッと光っている。
この暗闇から抜け出す出口かもしれない。
そう思って、ぼくは光に向かって歩きはじめる。
それなのに、足を前に出せば出すほど、ぼくの体は後ろに向かって進んでいく。
まるで下りのエスカレーターを昇ろうとする子供みたいだ。
歩けば歩くほど光は後退していく。
ぼくは縋るように腕を伸ばすけれど、その腕が光に届くことは決してない。
徐々に光の輪郭が狭まっていき、やがて視界の中から光が完全に消失したその瞬間───
ぼくはいつも、そこで目を覚ますのだった。
◇
目が覚めた。
ベッドから跳ね起きたぼくの体は、フルマラソンを走り切ったあとのように汗だくになっていた。
現実と虚構の狭間で意識がぐらぐらと揺れている。
ヘッドボードに置いた目覚めし時計のデジタル文字が、まだ半分寝ている網膜に今が2013年の12月2日7時21分であることを辛うじて教えてくれた。
「んん……、雄馬、また嫌な夢?」
隣で寝ていた楓が目を閉じたままこちらに寝返りを打って、眩しそうに眉を歪めた。
ぼくの側にある窓のカーテンが半開きになっている。青の布地に白色の花の刺繍が点々とあしらわれた、楓の趣味のカーテンだ。
その隙間から線になって射し込む朝陽が、ぼく越しに彼女の頬を控えめに照らしていた。
「んー、分からない。でも多分、そう」
ここ数日、いつもこんな風な朝だった。
どんな夢を見ていたのかはさっぱりなのに、目を覚ますたびに汗だくになって、息を上げている。
気持ちのいい朝、なわけがない。
「もう少しだけ寝る?」
「いや、大丈夫だよ」
汗で冷えた体が少しずつ暖を取り戻していく。なぜかと思って布団をめくると、そこにぼくの脱力した手を優しく握る楓の手が見えた。
欠伸をしながら片肘をついて起き上がろうとする楓の長い髪の毛が燃え上がる炎のように膨らんでいて、ぼくは思わずフッと笑った。
「どうした?」
「ううん、なんでもない。……よし、起きるか」
今日は週明けの月曜日。
だけど、ぼくも楓も仕事は休み。休日だ。
ぼくは普段は都内にある映画館で契約社員として、楓はコンビニとバーでアルバイトとして働いている。
平日に二度寝をするのも不定休の人間ならではの特権だけど、とはいえ楓と二人で過ごすたまの休日を、よく分からない夢の疲労なんかで無駄にしたくはなかった。
寝室からリビングを抜けて、洗面所に向かった。決して広くはない部屋だけど、二人で暮らす分にはこれくらいがちょうどいい。
東横線沿線の七階建てマンション、四階角部屋。1LDK。渋谷まで乗り継ぎなしで数分という立地にしては比較的家賃も安く、日当たりも悪くない。
二人で同棲しようと決めた、まさにその日に賃貸に出された物件だった。
うかうかしていたらすぐに誰かに取られてしまうと、二人して鼻息を荒立て不動産屋に電話を入れたのを今でもよく覚えている。ちょうど一年前の晩秋だった。
洗面台の前に立ち、バシャバシャと乱暴に顔を洗った。
鏡を見ると、いつものぼくがそこに映っている。
やつれてはいない。
顔色も悪くない。
至って普通のぼく。
世に社畜と呼ばれる人たちほどあくせく働いている自覚はないし、楓との生活にもストレスはないから当然といえば当然だけど……。
でも、だからこそだ。
だからこそ、ここ数日の妙な寝苦しさの原因が分からない。
ひょっとして不吉なものにでも取り憑かれているのだろうか。
……いやいや、それはさすがにありえない。
映画じゃあるまいしとぼくは苦笑を鏡に残して、洗面所をあとにした。
リビングに戻ると、セミオープン型のキッチンで楓がコーヒーを淹れていた。相変わらず髪をぼわんと爆発させている。
「コーヒー飲むでしょ」
「飲みます。あざす」
言いながらぼくもキッチンに入り、背後の棚からマグカップを取り出して、キッチンの上にトントンと並べた。
キレイな円をしたカップが二つ並ぶと、無限のマークに見えた。
楓が棚から透明の瓶を取り出し、蓋を開けた。中に入ったコーヒーの粉を計量スプーンで何度か掬い、カップに乗せた紙のフィルターに落としていく。
よく見ると瓶の中のコーヒー粉が残りあとわずかになっていた。今度また補充しておかなければ。
「寒すぎてさ、夜中に何度も起きちゃった」
沸かしたお湯をフィルターに注ぎながら、鼻を啜る楓。
キッチンの小窓から射し込む朝陽は暖かいけど、一晩かけて溜め込んだ冬の冷気は、それではごまかせないくらいに部屋中をひんやりとさせている。
「この間までは夏だったのになぁ」
「でもさ、そうこうしてるうちにまた夏になって、この間までは冬だったのになぁ……って言うことになるんだろうね」
「間違いないね。ぼく、絶対に言ってる自信がある」
きっとその時も二人でこうしてキッチンに立ち、寝ぼけ眼でだらだらとコーヒーを淹れているのだろう。
同棲をはじめる際にイケアで購入したダイニングテーブルに向かい合って腰を下ろした。
明るい色をした木製の小さなテーブルで、二人分の料理を置くだけですぐにスペースが埋まってしまう。
親友のリュウがここに遊びにきた時は、「おままごとのテーブルかよ!」と笑われもしたが、ぼくも楓も存外、この絶妙なサイズ感が気に入っている。
ただし、このさき彼女と結婚をして、子供が生まれた暁には、もう少し大きいサイズのテーブルに買い替えることになるだろう。
控えめに湯気立つコーヒーに息を吹きかけ、唇をペロリと舐める楓。
彼女とは付き合いはじめてもう六年目になるけど、その表情や仕草はいつ見ても新鮮で、飽きることがない。
楓は美人だ。
多分、ぼくの色眼鏡なしでもそうだと思う。
二人で歩いていると、すれ違う男の視線がいつも楓に向くのがよく分かる。それでいて気取っていないし、話も面白いし、二つ年上のぼくなんかよりもずっと思慮深くて、聡明だ。
だからこそ、そんな彼女が女優としてなかなか世に認められないのが、悔しくて、もどかしい。
楓が女優を夢見るようになったのは、小学生の時だったらしい。
テレビに出ている女優に顔が似てるねと親戚に言われ、ついその気になってしまったのがキッカケだったそうだ。
一応、今も芸能事務所に所属はしていて、芝居の仕事がないわけではないが、それでも楓と同い年や歳下の女優がテレビやスクリーンで華々しく活躍しているのを見ると、なんとも言えない気持ちになる。
ここに天才女優がいるんだぞ、なんで誰も気が付かないんだと、時々、空に向かって無性に叫びたくなる。
なんてったって、ぼくたちには夢があるのだ。いや、夢というより、達成すべき目標といったところか。
「どうしたの?」
カップで顔の半分を隠した楓が眉を浮かせた。
「いや、別に」
ぼくもカップを持ち上げ、ついつい緩んだ口元をそれで隠した。
「……あれ、そういえば明日って」と、ふと思い出して言おうとすると、
「あぁ、そうそう。ドラマの」
楓がそれに先んじて首肯した。
「オーディション」
「夕方の四時から」
「イケそう?」
「んー、頑張る」
楓が主演した映画を、ぼくが働いている映画館で上映する。
それがぼくたち二人の夢、達成すべき目標だった。
◇
出かける支度を済ませたぼくたちは、最寄り駅から東横線の電車に乗って、表参道にある流行りのカフェを目指した。
半年くらい前にオープンしたばかりのオシャレな店で、休日となると一時間そこらじゃ席に座れないほどの賑わいらしいが、今日は幸いにも平日の月曜日。ぼくたちは店に到着すると、外に並ぶこともなくスムーズに席へと案内された。
「なんか……、漂ってる雰囲気がもうオシャレだよねぇ」
楓が椅子に腰を下ろしながら、わざとらしく恐々と肩をすくめた。
店の内装はすべて木目調で統一されており、至るところに観葉植物が置かれている。天井でゆったりと回転する巨大なシーリングファンは、見ているだけで心地が良かった。
「うん、ぼくたちの場違い感がハンパない」
こういう、いかにも都会然とした店には入るだけでいつも少し緊張してしまう。
ぼくも楓も東京生まれの東京育ちだけれど、きっとどちらも、元からしてあまり都会的な性格ではないのだろう。
チラリと横を一瞥すると、ぼくたちの隣のテーブルに、おそらくは大学生と思しき女の子二人が座っていた。
ファッション雑誌からそのまま飛び出してきたかのような格好をした可愛らしい二人組だが、言葉のイントネーションが少しだけ標準語と違っているあたり、今年の春にどこか地方からこっちの大学に出てきたばかり、といったところだろうか。
「そういえばさー」
片方の女の子がスマホを見ながら言う。
「うん」
もう片方の女の子もスマホに目を落としながら相槌を打つ。
「前に話したけ? 私の実家の隣の家に住んでる」
「あー、老夫婦?」
「そうそう、その老夫婦の話なんだけど」
「お爺さんが危篤なんだっけ」
「そう、もうずっと寝たきりで」
二人ともスマホに夢中でお互いに目も合わせないのに、彼女たちだけの絶妙なバランスと間合いで会話が折り重なっていく。その流れには澱みがなく、常人では理解しがたい一つの近代芸術を見ているかのようでもある。
楓を見ると、どうやら彼女も同じことを感じたらしく、なにか言いたげに大きな黒目をぼくと女の子二人に交互させていた。
「それでね」
片方の女の子が声のトーンを一つ上げた。手にしていたスマホをいよいよテーブルに俯し、ここからが面白いのよと言わんばかりに体を少し前傾させる。
「うんうん」
もう片方の女の子もスマホから顔を持ち上げ、興味深そうに顎を上げ下げしながら、相手の話に耳を傾ける。
ぼくも楓もすっかり夢中になって、二人の会話に耳をそばだてている。
が、女の子たちはぼくたちのことなど一切気にしていない。
というより、ぼくたちのことなんて見えていない。
彼女たちの視界の中には、きっとぼくたちは存在していないのだ。
「お爺さんはもうずっと寝たきりで、最近じゃ誰の呼びかけにも反応しなくなってたんだけどね、その日は違ったんだってさ」
「違った?」
「そう、違った」
女の子がもったいぶるように一拍言葉を溜める。
「その日、お婆さんがね、お爺さんの耳元で『愛しています』って囁いたの。それだけでももう胸がキュンとするんだけど、そしたらお爺さんがね、うっすらと目を開けて、優しく笑って、コクンって頷いたんだって。すごくない? で、すぐにまた目を閉じて、そのまま息を引き取ったんだってさ」
「ヤバ、なにそれ、映画じゃん」
「でしょでしょ、感動だよね」
突然、テーブルに伏せていたぼくのスマホがブルルと震えた。
手に取って液晶画面に目をやると、目の前にいる楓からのLINEが一件届いていた。
『隣の子たちの今の話、ミラチュルチンチュングじゃない?』
ぼくはニヤリと上目で彼女を見ながら、返信を打った。
『たしかに、ミラチュルチンチュングだわ』
ミラチュルチンチュング。
ぼくの父さんが昔からよく口にしていた魔法の言葉。
正式には、まぁなにを持って正式と言うのかは不明だけれど、正式にはミラクルシンキングといって、それを当時まだ口元の覚束なかったぼくが言い間違えて、ミラチュルチンチュングになった。
直訳すると、奇跡の思考。
大抵の物事は自分の思考と意志次第でどうにでもなる。それが父さんの昔からのポリシーだった。
たとえばだ。いかにもオバケが出てきそうな夜道を歩いていても、『オバケなんていない。オバケなんていない』と唱えていれば、自然とオバケの方から逃げていってくれる。
たとえばだ。なかなか寝付けない夜でも、『寝る、寝る、寝る』と唱えていれば、いつのまにかぐっすりと深い眠りに落ちている。
「俺たちは思考と想像の中で生きているんだよ」
父さんは事あるごとにそう言うのだった。
「だから強い意志が大切なんだ。強い意志があれば、なんだってできる」
ここにいる女の子の実家の隣に住んでいるというお婆さん。そのお婆さんは危篤のお爺さんに向かって、『愛しています』と囁いた。
実際に口に出してそれを言うか、心の中で唱えるかは問題ではない。
重要なのは、意志なのだ。
結果として、そのお婆さんの強い意志は最後の最後で、お爺さんに優しい笑みを取り戻させた。まぎれもなく意志の勝利だ。
お婆さんはミラチュルチンチュングを成功させたのだ。
しばらくして若い男性のウェイターがぼくたちの席にやってきて、頼んでいた品を手際良くテーブルに並べていった。
ぼくがタマゴサンドウィッチセットで、楓がチーズケーキセット。セットのドリンクはもちろん、ホットコーヒーだ。
「いただきますっ!」
「いただきますっ!」
二人して両手を合わせて、声を揃える。隣の女の子たちが、そこで初めてぼくたちを見てきているのが横目に見えた。「いやいや学校の給食時間じゃないんだから」と言いたげに口元を歪めるように緩めている。
「わっ、美味しい」
楓はさっそく自分のチーズケーキをひと口食べて小さく感嘆すると、フォークでそれを半分に切り分け、ぼくの皿にひょいと移した。
「雄馬も食べてみて。想像以上だよきっと」
「お、ありがとう。じゃあ、タマゴサンドもよければ」
ぼくも手にしたサンドウィッチを半分に割って、その片方を楓のチーズケーキの隣にちょこんと置いた。
「……なにニヤニヤしてるの」
楓が眉間に皺を寄せて、顔をにゅっと近づけてくる。どうやら無意識にニヤついてしまっていたらしい。
「ニヤニヤなんてしてないよ」
「してたよ。気持ち悪かったもん」
「すみませんね、気持ち悪くて」
ぼくは肩をすくめて、綻んだ口角を指先で揉んだ。
◇
それは、まさに突然だった。
そんじょそこらの突然ではない。
ぼくの人生の中でもトップオブトップの突然だ。
タマゴサンドとチーズケーキが運ばれてきてから、数分後のことだった。
楓が用を足しに席を立ち、ぼくが一人でコーヒーを啜っていると、いきなり目の前に(本当にいきなり、どこからともなくといった感じで)、見知らぬ男が現れ、楓の席にどんと座った。
初めの一瞬は老人のように見えたが、よく見れば、ぼくと同い年くらいの若い男だった。
緑のサマーセーターにツータックのベージュのチノパンという出立ち。初冬に外を出歩くにしては、少々心許ない格好だ。
「え……あ、あの、すみません、そこ、人が座ってます」
驚きと戸惑いのあまり、思わず楓のことを「人」と一括りに言ってしまい、よく分からない罪悪感が胸をよぎる。
「夢」
男は開口一番、そう言った。
「はい……?」
「だから夢。最近よく夢を見るでしょ。それも普通の夢じゃない。毎回うなされて目が覚めるのに、いつもその内容は覚えていない、そんな夢だ」
「な……」
ぼくが言葉を詰まらせていると、男は遠慮のカケラもない口ぶりで、さらに言った。
「君、死ぬよ」
「は……?」
「そういう夢を見るってことは、君に死期が近づいてきてるってことなんだ」
なるほど……と、そこでぼくはようやく察した。
この男は詐欺師か、あるいは怪しげな宗教の勧誘者なのだ。
どうしてぼくの夢のことを知っているのかは分からないけど、しかしよく考えてみると、起きた瞬間に見ていた夢を忘れるなんて経験、誰にだって一度や二度はあるはずだ。インチキ占い師がよく使う、たしか……バーナム効果というやつだったはずだ。
人の信仰心を馬鹿にするつもりはないけれど、それをエサにして他人の心につけ込もうとする輩は昔から大嫌いだった。
ぼくにとってのミラチュルチンチュングがそうであるように、自身の信仰心や意志のベクトルは自分の内側から生まれるべきもので、それを外側の他者が恣意的に誘導してしまっていいわけがない。
それにしても───詐欺や宗教絡みの事件はテレビのニュースでも絶えないけれど、まさか自分がそのターゲットにされてしまうとは夢にも思っていなかった。
むしろ、ぼくだけはありえないとさえ思っていたくらいなのだ。
この男にとって、ぼくは騙しやすそうな人間に見えたのだろうか。
そう思うと、なんだか情けなさやら怒りやらが込み上げてきて、胃の底が沸々と熱くなるのを感じた。
「あの、そういうの大丈夫なんで」
努めて冷静に、済ました顔で、手のひらを前に突き出した。
こういう時は、できるだけ相手のペースに乗せられないのが肝要だと、一時期熱心に読んだ本の中に書いてあった。ような気がする。
「いやいや、悪いけどね、君が大丈夫かどうかなんて関係ないから」
しかし男も負けじと言い返してきた。
「四年に一度、こっちで人員整理みたいなのをするんだよ。地球の人間からランダムに何人か選んで、死んでもらうの。ほら、君たちもよくするでしょ。年末の大掃除。あれとまぁ似たようなもんだよ」
「四年に一度って、ワールドカップじゃないんだから」
「いやぁ、そこはオリンピックでしょぉ」
男のやたらと馴れ馴れしいこの口ぶりも、こっちの懐にうまく潜り込むためのマニュアルだろうか。
騙されるもんか。
「すみません、ぼく、サッカー党なんで」
ドイツ代表のファン歴二十有余年。我がドイツ代表はひと月ほど前に欧州予選を首位で突破し、来年に控えた2014年ブラジルワールドカップへの出場を決めたばかりだった。
本当は現地に行って生で試合を観戦してみたいけど、しかしまぁ、時間的にも金銭的にもそれは不可能だろう。なんにせよ、来年の六月から七月にかけては寝不足でフラフラになっているに違いない。ドイツが早期敗退でもしない限り、の話だけれど。
「ふぅん、まぁどっちでもいいよ。とにかく君は選ばれたから、死ぬしかないんだ。君に選択権はないよ。今日から数えて五日目、だからつまり四日後だね。四日後に君は死ぬ。これはもう決定事項。オーケー?」
「何十億人もいる地球の人間の中からぼくが選ばれた? しかもランダム? すごいな、今なら宝くじで一等を当てられそうだ」
すぐに捕まるアホな詐欺師だって、もう少しマシな嘘をつくだろう。ところがこの男の話はそれ以下。荒唐無稽すぎて、なんだか哀れみさえ覚えてくる。
「まぁ、正確には100%ランダムってわけではないんだけどね。やっぱり、こっちも社会の損得を考えるわけよ。だから、そうだな……たとえば力のある政治家だったり、大金を稼ぐスポーツ選手なんかは基本的には選ばれない。選ぶ前にこっちで候補から弾いておくんだ」
「……つまり?」
「つまり、選ばれるのは君みたいに、何でもない人間だけ」
「はっ、ひどい言われようだ」
怒りを超えて、思わず笑ってしまう。たしかにぼくは男の言う通り社会になんら得をもたらさない無益な人間、まさに何でもない人間なのだろう。
とはいえ、だからといって相手の口車に乗せられ、壺やら教材やらをつい買ってしまうほど愚かでもない。
「だけど、さすがにそれじゃあ可哀想だってことで、君みたいに選ばれた人間には必ず救いの手が一本、差し伸べられる決まりになっている」
男が言う。
そら来た。
荒唐無稽な騙し文句のわりには典型的なやり口じゃないか。
そうやってこいつらは救済という言葉をチラつかせ、相手から金を巻き上げ、最悪の場合はその人の家庭さえをも崩壊させるのだ。
「救いの手って?」
ぼくは訊ねながら、手元のコーヒーカップを慎重に掴んだ。
おめでとうと言わんばかりに両手を広げる男の返答次第では、カップの中身をぶちまけてやるつもりだ。
飄々とした顔面にコーヒーを浴びせて、狼狽する男の姿を見るのも面白いかもしれない。
「たとえば、それこそ今日のロトの当選番号を君にこっそり教えてあげることもできるし、君好みの女を用意してあげることもできる」
「随分と低俗な救いだな」
と、そう言って鼻で笑うぼくはすでに敬語を使うのも忘れている。
「ま、すべては君の希望次第だよ」
「まるで君が神であるかのような言い方だ」
「近からず、遠からずってところかな」
男はニヤリと片側の口角を吊り上げ、目を閉じ、眉を浮かせた。元からしてそういう性格なのか、これも一つの演出なのか。喋れば喋るほど、いけ好かない男だ。
「なにか証拠はあるの? 君の言葉を信じるに足る証拠は」
「証拠? 証拠、証拠……、んー、証拠ねぇ」
男は自分の指先で顎をトントンと叩くようにしながら、辺りをキョロキョロと見渡した。
なにをするつもりなのか、しばらくして隣の席の女の子二人に当たりをつけると、彼は指を鳴らして立ち上がり、彼女たちのテーブルに一歩、体を寄せた。
「え、やば、ちょ、なんですか?」
いきなり近づいてきた見知らぬ男に、互いに向き合って座る女の子二人は同じ方向に体を仰け反らせた。怯えているというよりは、怪訝な顔だ。手にしていたスマホで今にも110番を押してしまいそうな雰囲気でもある。
その直後、だった。
突然、男が口をすぼめて肺いっぱいに息を吸い上げ、それを目の前の女の子二人にめがけて吐き出した。
「あああああああああああああ!」
コンクリートに打ちつける豪雨のような、けたたましい声。
いや、本当に声だったかどうかも正直、分からない。
ただ男の口から発せられているだけで、ほとんどそれは爆発音や破裂音のようなものだった。
当然のように辺りは一瞬にして静まり返った。
周りの人たちの視線が一斉に男に集中する。やがて海が引き潮から満ち潮に移りゆくように、戸惑いと好奇と嫌悪の入り混じった声が少しずつ店の至るところから生まれはじめた。
───なになに。
───やばくない?
───酔っ払い?
───警察に電話した方がいいかも。
目の前の女の子たちはというと、目を見開いて呆然としている。
ぼくは決して正義感のある人間ではないけれど、とはいえすぐ隣で女の子二人が不審者に絡まれているのに、見て見ぬふりをするほど薄情な男でもない。
「いい加減にしないか!」
テーブルを叩いて立ち上がろうとした、次の瞬間───
しかし、思いも寄らない出来事が、ふたたび起きた。
目を見開いて呆然としていた女の子たちがフッと表情を和らげ、まるで何事もなかったかのように、スマホをいじりながら自分たちの会話を再開させたのだ。
彼女たちだけではない。
周りにいた他の客たちも同様だった。
直前までの戸惑いと好奇と嫌悪はどこへやら、今の一瞬だけを記憶の中からハサミで切り取り、そのまま前後を繋げたみたいに、何事もなかったかのように自分たちの活動を再開させている。
───いや、違う。
彼らにとっては、本当に何事もなかったのだ。
男が叫んだという事実を知っているのは、ぼくだけだった。
「ま、こういうことだよ」
ぼくの方に向き直り、得意げな顔で肩を浮かせる男はやがて、着ている緑色のサマーセーターを店内の観葉植物に同化させていくように、天井のシーリングファンの緩やかな風に吹かれて、静かに消えた。
◇
やや経って、楓がトイレから戻ってきた。
彼女は少し前まで男が座っていた椅子に腰を下ろすと、すぐに正面のぼくの異変に気が付いたようで、
「ん? どうしたの?」
「……え? いや、ううん、なんでもない」
表情が歪んだまま強張っているのが自分でも分かった。無理やり笑みを取り繕ってはみるけど、うまく笑えている自信はない。
「なに、もしかしてお腹痛くなっちゃった?」
「別にそういうわけじゃ……」
ぼくは弱々とかぶりを振って、楓がいま出てきたばかりのトイレの方を一瞥した。
「あの……さ……」
と、なぜか無意識に声をひそめている。
「トイレに入ってる時、なんか、店の方から大きな声とか、聞こえなかった?」
「大きな声?」
楓はキョトンとした目で首を傾げた。
「いや……ごめん、やっぱなんでもない」
「なにそれ、気になるなぁ」
不満げに頬を膨らませる楓に嘘をついている様子はない。
本当になにも聞こえなかったのだろう。周りの客たちも相変わらず、普通にそれぞれの会話と食事を楽しんでいる。
───訳が分からない。
さっきのアレは一体なんだったのだろう。
───ぼくだけに見えた幻覚?
いや、それにしてはあまりに映像が鮮明だったし、内容も荒唐無稽ではあるけれど、嫌に具体的だった。
───今のこの状況自体が夢の中ということは考えられないだろうか。
そう、ぼくは今、自分のベッドの上で夢を見ているのだ。
───いや、どうやらそれもなさそうだ。これは明らかに現実だ。
ということは、つまり―ぼくは本当に四日後に死ぬ?
───まさか、そんなのありえない。
───ありえない?
だけど、ありえないことが今まさに目の前で起きたじゃないか。
じゃあ、ぼくは、本当に死ぬのか。
四日後に、楓をひとり残して、ぼくは本当に……。
頭の中でいろいろな言葉と感情が、いろいろな方向から無軌道に、混沌と飛び交っては消えていく。
脳の許容量を遥かに超えた現実に、ぼくは今にも体の穴という穴から煙を吹き出してしまいそうだった。
今朝まであった普通が、幸せが、自分の内から外にボロボロとこぼれ落ちていく。
削ぎ落とされていく、毟り取られていく。
あの男に、
目には見えないなにかに、
迫り来る死に……。
いやいや、そんなわけがないだろう。そんなわけが……、そんな……。
「楓っ……」
長いあいだ息を止めていたみたいに、声が弾んだ。
「なに?」
「……コーヒー、この店、コーヒーの二杯目が無料なんだってさ。おかわり、する?」
「じゃあ……もらおうかな」
心配そうに眉を垂らしてぼくを見てくる楓のその視線から逃れるように、ぼくは奥にあるレジに向かって、重たい腕を持ち上げた。
◇
その後、楓は自分のチーズケーキを美味しそうに平らげたけれど、ぼくはそれ以降、喉が締め付けられたような息苦しさを感じて、自分のタマゴサンドを半分も食べられなかった。
口の中に残ったコーヒーの余韻だけが、店を出たあとも尚、動揺するぼくの心を辛うじて宥めてくれた。
気付けば明治神宮前から電車に乗って、自宅の最寄り駅で降りていた。
いつもなら楓がぼくの腕に腕を巻きつけてくるのに、今日は逆。ぼくが楓の腕に、腕を絡ませている。
迷子になるまいとする子供のように。彼女の実存に身を依りかけるように。
もう片方の手でスマホを取り出し画面を見ると、時刻は昼の一時を少し過ぎていた。
店からこの駅までの数十分が、今のぼくにはほんの一瞬のようにも、何時間、何十時間のようにも感じられた。
駅前の商店街を楓と二人で歩いた。
道中、コンビニでチョコレートとポテトチップスを、それから精肉店でコロッケとメンチカツをそれぞれ二つずつ買った。
というより、楓がいつのまにか買っていた。歩きながら、他になにか必要なものあったっけ、と訊かれたような気もするけれど、それになんと答えたかは覚えていない。
商店街を抜けた先、住宅街に入ってすぐの丁字路に面した場所に、ぼくたちのマンションは建っている。
エントランスをくぐり、エレベーターに乗った。内側の液晶パネルの数字が1から2、3へと変わっていくのを呆然と眺めていると、ぼくよりも少しだけ背の低い楓が、下からぼくを覗き込むようにして声をかけてきた。
「どうしたの?」
「……え、なに?」
「なんか、店を出てからずっと、心ここに有らずって感じだけど」
四階で止まり、エレベーターの扉がチンと開いた。
外廊下を歩きながら、店では元気そうにしていたのに……とひとりごちる楓の背中に、ぼくはただならぬ嫌な予感を覚えた。
あるいは元々予感していたものが確信に変わったと、そう表現した方が正しいかもしれない。
「……楓、あのさ」
「なに?」
楓は玄関の前で部屋の鍵を取り出そうとバッグをまさぐりながら、鼻から息が抜けるような気のない声で返事をした。
彼女がそんな反応なのは、これが彼女にとってはありふれた日常の一部でしかないからだ。
だけど、ぼくにとっては、もう違う。
ぼくは今、今までの日常とは歴然と切り離された非日常の世界に立っている。
「今から変なことを言うから、変だと思ったら正直に変だと言ってくれ」
「変だよ」
「いや、今のはまだ違う。今から」
「なにそれ」
「いいから、お願い」
「うん……、なに、なんか怖いんだけど」
「楓、ぼくね」
唾を飲み込む。石でも飲み込んだんじゃないかと思うくらい、喉が痛んだ。
「もしかすると死ぬかもしれない」
「へ?」
楓の眉がポカンと浮き上がる。
そりゃそうだろう。ぼくだって自分でもなにを言っているのか分からなくなりそうなのだ。
「ぼく、死ぬかもしれないんだ」
もう一度、今度は自分の声を自分の耳で確かめるように、ゆっくり、はっきりと言った。
「えっ……と、なに、どういうこと?」
楓の浮き上がった眉が、今度は磁石に寄せ集まる砂鉄のように眉間に向かって歪んでいく。
「さっきのカフェで、変な男にそう言われたんだ」
「……雄馬が死ぬって?」
「そう」
頷き、しばらく黙していると、楓は神妙な面持ちでぼくの表情を見定めたあと、吐息混じりに口元を緩めて、ニコリと笑った。
「大丈夫だよ。雄馬は死なない」
「でも……」
「大丈夫大丈夫。死なない死なない」
「でも、さっき本当に言われたんだ。変な男が急に来て、君は四日後に死ぬって……。信じられないかもしれないけど、本当なんだ……」
「別に雄馬の言ってることを信じてないわけじゃないけどさ。それで言うと、逆に雄馬は、その変な男とわたし、どっちを信じるの?」
「それは……」
「ね? わたしが死なないって言ってるんだから、死なないんだよ」
「……」
「雄馬が死ぬわけない。だから、大丈夫だよ」
「そう……だよね」
なんだか途端に、身が軽くなった、ような気がした。
彼女の言う通りだ。
あの男がどれだけ御託を並べようとも、楓の確信に満ちた一言には敵わない。
そんな当たり前のことを、ぼくはどうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう。
そうだ。ぼくは死なない。
楓が死なないと言うのだから、
ぼくは死なないのだ。
「───なに?」
楓が取り出した鍵を玄関の鍵穴に差し込みながら、数秒前とまったく同じ、鼻から息が抜けるような気のない声で言った。
「え?」
「ん? 今なにか言おうとしなかった?」
「なにかって……」
瞬間、全身の皮膚が一斉に粟立つのが分かった。
自分の体重に耐えきれず、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
楓も、知らない───。
「無駄だよ、無駄無駄」
後ろから、ぼくを小馬鹿にするような声が聞こえた。
振り返ると、緑のサマーセーターを着たあの男の姿が、潤んだ視界の真ん中にぼんやりと霞んで見えた。
【第二話】●わたし●1
https://note.com/ustio_de_vol/n/n3e7ba53b4d7a
【第三話】◯ぼく◯2
https://note.com/ustio_de_vol/n/nd7a2d666d52b
【第四話】●わたし●2
https://note.com/ustio_de_vol/n/n790958c70c16
【第五話】◯ぼく◯3
https://note.com/ustio_de_vol/n/n9b2ecf627915
【第六話】●わたし●3
https://note.com/ustio_de_vol/n/n6062b6126ff4
【第七話】◯ぼく◯4
https://note.com/ustio_de_vol/n/n8e6eec0f278a
【第八話】●わたし●4
https://note.com/ustio_de_vol/n/n46f475c95bdf
【第九話】◯ぼく◯5
https://note.com/ustio_de_vol/n/n238e9f982888
【最終話】●わたし●5
https://note.com/ustio_de_vol/n/n37f48a81fc31
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