【第七話】◯ぼく◯ 4

◯ ぼく ◯





 夢の中で、ぼくは知らない部屋で知らない男と話していた。

 もちろん、いつものように記憶に留まらない刹那的な一連の夢を見たあとで、だ。

 知らない部屋の、知らないダイニングテーブル。食事中だろうか。向かいに座る知らない男がナイフとフォークを手にして、ぼくに笑いかけている。なにやら楽しげなのは分かるが、声は聞こえない。

 男がキッチンで皿を洗いはじめる。ぼくもそこに少し遅れて合流し、二人で肩を並べて皿を洗う。

 洗剤の泡が男の鼻先についていたので、それを取ってあげると、男はニコリと目尻に皺を作って、ありがとうと口を動かす。

 ソファに座ってテレビをつけると、ちょうどサッカーの試合が始まろうとしている。

 ピッチに立つ選手の顔は判然としないが、画面左上に表示された点数表には、「ドイツ」の三文字がある。

 ドイツ代表の選手がゴールネットを揺らす。まもなく審判が片腕を掲げて、ノーゴールの判定を下す。どうやらオフサイドだったらしい。

 テレビの前で落胆するぼくの隣で、男もがっくりと肩を落としている。

 場面が変わる。

 ぼくは小さな公園にいて、小さな子供とサッカーボールを蹴っている。可愛らしい男の子のようだが、やっぱりこの子にも覚えはない。

 子供の傍らにはキレイな女性が立っていて、必死に足を動かす子供の姿を優しい目で見守っている。

 やがて三人で近くのアイスクリーム屋さんに立ち寄り、それぞれのアイスを取っ替え引っ替え食べ比べる。男の子は自分のよりもぼくのアイスを気に入ったようで、結局はぼくのばかりをぺろぺろと食べる。

 家に帰ると、女性が作ってくれた美味しそうな料理がテーブルの上にズラリと並ぶ。ハンバーグに、サラダに、お椀いっぱいによそわれたご飯。

 だけど男の子はさっきのアイスでお腹がいっぱいらしく、あまり食は進んでいない。もう少し食べたらと促す女性の向かいで、ぼくは部活終わりの高校生のようにがっついている。

 ふたたび場面が転換する。

 ようやく今度は見覚えのある場所。実家のリビングだ。

 ぼくはそこで一人でコーヒーを飲んでいる。なにかテレビを見ているようだが、コンタクトをつけたままメガネをかけた時みたいにぼんやりとしていて、なにを見ているのかは分からない。

 コーヒーを飲み終えると、テレビを消す。ぼくはなぜか少し前からそわそわしている。

 すると、部屋のインターフォンがピンポンと鳴る。ソファから飛び上がり、急いで廊下を渡って、玄関を開ける。

 ドアの向こうに立っていたのは、リュウと、楓と、それから───。





 七時半に設定していたスマホのバイブレーションで目が覚めた。

 またいつもの夢を見ていたようだが、どんな夢だったかは覚えてはいない。

 それにしても、今日が丸一日をフルで過ごせる最後の日だというのに、あまり特別な感慨がないのはなぜだろう。

 すでに昨夜の時点で涙と一緒に、残りの人生に対する下手な希望や期待をすべて捨ててしまったからだろうか。

 期待しても意味はない。

 ぼくは今日とて、これまでの数日間と同様の一日を過ごすしかなく、そこに劇的な「なにか」が起こる余地はない。

 ただひたすら誰にも打ち明けられない暗澹とした気持ちを心にぶら下げたまま、運命によって定められた明日の死に向かって厭世的に生きていくだけだ。

 昨日の夜、文字通り涙が枯れるまで泣き果たしたせいで、まぶたの上が鉛のように重かった。ぼくは目頭を指で揉みほぐしながら、隣の楓を起こさないように、静かにベッドを降りて寝室を出た。

 楓は今日は日中が休みで、夕方の十八時から夜中の一時までバーでの仕事が入っている。

 朝番のぼくはこれから九時に出勤だけど、今日は珍しく早上がりをして、十五時には退勤する予定だった。

 本来なら朝番の勤務時間は十七時までだが、昨日のうちに劇場支配人の影山さんに連絡を入れて、いつもより二時間早く上がらせてもらえることになったのだ。

『───早上がり? 珍しいね、体調でも悪いの?』

 昨日、ぼくからの電話に出た影山さんは、少し意外そうに声を裏返した。

「いや、そういうわけではないんですけど、ちょっと外せない用事ができてしまって……」

『ははぁん、さては彼女だな?』

 御年六十になる影山さんの言動には時折、というかしばしば、典型的な昭和の悪い部分が垣間見えるが、そのほどよい昭和臭さがレトロなミニシアターと絶妙にマッチしていて、ぼくは好きだった。

「まぁ、そんな感じです」

『羨ましいねぇ、まったく』

「すみません……」

『いいよいいよ、枕崎くん、いつもしっかり働いてくれてるから。明日は思い切り楽しんじゃって』

「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」

 寝間着からワイシャツに着替えて、キッチンでコーヒーを淹れていると、コーヒーの香りに吸い寄せられるかのように、楓が静電気を食らったみたいな寝癖頭で起きてきた。

「おはようー」

 まだ半分眠ったままの目をゴシゴシと擦りながら、ヨッとぼくに向かって片手を上げる。

「おはよう。もう少し寝なくていいの?」

「大丈夫。わたしも午前中から稽古場に行くから」

「そっか。楓もコーヒー飲むでしょ?」

「うん、飲みたい。ありがとう」

 楓は欠伸混じりにそう言いながら、いつものダイニングチェアに腰を下ろした。

「あ、そうだ。昨日さ、実家に帰った時に父さんが作ったカップケーキも貰って帰ってきたんだけど、いま食べる?」

「カップケーキ! 食べたい食べたい」

 冷蔵庫から楓の分のカップケーキを取り出し、淹れたてのコーヒーと一緒にダイニングテーブルに置いた。

「どうぞ、召し上がれ」

「おー、いただきます」

 楓はカップケーキを少し千切って口に放ると、んーんー、と咀嚼しながら美味しそうに感嘆した。

 その顔があまりにも愛くるしいのでスマホのカメラで撮影し、父さんのLINEに「カップケーキなう」と送信する。

 やめてよと楓は顔をしかめて文句を言うが、楓は楓でぼくの寝顔の写真をぼくの父さんに送ったりしているので、おあいこだ。

「美味しいでしょ」

「うん、お店に出せるレベル」
 嘘のない目で頷きながら、楓は手にしたカップケーキを半分に割った。
「はい、これ、雄馬も」
 と、そう言って、少しだけ大きい方の片割れをぼくに差し出してくる。

「お、くれるの?」

「もちろん」

「じゃあ遠慮なく」
 昨日ぶりに食べる父さんのカップケーキは、やっぱり美味い。コーヒーと一緒に味わうように飲み込んだあと、ぼくはふと思い出してスマホを見た。
「そうだ、そういえば今日さ、十五時くらいに早上がりできることになったんだけど、その時間、家にいる?」

「十五時かぁ。まぁ、どうせ今日の昼の予定は稽古くらいだから、全然いようと思えばいられるよ。どうして?」

「楓、今日の仕事、十八時からでしょ。その時間までに、ちょっと早いけど二人で夜ご飯でも食べられたらなって」

「家で? 外で?」

「どっちがいい?」

「じゃあ……家で」

「オーケー、じゃあ家で」

 背もたれに掛けていたネクタイを首に締め、ワイシャツの上からスーツを羽織る。貰ったカップケーキの残りを食べきり、コーヒーを飲み干す。

 明日死ぬというのに、ケーキもコーヒーも難なく喉を通ってしまうのが、なんだか妙に可笑しかった。

「なに笑ってるの?」

「ううん、なんでもない」

「今日、かなり冷え込むみたいだよ。コート着ていけば?」

「あー、いや、大丈夫」

 玄関に移動し、沓脱ぎで革靴に足を押し入れる。

 ドアノブに手を伸ばしながら、ふと後ろを振り返ると、楓がそこまで見送りにきてくれていた。

 ぼくはこの間のお返しとばかりに、壁に体を寄りかける彼女の唇にそっと口寄せ、キスをした。





 マンションを出て、最寄りの駅に向かって商店街を一人で歩いていると、視界の隅にマクドナルドの看板が映り、ぼくはふと、まだ付き合う前に楓と二人で新宿のマクドナルドに立ち寄った時のことを思い出した。

「枕崎さん、お願いがあるんですけど」

 今よりもほんの少しだけ若い楓が、トレイの上のポテトを口に運びながら、唐突にそう言ったのだ。

「お願い?」

「わたしのことは、下の名前で呼んでくれませんか? 鬼塚さんって苗字呼びされるの、ちょっと嫌なんです」

「え、どうして?」

「んー、なんとなく」

 今なら分かるが、父親の姓に対する抵抗感とか、嫌悪感のようなものが、きっとこの時の楓にはあったのだろう。彼女と彼女の父親の複雑な関係をぼくが知るのは、この数ヶ月後、ぼくたちが付き合うようになってからのことだった。

「えっ……と、じゃあ、楓……ちゃん? なんか、恥ずかしいな」

「そうですか? でも、下の名前で呼んだ方が話しやすくないですか?」

「だったらさ」
 と、ぼくはやり返すように言った。
「楓ちゃんも、ぼくのことは苗字じゃなくて、名前で呼んでよ」

「えー、雄馬……さん?」

「さんも嫌だ」

「じゃあ、雄馬くん」

「最高だ」

 楓の口から初めて放たれたその音の響きは、今まで聞いてきたどの「雄馬」よりも心地良く、南イタリアの海のように澄んでいて、宇宙から見下ろす地球のように壮麗で、神様の寿ぎのように神聖なものに感じた。

「ふふふ……、なんだか一気に距離が縮まった気がしますね」

 余裕そうに笑う楓とは対照的に、ぼくの心臓はバックバックと、今にも爆発してしまいそうだった。このままでは血管がはち切れてしまう気がして、ぼくはとりあえず気持ちを立て直そうと話題を変えた。

「楓ちゃん……はさ、好きな食べ物はあるの?」

 二人でこうして会うのはこの日が初めて、というわけでもないのに、この期に及んでこんなことしか訊けない自分が情けなかった。と、今でも思う。

「そういえばそういう話、したことなかったですね。んー、わたしは断然、カレーですかね」

「カレー」

 意外とベタだな、と思った。

「あ、カレーって言っても、あれですよ。別にそんな、お店で出てくるような凝ったやつじゃなくて、おうちで作る普通のカレーが好きなんです。多分、お母さんがよく作ってくれてたからかな。雄馬くんは?」

「ぼくは……なんだろ、今フッと頭に浮かんできたのは、親子丼かな」

 母さんが家を出ていったあと、父さんがよく作ってくれていたのが親子丼だったのだ。

 料理を始めたての頃は味も見た目も最悪だったけど、回数を重ねるにつれ徐々に熟達していき、しまいには自分で店を開こうかなと本気で言い出してしまうほどで、そんな父さんの姿がバカバカしくて、だけどちょっと、誇らしかった。

「おー、いいですねぇ親子丼」

「カレーもめちゃくちゃ好きだけどね」

 しばらく経って、楓が突然、
「あっ」
 と小さく声を上げた。下に傾いた彼女の視線を辿ってみると、彼女のトレイの上のポテトが残り二本になっていた。

「どうしたの?」

「はい、これ」

 楓はそう言うと、残りのポテト二本のうち一本を指でつまみ上げ、ぼくのトレイの上にひょいっと置いた。

「え? くれるの?」

「はい、ちょうど二本だったんで」

「あ、ありがとう……」

 ぼくの頭の中で、アルミホイルの上のポップコーンが弾けるみたいに、意味を持たない文字の大群がポンポンと勢い良く弾け飛ぶ感覚があった。その中からなんとかいくつかの文字を掴み取り、それを自分の脳内に並べてみると、完成したのは「好きです」という、たったそれだけの短い文章だった。

 無意識に口を「す」の字にすぼめていた。息を吸い込み、歯の隙間からそれを吹き出すように、その短い文章を楓に伝えようとした、ちょうどその時、しかし間の悪いことに店のカウンターからガシャンと、なにかがひっくり返ったような音が鳴った。

「失礼しました!」

 と、さらにそこに店員の謝罪が鳴り響く。

「どうしました?」

「……いや、なんでもない」

 小首を傾げる楓に、意気を削がれたぼくは弱々と肩を落とした。

 果たしてぼくの一世一代の告白は未遂に終わり、臆病なぼくが改めて彼女に告白するのは、この日からさらに数ヶ月経ってからのことになるのであった。





 なんでもない平日の木曜日だというのに、今日の『シネマ・グリュック』は開館から多くのお客さんで賑わっていた。

 先週金曜日に封切られた新作のフランス映画が、昨日のワイドショーで取り上げられたからだ。名うての映画評論家がその番組内でこの映画を絶賛し、それがフェイスブックやらツイッターやら最近流行りのSNSで拡散されたのだ。

 映画館としては嬉しい悲鳴ではあるけど、従業員側のシフトは映画が話題になる前にすでに組んでしまっていたため、出勤しているアルバイトの頭数も客入りに対して圧倒的に足りておらず、そのせいでぼくも朝から社員としての仕事はそっちのけ、ロビーのカウンターに出突っ張りになってしまった。

「いやぁ、すごいねぇ。平日にこんなお客さんが入るなんて、グリュック始まって以来、初めてなんじゃないの」

 ロビーの賑わいを見に事務所から出てきた影山さんが、雪だるまみたいな体を揺らして嬉しそうに笑った。

「すみません、こんな日に限って早上がりなんて」

 のっぴきならない事情があるとはいえ、この稀に見る忙しさの中、途中で仕事を抜けてしまうのは、やっぱり忍びなかった。

「本当だよ。普通だったら即刻クビだよクビ」

「はい……」

「なんてね。ウソウソ。多分、来週もこんな感じが続くだろうから、その時また頑張ってくれたらいいよ」

「はい……」

 こうべを垂らして曖昧に頷く。

 その来週にはもう、ぼくはこの世にはいないのだ。

 そう思うと暗澹とした気持ちの重量が、心の中でテトリスのちぐはぐなブロックが積み重なっていくみたいに、さらに増えた。

「あれ、枕崎くんって、明日も入ってるよね?」

「はい、朝番です」

 明日も朝の九時から夕方の十七時まで仕事が入っている。いつどのタイミングで死ぬのかは分からないけど、今のところ、そうなっている。

「明日もこんな感じだろうね。ワクワクしちゃうね」

「そう……ですね……」

 ぼくは、できるだけ自然を装い、控えめに笑った。

 館内に二つあるうちの一つのスクリーンで上映していた邦画がまもなくエンドロールを迎える時間になったので、カウンター業務で手が離せないアルバイトの子たちに代わって、ぼくが劇場スクリーンの中に入った。

 これも従業員の仕事の一つで、上映終了数分前になると係が劇場スクリーン内に入り、映画が最後まで無事に終わるのを見届けてから、明転と同時に扉を開けて客のスムーズな退席を促していくのだ。

 扉の内側にひっそりと佇みながら、暗くなったスクリーンの上を映画のキャストやスタッフの名前が滑るように流れていくのを、じっと見つめた。

 邦画らしいしっとりとしたBGMに乗って、数えきれない量の人の名前が、永遠に続くのではないかと思えてしまうほどに長々と、もったいぶるかのように、流れていく。

 何気なく、ぼくはそこに自分の名前がありやしないかと目を走らせた。

 もちろんあるはずはないのだけれど、もし仮にぼくが映画の制作に携わった人間の一人で、そこに名前があったとしたら───ぼく自身でも気付かないくらいの小さな文字でそこに書かれた「枕崎雄馬」の名前を見つけてくれる人は、果たしてぼくの周りにはどれくらいいるのだろう。

 楓や、リュウや、父さんは、ちゃんとぼくの名前を見つけてくれるだろうか。

 エンドロールが終わり、劇場スクリーン内が明転した。

 こちらはテレビで紹介されたフランス映画ではないので、通常の木曜日らしく客入りはまばらだ。

 両手で数えきれる程度のお客さんたちが、それぞれコートを着直したり、欠伸や屈伸をしたりしながら、一人、また一人と開け放たれた扉を抜け出ていく。

 満足そうな顔をする人、不満そうな顔をする人、眠たそうな顔をする人、その全員にぼくは頭を下げて、「ありがとうございました」と言う。

 中にはわざわざぼくの前で足を止め、「面白かったよ」と言ってくれる人もいて、それを言われると、ぼくはまるで自分のことのように嬉しくなる。

 スタッフロールの端のところに、自分も少しだけ加われたような気持ちになる。

「……あれ? この映画、君そんなに好きなの?」

 最後に出てきたお客さん、毎週のように映画を観にきてくれる常連の中年男性が、下げていた頭を上げたぼくの顔を見て、クスリと笑った。

「え?」

「だってほら、君、泣いてるから。エンドロールを見て泣いちゃったんじゃないの」

 咄嗟に自分の目元に指を当てると、たしかに片方の目頭から、昨日ですっかり枯れ果てたと思っていた涙が一筋、頬に向かって流れ落ちていた。

「泣いて……ますね、ははは、あれ、おかしいな」

「おかしくなんかないよ」
 男性は言った。
「この映画、すごくいい映画だったから」

「……そうですよね、ありがとうございます」

「じゃあまた」

「はい、またお待ちしております」

 苦笑混じりにふたたびお辞儀をしながら、ぼくはこの時、昨夜の日記にすべて吐き出し捨てたつもりでいた生への渇望が、まだ自分の中に残っていることに気が付いた。

 なんだ、やっぱり───。

 どうやらぼくは、まだまだ死にたくないらしい。

 まだまだずっと生きていたいのだ。

 だけど、迫りくる明日の死からは、どうしたって逃げられない。

 それでもやっぱり、死にたくない。

 生きていたい。

 少なくとも、明日死ぬために今を生きていたくはない。

 顔を持ち上げ、目頭をこする。

 涙はなおも流れている。

 ずっと保留にしていた最後のお願いを、緑のサマーセーターを着たあの男に叶えてもらうぼくの願いを、ぼくはようやく、見つけたような気がした。





『今日、カレーにしようか』

『いいね〜、材料買っとこうか?』

『帰りにぼくが買って帰るよ』

『は〜い』

 予定通り十五時で仕事を切り上げ、シネマ・グリュックをあとにしたぼくは、商店街でカレー粉やら鶏肉やらジャガイモやら玉ねぎやらトマト缶やら、カレーの材料になりそうなものをひと通り買って帰宅した。

 玄関を開けると、風呂場の方から新しいシャンプーの香りが漂ってきた。どうやら楓も少し前に帰ってきたばかりだったらしい。

「おかえりー」

 風呂上がりの楓がリビングのドアから少しだけ顔を覗かせる。首元がだるんだるんに弛んだアニメTシャツを着ている。

「ただいまー」

 ぼくは言いながら、食材でいっぱいになった手提げ袋を顔の横まで持ち上げた。

「おー、重かったんじゃない? ありがとう」

「いえいえ。先にぼくも着替えてくるね」

 キッチンに手提げ袋を置いて、寝室に入る。スーツを脱ぎ捨て、部屋着に着替える。ぼくの服の首元も、すっかりだるんだるんになっている。

 キッチンに戻ると、すでに楓が料理の準備に取りかかっていた。

 ぼくもそこに合流し、使う順番に食材を袋の中から取り出していく。

 鍋にオリーブオイルを敷いて、刻んだニンニクや玉ねぎを炒める。そこに鶏肉を加えて、トマトも加えて、全部ごちゃ混ぜにして、さらに炒める。スパイスの一つには昨日、父さんから少し分けてもらったカルダモンを使った。

「そういえば、わたしが初めて雄馬の家に遊びに行った時も、こうやって二人でカレーを作ったよね」

 グツグツと徐々に完成に近づいていくカレーの鍋を見守っていた楓が、ふと思い出したように顔を上げた。

「あぁ、そういえばそうだったね」

 付き合いはじめてまだ間もない頃だから、五年くらい前のことになる。その日はたしか、都内で久しぶりに積雪が観測された、冬の寒い日だった。

「───ミラチュ……? なにそれ」

 その日、楓はカレーを食べながら小首を傾げた。

「ミラチュルチンチュング。父さんから教えてもらった魔法の言葉。意志がすべてだって信じて心の底からおまじないを唱えると、唱えたことが現実になるんだ」

「うっそだぁ」

「本当だって。でも、邪な気持ちが少しでもあると成功はしないって、父さんは言ってた」

「雄馬くんは成功したことあるの?」

「んー、あるような、ないような」

 唯一の成功体験を強いて挙げるとすれば、中学生の時のあのマラソン大会だろうか。中止になれ、中止になれと唱えた結果、延期になった、アレ。成功したわけではないけど、半分成功と言ってもバチは当たらないだろう。

「ふぅん、ミラチュルングねぇ」

「いや、ミラチュルチンチュングね」

「わたしもやってみようかな」
 楓は言うと、手にしていたスプーンを一旦皿に戻して、姿勢を正した。
「どんなことを唱えてほしい?」

「宝くじが当たりますように」

「思いっきり邪じゃん」

「じゃあ、この部屋のエアコンが早く良くなりますように」

 というのも、それまでずっと通常に稼働していたエアコンが、この日に限って途端に言うことを聞かなくなってしまっていたのだ。おかげでぼくも楓も狭い部屋で身を寄せ合って、肩に一枚の毛布を掛け合いながら、凍えるようにカレーを食べる羽目になった。

「よし、じゃあそれにしよう」

 楓はぺろりと唇を舐めると、目を閉じ、神に祈るように両手を絡ませ、ぶつぶつとミラチュルチンチュングを唱えはじめた。

 エアコンが直りますように、エアコンが直りますように。

 しばらくして彼女は満足したように息を吐き出し、目を開くと、テーブルの上のリモコンを手に取り、暖房のボタンを「えいっ」と押した。

「どうだ……?」

 大袈裟に固唾を呑んで見守るぼく。楓もふたたび両手を絡ませ神に祈っている。

 シンとした空気が部屋を伝う。エアコンはピクリとも動かない。音も出ないし、ランプも点灯しない。

 しばらく経ってもなにも起きず、そりゃ無理だよなと諦めかけた、その時だった。

 突然、部屋の壁面からタンタラ、タンタラ、タラタラタラララ……と軽快なカノンの旋律が鳴り響いた。

《お風呂が沸きました、お風呂が沸きました》

 お互いに丸くなった目を見合わせ、それから二人して、ドッと笑った。

「ははは、なにそれ、たしかにあったかくはなるけど」

「そうきたかぁ」
 一本取られましたとばかりに楓は唸り、
「でもさでもさ」
 とぼくの右肩に自分の左肩をすり寄せた。
「このくらいが結局、ちょうどいいのかもね。大それた奇跡より、身の丈に合った小さな、だけどやっぱり嬉しい、そんな奇跡がちょうどいいんだよ」

 当時の記憶を思い返しながら、ぼくたちは出来立てのカレーをテーブルに並べ、向き合う色違いのダイニングチェアに腰を下ろした。

「いただきます」

 楓がいつものように両手を合わせ、

「いただきます」

 と、ぼくもそれに倣って両手を合わせた。スプーンを手に取り、温かいルーと炊きたてのご飯を口いっぱいに頬張る。随分と久しぶりの家カレーだが、なかなか美味しく作れたような気がする。

 こうやって楓と二人で食べていると、家で作るカレーが好きだと彼女が言う理由がよく分かる。

 家で作るカレーには、お店の完成されたカレーでは決して味わうことのできない奥行きがあるのだ。材料を買って、一緒に作って、それを食べる。その工程こそが、家カレーの美味しさの秘訣というのか、いわば真髄なのだろう。

「美味しい?」

 食べながらぼくが訊ね、

「うん、はいほう」

 楓も食べながら破顔し、

「最高か。よかった」

 ぼくも釣られて相好を崩す。

 考えてみると、どれだけ不本意であっても、自分の最後の晩餐が大好きな人の大好物というのは、もしかするとこの上ない幸せなのかもしれない。と、ぼくは思った。

「そういえば、どうして今日は早上がりにしたの?」

 楓がふと訊ねてきたので、ぎくりとしたぼくは言い訳をするように手元のカレーをスプーンで差した。

「なんか昨日さ、急にカレーが食べたくなっちゃって」

「え、それだけ? さすがカレー。人の行動まで変えちゃうんだ」

 納得するように顔を揺らしてカレーを食べる楓の姿を、ぼくは正面からジッと見据えた。

 正直、なにを食べるかまではそこまで重要に考えてはいなかった。結果的にカレーにして正解だったけど、本当はただ、なんでもいいから、人生最後の夜ご飯を楓と一緒に食べたかっただけなのだ。

「……ねぇ、楓」

 しばしの沈黙のあと、ぼくは一度深呼吸をしてから、改めて楓に切り出した。

 こんなことを話したところで意味がないのは分かっている。期待しても意味はない。この先のぼくの人生に劇的ななにかが起こる余地はない。そんなのは分かっている。

 それでもぼくは、ミラチュルチンチュングだったら───ミラチュルチンチュングを成功させさえすれば、劇的ななにかが起こる余地のないこの現状にも、ささやかな奇跡を起こせるかもしれないと、そう思った。

「なに?」

 楓が口にスプーンを咥えたまま、ぼくに顔を向けた。

「今からぼくが言うことは、多分、楓の記憶には残らない。きっと、いや絶対に、すぐに忘れてしまう。だからこれは所詮、ぼくのエゴでしかない。それは分かってる」

「……? なんの話?」

「でも……、言わせてほしい。今ここで言っておかないと、もう二度と言う機会はないだろうから」

「ん? ごめん、分かんない。どういうこと?」

「楓……、ぼくね、ぼくはね、明日……明日、死ぬんだ」

「死ぬ……って、なに言ってるの? どんな冗談?」

「幸運なことに、楓はぼくのことを好きでいてくれているから、だから……だから、ぼくが死んだら、きっと君は悲しむと思う。落ち込んで、なかなか立ち直れないと思う。そうならなければベストなんだけど、でも、きっとそうなる。だけど……それでもどうか、楓は楓らしさを忘れないでほしい。優しくて、朗らかで、どんなことにもポジティブな部分を見つけることができる、そんないつもの君でいてほしい。ぼくと同じくらい君を大切に想ってくれる人はたくさんいる。だから、その人たちをめいっぱい頼って、自分らしく生きてほしい」

 ぼくが思いの丈を息継ぎもせずに捲し立てるように言いきると、楓は戸惑いながらもぼくの目を見て、コクンとひとつ頷いた。

「……うん、よく分からないけど、分かった」

「よかった。ありがとう。大好きだよ、楓」

 ぼくは無意識に前のめりにさせていた体を椅子の背もたれに寄りかけた。このあとなにが起きるのかは分かっているけど、それでもよかった。

「わたしも、いつまでも雄馬のことが大好きだよ」

 楓は口元に微笑みをたたえてそう言うと、しかし次の瞬間には何事もなかったかのようにキョトンと眉を浮かせて、

「なに? あ、おかわり?」

 と、空になりかけていたぼくのカレーの皿に、手を伸ばすのだった。





『12月5日 木曜 

 昨日はすっかり「日記」を書くのを忘れていたので、とりあえず気を取り直して昨日のことから。昨日は一日休みだった。なので昼は久しぶりに実家に帰った。父さんが作ったカップケーキがおいしくて、相変わらず料理上手だなと感心。夜は楓とリュウとで食事をした。日頃からうまいもんばっか食べてるリュウの行きつけなだけあって、かなりおいしかった。そこでリュウから面白い話を聞いた。人は死んだら、その人の魂は黒いチョウになるのだという。ぼくも死んだら、黒いチョウになるのだろうか。さて、次は今日。今日は珍しく仕事がバタついたけど、影山さんに無理を言って早上がりをさせてもらった。家に帰って、久しぶりに楓とカレー。久しぶりにしては上出来。カレーを食べ終えると楓はすぐに仕事に行ってしまったから、ぼくは今、部屋で一人でこの日記を書いている。この日記を書くのも今日で最後だ。この日記がどれくらい楓に伝わるのかは分からないけど、ほんの少しだけでもぼくの生きた痕跡が残るのであれば、たとえ数日でもこうして日記をつけた意味はあったのだと思う。さて、明日になったらぼくは死ぬ。やり残したことはたくさんあるけど、それが人生というものだ。仮に明日死なずに十年後に死んだとしても、ぼくは今と同じようにやり残したことがあるとぼやくだろう。眠たくなってきた。そろそろ寝よう。今日はどんな夢を見るのだろう。良い夢だったらうれしいけど、まぁどんな夢であれ、明日の朝、楓が隣で寝ていてくれれば、それだけで十分、幸せだ』



「───ねぇ、最後のお願い、決まったよ」

 書き終えた日記を寝室の棚に押し込み、ベッドのふちに腰を下ろして、手持ち無沙汰に部屋のインテリアをいじる緑のサマーセーター男に声をかけた。

 夜の十九時を少し過ぎている。楓はもう働きはじめただろうか。帰ってくるのは夜中の二時頃だろうけど、それまで起きていられる自信はない。

「お、ようやくか。なになに?」

 男は嬉しそうにパッと顔を広げて、ぼくの隣に座った。

「記憶を、消してほしいんだ」

「ん? 記憶?」

「そう。明日ぼくが死ぬっていう記憶を、ぼくの頭の中から消去してほしい」

 記憶の消去。それが、ぼくがこの数日間でようやく導き出した、最後のお願い。

 この男に死の宣告を受けてからというもの、死という突如可視化された非日常の中で、ぼくは嫌というほど生について考えた。きっと死を自覚していなかったら、こんなに深く、真剣に自分の死について考えることはなかっただろう。

 でも……いや、だからこそだ。

 自分に残された最後の一日を、今のこの非日常の中で終えたくはなかった。

 それよりも、たとえそれが没個性的な日常に埋もれた、ありきたりな時間であっても、それを無垢な気持ちで、明日への希望を抱きながら浪費する。それこそが今を生きる人間に与えられた最大の贅沢なのだと、ぼくは思うのだ。

 死ぬということは、生きるということである。でも、生きるということは、死ぬということではない。

 ……なんて、リュウに憧れて少し詩的な言い方をしてみたけれど、だけど実際、人生の真理というのは結局そこにあるような気がした。

「そんなんでいいの?」

 男が拍子抜けしたように目を丸めた。散々悩んだ挙句に導き出した答えがそれかと呆れているのだろうか。

「うん。いい。それくらい簡単でしょ?」

「んー、まぁ正確には、その人の頭の中から完全に記憶を消去することは俺にもできないんだけど、一時的に忘れさせてあげることは、できる」

「なにがどう違うの?」

「そもそもね、人間っていうのは記憶を消去できる生き物じゃないんだ。みんな、ただ一時的に忘れているだけで、頭の中から記憶というものが消え去ることは決してない」

「でも、一時的と言ったって、死ぬまで思い出さない記憶もあるでしょ」

「俺に言わせれば、人間の誕生から死までの時間なんて、一時的な瞬間に過ぎない」

「ふぅん」

 相変わらず、よく分からない。

「だから、君の中にある『明日の死』という記憶も、明日君が死ぬまで一時的に忘れさせてあげることは可能だ」

「どっちでもいいよ。どちらにせよ、ぼくにとっては同じことだ」

「本当にそれでいいんだね?」

「うん、よろしく頼む」

「オーケー、じゃあ、そういうことで」

 男はいつも通りの軽薄な口ぶりでそう言うと、パチンとひとつ指を鳴らして、部屋を出ていった。

 誰もいない寝室で、ぼくはベッドに体を倒した。なんだか嫌に眠たいのは疲れているからだろうか。今日のグリュックは稀に見る忙しさだったから、それもまぁ仕方ない。

 楓が帰ってくるまで起きていたいけど、きっと無理だろう。少しだけ寝て、また二時頃になったら起きてみようか。

 ……いや、やめておこう。

 これまでの経験上、中途半端に寝て起きてしまうと、明日の仕事に影響が出てしまう。ただでさえ今日は自分勝手な理由で早退させてもらったのだから、明日は今日の分まで頑張らなくては。

 それにしても今日のカレーは美味しかった。この幸せな満腹感が今の猛烈な睡魔の一因かもしれない。

 とりあえず今日はこのまま寝よう。

 よし、そうしよう。

 それで明日の朝……、目が覚めた時に、隣で寝ている楓に「おかえり」と「おはよう」を一緒に……言えば、それで…それだけで……───。




この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?