【第八話】●わたし● 4




 黒い、大きな蝶が飛ぶ夢を見た。

 その黒蝶はヒラヒラと空気を掻くように羽を動かしながら、自らの体を淡く光らせ、暗闇の中を飛んでいた。

 夢の中で今わたしがどこにいるのか、目の前の黒蝶がどこに向かって飛んでいるのか、それはなにも分からない。

 だけど、なんだかとても、懐かしい感じがした。

「雄馬ッ!」

 わたしはその黒蝶に向かって、なぜか雄馬の名前を呼んでいた。

 もちろん黒蝶はわたしの方には振り返らない。

 振り返らないまま、ひたすら前を目指して飛んでいく。こっちだよ、と言われているような気がした。そこにいちゃダメだよ、と言われているような気もした。

 やがて黒蝶の行く先に、チカチカと小さな光が瞬いているのが見えた。その光に向かって歩いていると、光の奥に、今度はぼんやりとした人影が浮かび上がってきた。

「雄馬ッ!」

 わたしは叫ぶ。だけど黒蝶は振り返らない。

 人影が次第に輪郭を鮮明にしていく。

 光が強くなっていく。

 人影に向かって腕を伸ばす。

 黒蝶が光に吸い込まれていく。

 人影と黒蝶が一つになる。

 一つになった人影に、伸ばしたわたしの指先が触れる。

 すると、パチンと小さな泡が弾けるように光が飛散し───気付けばわたしは、ひたすら真っ暗な闇のど真ん中に、たった一人で立ち尽くしていた。

───楓

 誰かに名前を呼ばれて、後ろを振り返ろうとした、その瞬間……。得体の知れない奇妙な夢は唐突に終わり───わたしはベッドの上で目を覚ました。

 なんとも形容しようのない、不思議な夢だった。どんな夢よりも夢らしい夢なのに、どこか夢とは思えぬ現実感があった。

───あの黒蝶は、本当に雄馬だったのだろうか。

 だとしたら雄馬は、わたしをどこに連れていこうとしていたのだろう。

 上下する胸元が汗ばんでいた。

 七月も中盤に差しかかり、セミたちの鳴き声も熱を帯びはじめている。夏の暑苦しさの原因の大半はこのセミの鳴き声にあるのではないかと思うくらいに、起き抜けの耳には居心地の悪い騒音だ。彼らが黙ってくれれば、二、三度くらいは気温も下がるような気がした。

 今日は日曜日だけど朝から図書館の仕事が入っているため、わたしは起きるとすぐにシャワーを浴びて、Tシャツにジーンズと身支度を整えた。

 仕事のあとは、久しぶりに雄馬の実家を訪ねる予定になっていた。去年の雄馬の命日以来、およそ八ヶ月ぶりの訪問になる。というのも、数日前にリュウくんに言われたあの一言がずっと胸に引っかかっていたのだ。

「楓ちゃんの環世界にはまだ、雄馬がいるんだよ。もう実体として存在はしていないけど、間違いなくそこにいる」

 だとすると、その感覚を掴みきれていないわたしはまだ、本当の意味で雄馬の死と向き合えていないのかもしれない。

 不意に生じたそんな疑念は時間が経てば経つほどに膨張し、そしてとうとう昨夜遅く、わたしは居ても立っても居られなくなって、LINEで誠司さんに連絡を入れたのだった。

『明日、少しそちらにお邪魔してもいいですか?』

 誠司さんからの返信はすぐに来た。

『もちろんだよ。ちょうどさっきシフォンケーキを作ってみたところだったから、食べにくるといい』

『シフォン、いいですね。それじゃあ、明日の夕方頃にお伺いします』

『はーい、待ってます』

 仕事を終えたわたしは図書館を退勤したあと、そのまま新宿駅から電車に乗って、誠司さんのマンションへ向かった。

 しばらくして降りた駅からバスに乗り換え、一番後ろの座席シートに腰を下ろすと、車窓から大通り沿いのビルに掲げられたマクドナルドの看板がチラリと見えた。十年前からそこにあるマクドナルドだ。一階の店の入り口が開き、中から大学生くらいの若い男女が出てくるところだった。仲睦まじげに手を繋ぎ、二人とも幸せそうに笑っている。

 ふと、まだ付き合う前の雄馬と二人で、新宿のマクドナルドに立ち寄った日のことを思い出した。

 下の名前で呼んでくださいとわたしから提案した時の、あの胸のバクバクは今でも鮮明に覚えている。あの時の勇気の入りようは尋常じゃなく、緊張のし過ぎで頭が真っ白になって、自分でもなにを言っているのか、よく分からなくなっていた。

「えっ……と、じゃあ、楓……ちゃん?」

 初めて雄馬に名前を呼ばれた時の、あの多幸感。

「じゃあ、雄馬くん」

 初めて雄馬のことを下の名前で呼んだ時の、あのときめき。

 決して色褪せることのない記憶にさまざまな思いを馳せているうちに、いつのまにかわたしは目的のバスの停留所に到着していた。

 誠司さんのマンション、つまり雄馬の実家は、バスを降りて、そこからさらに幅の狭い道を一分ほど歩いたところにあった。

 正面玄関からエントランスに入り、303号室のインターフォンを押した。すぐに誠司さんが応答してくれて、傍らの自動ドアがウィー……ンと開いた。ドアを抜けてすぐ右手にあるエレベーターがちょうど一階で停まっていたので、それに乗り込む。滑らかな動きで足元から上昇し、三階に着くと、上方のランプがファンッ……と音を鳴らした。

 このマンションは数年前に改築されたばかりで、その改築を機にエレベーターも最新のものに取り替えられたらしい。以前のエレベーターは動くたびに変な音が鳴り、雄馬はそれを囚人の唸り声みたいだと嫌そうに言っていたけど、あの古めかしい感じも、わたしは実は嫌いではなかった。

 303号室のドアホンを押すと、玄関が開き、中からひょこっと、休日だからか少し無精髭を生やした誠司さんが顔を出した。

「おー、いらっしゃい」

「お久しぶりです。突然すみません」わたしはぺこりと頭を下げた。

「言うほどお久しぶりか? ついこの間会ったばっかりでしょ」

「最後に会ったのは、もう八ヶ月も前ですよ」

「八ヶ月前は、もう、じゃなくて、つい、でしょ」

「もう、ですよ。全然もうです」

「そうか? まぁどっちでもいいよ。とにかく、さぁ、入って入って」

 それにしても、初めて会った時から誠司さんはなにも変わらない。わたしのお父さんが会うたびに水風船みたいに膨らんでいくのに対して、歳もほとんど変わらないはずの誠司さんはいつ見ても清潔感があるし(今日はちょっと髭が目立つけど)、良い意味で明るく気さくで、優しい雰囲気が滲み出ていて、まさにこの親にしてあの子ありといった感じだ。

 リビングの入り口ドアから見て正面奥、ベランダに通じる窓辺のところに、それほど大きくはない雄馬の仏壇がある。小さな花瓶に生けられた花は新鮮に色めき、中央の線香立てに溜まった灰も、まだ真新しい。

 ほのかに香る香木の奥に、雄馬の遺影が立てられている。遺影に使われている彼の写真は、十年以上前、わたしが初めてこの家を訪れた際に、雄馬とわたしと誠司さんの三人で一緒に記念撮影をした時のものだ。

 仏壇の前で足を畳み、線香に火をつけ、リンを鳴らした。両手を合わせ、目を閉じる。

 変なタイミングで来ちゃってごめんね。

 目を開け、立ち上がる。誠司さんに促され、わたしはダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。

「今回はね、ニンジンを入れてみたんだ」

 誠司さんが小皿に乗せた自作のシフォンケーキをテーブルに置いた。料理への探究心は相変わらずのようで、オレンジ色の生地から程よく香るニンジンの風味に、わたしの口の中にも自然と唾液がじわりと滲んだ。

「わぁ、美味しそう」

「今日はちょっと……どうだろうな。自信はないかも」

「いただきますっ」

 さっそく小皿に添えられた生クリームをディップし、口に放った。ひと噛みした瞬間にニンジンの独特な甘味が生クリームと溶け合い、口いっぱいに広がっていく。

「ところで」
 と、そこで誠司さんが淹れたてのコーヒーを啜りながら、何気ない口ぶりで眉を浮かせた。
「今日はどうしたの? なにかあった?」

「あ、いえ、別になにかあったわけではないんですけど」
 わたしは口の中のケーキを飲み込みながら、慌てて首を横に振った。
「ただなんとなく……、久しぶりにここに来たいなって思って」

「……そっか」

 含みのある表情で少し思案するように顎を上下させる誠司さん。

 わたしは、なんとなくそこで自分の内心をすべて見透かされた気がして、咄嗟に話題を逸らした。

「それにしても、雄馬はどうしてドイツ代表が好きだったんですかね」

 仏壇にある雄馬の遺影の隣にもうひとつ小さな写真立てが置かれていて、そこに2014年のワールドカップで優勝を果たしたドイツ代表の集合写真が飾られていた。

 雄馬が亡くなったのは2013年の冬だったから、ギリギリのところで彼は大好きなチームの晴れ姿を見逃してしまったのだ。

「あぁ……実はね」
 と、誠司さんはバツが悪そうに口を歪めた。
「俺の元妻が家を出ていったあと、新しい男と移住した先がドイツだったんだ。移住先から俺に当てつけのように送りつけてきたポストカードを見て、あいつはドイツという国を知ったみたいでね。で、その年がちょうど94年でワールドカップの年だった。それ以来、あいつはテレビでドイツの名前を見るたびに、テレビに向かってミラチュルチンチュングを唱えるようになった。お母さんが早く帰ってきますようにってね。それが、あいつがドイツを応援するようになったキッカケなんだよ。まぁ、そのことは雄馬自身も覚えてなかったみたいだけどね」

「そうだったんですか……」

 雄馬のことは誰よりも理解していたつもりでいたけど、それでもまだまだたくさん知らない部分はあるらしい。

 というより、そもそも相手のすべてを知ることなんて、きっと誰にもできやしないのだ。それがどれだけ愛した相手であっても、生きていようが、亡くなっていようが。

「まぁそういう事情もあってか、子供の頃から雄馬はあんまり笑わない子でね。無愛想というわけではないけど、クールというか、控えめというか」
 誠司さんが仏壇の遺影を一瞥する。泣いているみたいに笑う雄馬が、そこに映っている。
「だからね、あんな風にして笑う雄馬を見たのは、あの時が初めてだったような気がするんだ」

「わたしは、何度も見ましたよ。雄馬のあの顔」

 朝起きた時、美味しいご飯を食べた時、ドイツが試合に勝った時、誠司さんやリュウくんの話をする時、そんな時にふと見せる雄馬の笑顔は、わたしの心を何度も何度も癒してくれた。

「多分、楓さんがあいつを変えてくれたんだろうね」

「わたしが、ですか」

「そうだよ。だから俺、あの時みんなで写真を撮ろうって言ったんだもん。こんな貴重な瞬間をカメラに収めないわけにはいかないってね」

「そういえば、そんな感じだったかも」

 わたしが初めてこの家に遊びにきた日、三人で一緒に夕食を食べたあとだった。

 少し酔いの回った誠司さんが突然どこからかデジタルカメラを取り出してきて、「せっかくだから、みんなで写真を撮ろう」と言い出したのだ。

「いいよ、めんどくさい」

 渋い顔をする雄馬を余所に、誠司さんはキッチンカウンターにそさくさとカメラを固定すると、タイマーをセットし、スカイツリーを見物に来た修学旅行生みたいにウキウキと雄馬の隣に体を寄せた。

「ほら、楓さんも」

 パタパタと手招きをして、わたしを雄馬のそばに引き寄せる。

「父さん、酔ってるだろ」

 雄馬が吹き出して笑うその間にも、タイマーのカウントダウンは刻まれていく。

 5───。

「酔ってねぇよ! ほら、二人ともちゃんと笑ってるか?」

 4───

「ほら、確実に酔ってる」

 3───

「だから酔ってねぇって!」

 2───

「これは酔ってますね、間違いなく」

 1───

「いいから、いくぞ! はい、チーズッ!」

 カシャッ!

 乾いたカメラのシャッター音が、その時のわたしたちの一瞬を切り取った。

 後日、誠司さんからスマホのデータで送られてきた写真には、それぞれ二本の指を伸ばして幸せそうな笑顔を浮かべるわたしたちの姿が色鮮やかに映し出されていた。





 夜ご飯も食べていくか、と誠司さんは言ってくれたが、今回はちょっと思うところもあって遠慮させてもらった。

「最近はどう? 図書館の方は」

 キッチンに移動し、新たにお湯を沸かしながら、誠司さんがわたしに訊ねた。二杯目のコーヒーを淹れてくれているのだ。

 まもなくして、新しいコーヒーの香りがもくもくとこっちのダイニングテーブルの方にまで漂ってきた。

「んー、大変なこともあるけど、なんとかやってます」
 わたしは肩をすくめた。
「誠司さんはどうですか? そろそろですよね?」

「あぁ、そうだね。ま、俺もボチボチだよ」

 今年で六十五の歳になる誠司さんは、来年の三月、つまり今年度いっぱいでの定年退職が決まっていた。

 定年後の再雇用も勧められたみたいだが、誠司さんはそれをキッパリ断ったらしい。理由を訊ねると、彼はあっさりと一言、俺はもう十分頑張った、と言った。

 自分で十分頑張ったと思える人生。なんて素敵なんだろうとわたしは思った。

「なにか予定とかはあるんですか? これをしよう、みたいな」

「ううん、なーんにも決めてない。しばらくはのんびりしようかな」

「それがいいと思います。本当に、お疲れ様でした」

「といっても、まだあと半年以上残ってるんだけどね」

「たしかに。でも、すごいことですよ。最後まで働き切るって」

 わたしは空になったコーヒーカップをテーブルに置いて、畏敬を込めて頭を下げた。

 大学を出てから新卒で今の会社に入り、勤続四十年以上。しかも男手ひとつで、雄馬を立派に育て上げながら。

 すごすぎる。

 わたしなんかには到底不可能な偉業を成し遂げた誠司さんにはただただ敬服するしかなく、それと同時に、この世の中にはそれと同じことを平然と成し遂げている人が何人もいるのかと思うと、なんだかゾッとした。

 その人たちは定年まで自分の仕事を勤め上げたという意味でも、定年まで死なずに生き抜いたという意味でも、わたしに言わせればとてつもない奇跡の体現者だった。

「俺は別に、運が良かっただけだよ」

 と、誠司さんは肩をすくめて言った。

「運?」

「そう、俺は運が良かっただけなんだ」

 誠司さんの言う「運」という言葉には、きっと彼なりの、いろいろな意味が含まれているような、そんな気がした。

 やや経って、わたしはここに来たもう一つの目的を達成するため、どうしても思い出せないことを誠司さんに訊ねた。

「ここの近くにある、あのずんぐりした山、なんていう名前でしたっけ?」

 大学の時に雄馬たちと冒険した山。わたしが本当に雄馬の死とまだ向き合えていないのなら、大切な思い出の残るあの山に、もう一度足を踏み入れてみるべきではないか。と、花園神社でリュウくんと別れた頃から、漠然とそう考えていたのだ。

「あ、鐘山のこと?」

「そうだ、鐘山だ」

 ずんぐりとした鐘楼のような形をしているから、通称「鐘山」。それを教えてくれたのは雄馬とリュウくんだったが、二人とも、あの山が正式にはなんという名前の山なのかは知らないそうだった。

「鐘山がどうかしたの?」

「大学生の時に雄馬とリュウくんと三人で一緒に行ったんです。だから、思い出巡りというわけではないけど、このあとちょっと寄ってみようかと思ってて」

「寄るっつったって、あと少しで陽、暮れちゃうよ?」

「暮れていいんです。あの時も森の中に入ったのは夜だったから」

「物好きだなぁ。しかしなんでまたその時も鐘山なんかに行こうと思ったのさ」

「なんでだったかなぁ……」
 わたしは当時の記憶を捻り出そうと天井を見上げた。
「あ、そうだ」
 と、すぐに思い出して手を叩く。
「リュウくんだ。リュウくんが言い出したんですよ。あの山の展望台から見る日の出の景色が最高だって」

 三人で新宿の居酒屋で飲み会をしたあと、リュウくんが突然、そう言い出したのだ。

 その話に乗ってそのまま新宿から鐘山に行けば終電を逃してしまうのは明らかだったし、正直、今思うと付き合ってもいない男性二人と深夜に山奥に行くなんてあまりに軽率な行為だったが、その当時のわたしにはすでに雄馬に対する絶対的な信頼があったし、そんな雄馬の親友なのだからリュウくんもバカな真似はしないだろうという確信も心のどこかにあったのだと思う。

 要するに、若かったのだ。わたしも、雄馬も、リュウくんも。

「なるほど、リュウくんね、はいはい」

 得心がいったとばかりに頷く誠司さん。その目元が、なぜか嬉しそうに緩んでいる。

「どうかしました?」

「あぁ、いや、前にね、雄馬に訊かれたんだよ。それこそ、あいつが亡くなる何日か前に。人がなにかを思い出そうとする時、無意識に顔を上に向けてしまうのはなぜなのかなって」

「顔を、ですか」

 そんなこと、今まで一度も考えたことがなかった。脳裏によぎったことすらない。

 だけどたしかに言われてみると、なんでだろう。

 今まさにわたしも過去の記憶を思い出そうとして視線を天井に仰いだところだった。

「だけど今、楓さんを見ていて、なんとなく答えの一つを見つけたような気がした」

 と、誠司さんは口元に持ち上げたコーヒーカップから人差し指を伸ばして、わたしに向けた。

「わたし?」

「もしかするとさ、思い出っていうのは、そもそもからして自分の気持ちを上向かせるためにあるんじゃないかな。過去の経験をバネにして、未来に跳躍するために思い出は存在する。だから人はなにかを思い出そうとする時、無意識に顔を上に向けてしまうんだ」

「気持ちを、ですか……」

 誠司さんのその解釈が正しいのかどうかは正直わたしには分からなかったし、誠司さん自身も別にわたしに同意を求めているような感じではなかったけれど、ただ、素敵な考え方ではあるな、とは思った。

「あぁ……いや、ごめんね突然。ふと、思い出してしまってね」

「いえ……素敵です。その考え方」

「そう?」

「はい。きっと雄馬も、その答えを聞きたかったんだと思います」

 わたしが雄馬の実家をあとにしたのは、夕方の十八時を少し過ぎた頃だった。

 別れ際、玄関のふちに座ってスニーカーを履き直していると、誠司さんがわたしの背中に声をかけてきた。

「今日はわざわざありがとうね」

「いえ、こちらこそ急にお邪魔してしまって、申し訳ありませんでした」

 立ち上がり、後ろを振り返る。誠司さんがコーヒーカップ片手に廊下の壁に体の片側を寄りかけ、こちらに微笑みかけてきている。

「なんのなんの。またなにか食べたくなったら、いつでもおいで。でも、来るのが面倒になったら、その時は無理して来なくてもいいからね」

 誠司さんは相変わらず優しい人だと、つくづく思う。きっと、そうやってわたしを透明の鎖から解放しようとしてくれているのだ。

 いや、誠司さんだけじゃない。リュウくんも、大ちゃんも、美代子さんも、みんなそう。

 あれからもう十年が経つというのに、誰もわたしを見捨てない。みんながわたしを助けようとしてくれている。それなのに……。

 それなのに、わたしは───。

「ありがとうございます。でも、また来ます。もうちょっとだけ。今度は十二月に」

「そう。じゃあ楽しみに待ってる」

「はい、それじゃあ今日は失礼します。シフォンケーキ、ごちそうさまでした」

 わたしは小さく頭を下げて、誠司さんのマンションをあとにした。





 鐘山は、大学生の時に来た時よりも、ずっと遠いところにあった。

 あの時は酔いのせいで時間の感覚がおかしくなっていたとはいえ、ほんの数分と思っていた距離が予想以上に十数分もかかってしまった。たった十分そこらの誤差だけど、その誤差が今のわたしには途方もなく長く感じたのだった。

 山麓には誰も住んでいなそうな古びた民家がまだポツポツと残っていた。

 しばらく坂道を登るとすぐに険しい山道に変わり、やがてふたたび舗装された道に戻ると、展望台へと続く遊歩道の入り口が視界前方に見えてきた。

『展望台まで500m』と書かれた立て看板を見つけて、わたしは思わず笑ってしまう。あの当時、わたしたちはこのたった500mの道のりを一晩かけて、朝になるまで歩き回ったのだ。

 しばらく正規の遊歩道を歩いたところで、わたしは道を外れた。

 十年以上前の朧げな記憶だけが頼りだったが、たしかあの時もこうして途中で道を外れて、森の中に迷い込んでしまったのだ。

 しかし直後、わたしは自分のその安直な発想をすぐに後悔した。

 生い茂る枝葉で空はほとんど覆われているが、とはいえ今は七月中旬、夏の最中だ。皮膚をいぶるような空気の暑さを、至るところから響き渡るセミの鳴き声が掻き乱している。背中は汗ばみ、息が上がった。

 おまけに夕方という、ここに来たタイミングも(分かっていたことなのに)良くなかった。太陽はみるみるうちに沈んでいき、辺りはどんどんと暗くなっていった。

 途端にそこはかとない恐ろしさを感じて後ろを見ると、鬱蒼とした木々の向こうに、まだうっすらと遊歩道の木の杭が見えていた。

 ドクドクと胸が震えた。いけないことをしているような高揚感と、いけないことをしてしまったあとのような罪悪感が、心の中でないまぜになる。

 このまま前に進んでもいいのだろうか。舌の上に生唾が溜まり、首筋の辺りを粘り気のある汗が一筋伝った。

 今日のところは引き返した方がいいのではないか。

 そしてまた後日、まだ明るい時間にリュウくんを連れて来ればいいのではないか。

 と、そう思いかけた、その時───。

 目の前を、一羽の黒蝶がひらりと飛ぶのが見えた。

 心なしか今朝、わたしが見た夢に出てきたあの蝶とよく似ているような気がした。

 その不規則ながらもどこか秩序だった羽の軌道を目で追うと、突如現れたその黒蝶は、遊歩道に戻る道とは反対側の、つまりは森のさらに奥の方に向かって飛んでいこうとしていた。

───こっちだよ。

 黒蝶がわたしの方を振り返り、そんなことを言った。ような気がした。

───そこにいちゃダメだよ。

 羽を使ってこっちにおいでと、わたしを手招きしている。

「雄馬ッ!」

 わたしは縋るような声をあげ、その黒蝶を追いかけた。

 歩幅の乱れたわたしの足が土の地面を踏み締めるたび、そこに落ちた木の枝をパキッ……パキッ……と鳴らした。

「───大丈夫? 足、きつくない?」

 雄馬の声が、頭の中に蘇った。あの時、リュウくんを含めたわたしたち三人でこの森の中を彷徨い歩いた時の声だった。

「うん、平気、全然大丈夫です」

 連立する大木にまじまじと睨まれるような窮屈さを感じながらも、わたしは横並びになる雄馬とリュウくんの少し後ろを歩いている。辺りは当然真っ暗で、リュウくんがここに来る前に自宅から持ち出してきたハンドライトだけが、頼りなさげにわたしたちの足元を照らしている。

「楽しみにしてろよ、楓ちゃん」
 リュウくんが言う。
「今日は楓ちゃん史上最高の日の出が見られるぞ」

「むしろ、こんなに歩いてそれほどでもなかったら、わたし怒りますよ」

「大丈夫大丈夫。どんだけ期待値上げても、それを余裕で上回ってくるから」

 話に夢中になるあまり遊歩道を見失い、深い森の中に迷い込んでしまってから、もうかれこれ二時間以上は彷徨い歩いていた。展望らしきものは一向に見当たらない。季節は梅雨前だったはずだが、ずっと歩き続けているからか、あるいはお酒のせいもあってか、あまり肌寒さは感じなかった気がする。

「本当に朝までには展望台につけるんですよね?」

「おう、おれを信じろ」

 リュウくんはそう言って自信満々に親指を突き立てるけど、すでに彼にも道が分からなくなっているのは明らかだった。

 さらにしばらく歩き続け、いよいよ疲れ果てたわたしと雄馬がその場に腰をついて休んでいると、リュウくんが足元に落ちていた石を手に取り、そばにあった大きな岩にガリガリと、なにか文字を刻み込みはじめた。

「なにをやってるんですか?」

 わたしが訊ねると、リュウくんは岩に目を向けたまま答えた。

「おれたちがここに来たって証を、ここに刻んでるんだ」

 リュウくんがハンドライトで岩肌を照らした。『雄馬、楓、リュウ、ここにあり』との短い文章が、荒々しい乱筆でもってそこに刻まれていた。

「証……ですか」

 すでに小説家としてデビューしていたリュウくんらしくない、陳腐で青臭い文章だけど、なんか良いなと、わたしは思った。

「次にここに来た時、これを目印にすれば、もう迷わない」

「もう二度と来ないよ、こんなとこ」

 雄馬はくたびれた様子で上空を仰いだ。わたしも雄馬に倣って天を見上げた。枝葉の隙間から覗く狭い夜空に、キレイな星が点々と輝いていた。

───あの日からもう、何年もの月日が流れた。一瞬のような短さだったような気もするし、永遠のような長さだったような気もする。よく分からない。

 無心になって黒蝶を追いかけているうちに、気付けばわたしは目的の場所に辿り着いていた。

 連なる大木の中でもひときわ大きなクスノキが薄弱の夕陽に炙り照らされ、その傍らに落ちた大きな岩を影にしている。リュウくんが石で岩肌を削って、わたしたちがここに来た証を刻み込んだ、あの岩だ。

 ところが、いざ来てみると、以前と少し様子が違っていた。

 当時は剥き出しだったはずのその岩の上に、なにやらユニフォームのようなものが着せられているのだ。よく見るとそれは、かつて雄馬が持っていた昔のドイツ代表のユニフォームだった。

 わたしたちの思い出の岩に、ドイツ代表のユニフォーム……。

 これをした犯人は雄馬以外には考えられないけれど、それにしたって一体いつ、どんな目的があって、雄馬はこの岩にユニフォームを着せたのだろう。

 怪訝に思っていると、わたしをここまで導いてくれた黒蝶が、まるでこれをもっとよく見ろと言わんばかりに岩の周りをくるりと一周した。

「なんで……雄馬……」

 わたしは岩に歩み寄り、雨風に汚れたそのユニフォームに腕を伸ばした。

 すると、その時だった。

 今まで経験したことのない、不思議な感覚が、わたしの中を駆け巡った。

 誰かがわたしの体に憑依したような、わたしがわたしじゃなくなったような、わたしはわたしなんだけど、そのわたしにもう一人の誰かがフッと重なり合ったような、うまく言葉では言い表せられないけど、そんな感覚だった。

 わたしは別の誰かの目になって、正面の岩を見下ろしていた。

 わたしが伸ばした腕は、わたしの腕じゃなかった。

 その腕は岩に積もった落ち葉を落とし、ユニフォームを脱がして、隠れていた岩肌を露わにさせた。

『雄馬、楓、リュウ、ここにあり』

 古傷みたいになったその文章が、視界の真ん中に飛び込んでくる。

 するとわたしは、というより、今わたしが体感している誰かの目は、なにかを探すように頭を振り、足元に落ちていた石を見つけて、それを拾った。

 わたしであって、わたしではない手が、ふたたび岩に向かってにゅっと伸びる。

 その一連の動きに迷いのようなものはまるでない。

 石を手にしたその手は、リュウくんが刻んだ文章の少し下のところに、新しい線を付け足していった。

 ガリ……ガリ……と岩肌を削る感覚が、わたしの意識とは別で勝手に動く手から腕へ、腕から脳へと伝わってくる。

 一本、二本、直線に曲線。

 次々と付け足されてくるその線はやがて、ハッキリとした意志をたたえた、一つの花の絵になった。

「アングレカム……」

 あの日、大学のカフェで、雄馬が紙ナプキンに描いてくれた、アングレカムの絵。

『絵に描いた花は、絶対に枯れないからね』

 あの時の雄馬の声が、脳の裏側に反響した。

 いつのまにか感覚は元に戻っていた。

 わたしの目、わたしの腕。裸になった岩肌に描き出されたアングレカムに、わたしは実感のある自分の指先をそっと当てた。

 それは間違いなく雄馬の絵だった。

 いつ、どうしてかは分からないけど、雄馬がわたしのために、この絵をここに書き残してくれていたのだ。

 わたしはその場に崩れ落ちるように膝をついた。

 涙がボロボロとこぼれ落ちてきた。

 赤ちゃんが泣くのは感情を言葉にして伝える術を持たないからだと聞いたことがあるが、今のわたしもそれと同じようなものだった。腹の底から込み上げてくる感情が、物言わぬ涙となって体の中から溢れ出てきたのだ。

 わたしはそのあともずっと泣き続けた。膝が土の地面にめり込んでしまうほど体を前に倒して、わんわんと喚くように泣き続けた。

 泣き続け、泣き続け、泣き続け、気付けばわたしは泣き疲れ、そのまま岩を抱くようにして眠っていた。

 しばらくして目を覚ますと、すでに辺りはすっかり夜に侵され、真っ暗になっていた。





 一体どれくらいの時間、眠っていたのか分からない。

 わたしの頬に流れた涙は少しも渇いていなかった。

 抱きついた岩も夜闇に溶けて、ただ硬くて冷たいなにかがそこにあるだけになっている。リュウくんの文字も、雄馬の絵も、なにも見えなくなっていた。

 立ち上がり、周囲をぐるりと見渡した。なにも見えない。セミの鳴き声も聞こえない。五感を奪われた虚構の世界に閉じ込められてしまった気分だった。

 でも、違うのだ。これは虚構ではない。これこそが今のわたしの中に広がる世界のすべてで、わたしが正面から向き合うべき現実なのだ。

 スマホのライトで辺りを照らした。しかしその光は近場の草木をいたずらに青白くさせるばかりで、むしろ中途半端に鋭い明るさが周りの暗闇を余計に際立たせた。

 足の裏から脳天に向かって恐怖がどんどんと込み上げてくる。

 わたしは、この果てしのない暗闇の中で、たった一人だった。

 わたしをここに連れてきてくれたあの黒蝶はもういない。大学の時は隣に雄馬やリュウくんがいてくれたけど、今は誰もそばにいない。

 考えてみると、今のこの状況を作り出したのは、わたし自身だった。わたしは自分自身でここに足を踏み込んだのだ。

 この十年、リュウくんや美代子さんや大ちゃんや誠司さんや、他にもたくさんの人たちが、失意のどん底にいるわたしに手を差し伸べてくれた。

 それなのにわたしはそれらの手をすべて振り払い、自分の手で耳を塞ぎ、目を閉じ、口を結んで、今のこの暗闇の中に逃げ込んだのだ。

 当てもなく彷徨い歩いているうちに、とうとうスマホのバッテリーも切れてしまった。

 わたしは張り詰めた夜のしじまに飲み込まれ、今にも空気に溺れてしまいそうだった。もがけばもがくほど出口が遠のいていく気がした。

 息が上がり、足が震え、頭が錯乱しているのが自分でも分かった。

 落ち着け、落ち着け……と自分で自分に言い聞かせる。

 だけど、そうすればするほど心臓の動悸は激しさを増した。

 どうしたらいいのか分からなかった。どこに行けばいいのか分からなかった。

「───」

 と、その時、どこからか声が聞こえたような気がした。

「楓───」

 誰かがわたしを呼んでいる。

 声のした方に顔を向けると、遠くの方でなにかがチカチカと光るのが見えた。

 ギュッと目を引き結んだ時にまぶたの裏に弾ける火花のような、微弱な光。

 わたしはその光に向かって駆け出した。

 時折、目の前の大木にぶつかったり、地面を這う蔦に足を取られたりしたけど、それでもなんとか立ち上がり、踏ん張り、わたしは走った。

 チカ……チカ……と徐々に光の瞬きが大きく、確実なものになっていく。

「───ねぇリュウ。人って、死んだらどうなるのかな」

 走りながらわたしはふと、ふたたびあの日のことを頭の中に蘇らせた。どこにあるかも分からない展望台を目指す道中、疲れて足取りも重たくなった雄馬が突然、そんなことをリュウくんに訊ねたのだ。

 今にして思えば雄馬らしくない質問だけど、この時は彼もきっと、出口の見えない暗闇の中に迷い込んでしまったことで、「死」という概念を、今のわたしのように現実のものとして肌で感じていたのだろう。

「なんだよ急に」

 リュウくんは怪訝に眉を捻った。

「いや、なんとなく、どうなのかなって」

「うー……ん、おれが思うに、あくまで人は、死んだらそこで終わりだ」
 リュウくんは唸るように言って、
「でも」
 と続けた。
「死後の世界はあってもいいんじゃないかな、とも思う」

「それってでも、矛盾じゃない?」

「なんていうかさ、もちろん、生きている人間からしたら死は終わりだよ。人生の終着地点みたいなもんだ。だけど、死んだ人は死んでからも別の場所で生き続ける。いや、この場合は死に続けるって言った方が正しいかな」

「死に続ける……?」

 雄馬は、よく分からないと言いたげに首を傾げた。後ろで二人の会話に耳を傾けていたわたしにも、リュウくんのその話はよく分からなかった。

「死の対義語は生ではなく誕生って話を聞いたことがあるか? 人間誰しも生から死に切り替わる瞬間は一瞬だ。どれだけ緩やかに死を迎えても、それは絶対に変わらない。その一瞬の出来事である「死」に対して、生まれてから死ぬまでの長いスパンである「生」は対になりえないってことだ。だから、「死」の対義語は「誕生」なんだ」

「それで?」

「死の対義語が誕生なら、生の対義語はなんなのか。おれは、消失だと思ってる」

「消失」

 その言葉をわたしが反芻して初めて、前を歩く二人の視線がわたしに向いた。

「そう、消失。生きている人間からしたら死は終わりだけど、消失はしない。そこからもずっと死に続ける。死に続けるってことは、生き続けるってことだ」

「頭が混乱してきた。ぼくが疲れてるだけかな」

 雄馬が苦笑をわたしに寄越してきたので、わたしも苦笑を雄馬に返した。

「大丈夫です。わたしも全然分かってません」

「あとはもう、想像力の問題だよ。ほら、誠司さんもよく言ってるだろ?」

「自分たちは思考と想像の中で生きている」

「そう、それ。死後の世界はミラチュルチンチュング次第ってことだ」

「なるほどなぁ」

「あ! あれ!」

 と、一番にそれに気が付いたのは、わたしだった。

 阿吽で言い合う二人の前方を、わたしは前のめりになって指差した。

 そこから、黄金色の朝陽が放射状の光芒を引いて森の中に射し込んできているのが見えたのだ。

「おお!」

 雄馬も少し遅れて感嘆した。

「見ろ! 出口だ!」

 リュウくんもそれに続いた。

「やっと出られる!」

「行こう! ほら早く!」

 勇んで前のめりになるわたしは、今のわたしだ。

 わたしは、あの夜と同じように前方で光り輝くなにかに向かって、地面を蹴り上げる自分の足に力を入れた。

 とにかく走る。

 歯を食いしばり、無様な自分も顧みず、鼻息を鳴らして、涙目になって、とにかく走る。

 光の点滅が長尺になっていく。光を遮る障害物が次第に少なくなってきている証拠だ。

 あの光は、もうすぐそこにある。

 わたしの手の届く距離に、あの光はある。

「楓!」

 光の中から、わたしの耳に声が届いた。

 幻聴なんかじゃない。わたしの知っている、あの人の声。

「大ちゃん!」

 森を駆け抜け、ようやく展望台に躍り出たわたしは、無我夢中になって、そこにいる大ちゃんの胸に飛びついた。

 大ちゃんだ。間違いない、大ちゃんの温もりだ。

 飛びついた拍子に、大ちゃんが手にしていたラジオライトが地面に落ちた。

 上向きになった光の線が、下から大ちゃんの顔を確かに照らし出す。

 森の奥深くを彷徨っていたわたしをここまで導いてくれたあの光は、これだったのだ。この光が、大ちゃんが、わたしをここまで助けにきてくれたのだ。

「よかった、無事だった……」

 今にも泣きそうな目をした大ちゃんが、胸にうずまるわたしを見下ろした。

「大ちゃん、どうして……?」

「唐沢さんから連絡があったんだ」

 と、大ちゃんは答えた。

「美代子さんから?」

「それで、唐沢さんは楓の友達の、ほら、児玉さんから連絡を受けたらしくて、その児玉さんは雄馬さんのお父さんから連絡を受けたらしい」

「リュウくんと……誠司さん……」

「楓がもしかするとこの森の中で迷子になってしまうかもしれないから、ちょっと様子を見にいってやってくれって」

「それで、わざわざここまで?」

「そうだよ。楓が心配だったから」

「そっか、ありがとう大ちゃん……」

 わたしは大ちゃんの胸に顔をうずめたまま、礼を言った。

 耳を澄ますと、大ちゃんの少しだけ早くなった心臓の音が聞こえた。

 彼のその心臓の音が、わたしの体を脈打つリズムと徐々に共鳴していき、やがて二つの律動が一つに重なったところで、わたしはハッと我に返った。

 わたしは大ちゃんを深く深く傷つけた。

 あれだけ大切にしてもらっていたのに、一方的に距離を作って、一方的に別れを切り出したのだ。

 果たしてそんなわたしに、今さら大ちゃんに助けてもらう資格なんてあるのだろうか。こうして思わず抱きついてしまっているのも、よくよく考えればあまりに自分勝手だ。

「ごめん、大ちゃん、わたし……」

 わたしが言おうとすると、大ちゃんはその声を封じるようにそっと口寄せ、わたしの唇にキスをした。

「大丈夫。ここからまた、二人で一緒に歩き出そう」

「うん……、うん……」

 わたしは大ちゃんのその言葉に身を委ね、もう二度と離してしまわないようにと、彼の背中に腕を回して、強く強く抱きしめた。

 そのまま顔を上に向けると、微笑む大ちゃんの向こうのひらけた夜空に、まんまるとした月が浮かんでいるのが、キレイに見えた。




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