【第二話】●わたし● 1
◆
目が覚めて、ベッドから起き上がり寝室を出た。
隣のリビングに場所を移して、ダイニングチェアに腰を下ろすと、ちょうど正面に見える出窓の向こうで、外の桜が春風に吹かれてキレイに咲いていた。
その咲姿を見て初めて、冬の終焉と春の到来を実感する。
わたしに季節の移ろいを気付かせてくれるのは、今や窓から見えるこの景色だけだった。
別に卑屈になっているのではない。それが現実なのだ。明かりはついているのに薄暗い部屋。出窓の窓台には雑然と物が置かれて、そのほとんどが埃かぶっている。
この哀れな惨状を雄馬が見たら、彼は一体どんな反応をするだろう。きっと驚き、わたしを優しく叱ってくれるはずだ。叱ってほしい。それさえ叶えば、きっとこの部屋も明るさを取り戻し、埃もどこか遠くに吹き飛んでくれる。
雄馬がこの世を去ってから早十年。
この部屋に越してきたのは三年前、2021年の春だった。新型コロナウイルスによる世間の混乱が今よりもまだずっと大きかった時期。
雄馬と同棲していたマンションを出てから、五度目か六度目の引越し。部屋を転々としていることに特別な理由はない。ただ、一つの場所に定住するのが苦手なだけだ。苦手というより、苦痛……だろうか。
寝惚け眼を手でこすりながら、テーブルに置きっぱなしにしていた一冊のノートを手元に寄せた。
雄馬が亡くなる四日前からつけはじめていた日記帳で、彼の死の数ヶ月後に偶然、当時の寝室の棚の奥から出てきたものだ。
どうして雄馬が突然日記をつけはじめたのかは分からない。
ただ、このたった数ページしかない短い日記が、雄馬の最期の言葉の切れ端であることには違いないから、十年経った今でも大切に保管していて、時々棚から取り出してきては、こうしてパラパラとページをめくっている。
『2013年12月2日 月曜
今日からちょっと日記を書いてみることにした。理由は、特にない。さて、今日は楓と二人で表参道にあるカフェに行った。楓がチーズケーキで、ぼくがタマゴサンド。帰りに商店街で楓がコロッケとメンチカツを買ってくれたので、夜ご飯は二人で揚げ物祭りだった。とりあえず今日はこのまま寝ることにするけど、ちゃんと寝られるかどうかは怪しいだろう』
特別に凝った文章でもなく、頭に浮かんだことを脳内で咀嚼することなくそのまま発露したかのような、本当に短いメモ書きのような日記だ。
それなのに、いや、だからこそと言うべきだろうか、雄馬のこの日記を読み返すたびに、わたしはいつも不思議な感覚に包まれる。
この十年間、何度も何度も繰り返し繰り返し読んできたはずなのに、わたしはまだ、どうもこの日記のすべてを読みきれていないような気がしてならないのだ。
うまくは言えないけれど、このノートにはそこに書き込まれた文章量以上のものが込められているような、そんな妙な違和感だった。
もっと他にもなにか取るに足らない些細な出来事がその日にはあったはずなのに、その日一日を要約して、凝縮して、端的に文字に起こしてしまうと、どうしてこんなにも淡白な印象になってしまうのだろう。
だけど結局、思い出とはそういうものなのかもしれない、とも思う。
文字という記号化された概念だけでは表現しえないもの───両手で掬い上げた砂がサラサラと指の隙間からこぼれ落ちていくように、言葉の網目から抜け落ちてしまった何気ない表情や仕草にこそ、思い出というものの本質は詰まっているのだ。
だからこそわたしは、雄馬の日記を読むたびに感じる、この、そこに書き起こされた文字以上のなにかを、違和感、という曖昧な言葉でしか表現できないのだろう。
ブルブルブル……とテーブルの上のスマホが震えた。スリープ画面を解除し、LINEを開くと、大ちゃんからのメッセージが一件、画面の一番上に表示されていた。
内容は文章ではなく一枚の写真。カレーの写真だった。きっと昨日の夜に自分で作ったのだろう。美味しいよと伝えようとしているのか、食べにおいでと誘ってくれているのか、それは分からない。
わたしはその写真には返信せずに、溜息をひとつテーブルにこぼして、LINEを閉じた。
大ちゃんと出会ったのは今から五年ほど前、劇団仲間の美代子さんと二人でお酒を飲んでいる時だった。
高校の後輩を呼んでいいかと訊かれて、わたしが承諾したところ、店に来たのが彼だった。
本名は西郷大介。
わたしよりも二つ歳上の三十七歳で、雄馬が生きていれば雄馬と同い年。出会ってから二年後、今から三年前に大ちゃんの方から告白してきてくれて、付き合うようになった。
だけど───今年に入ってからもう三ヶ月以上が経つというのに、大ちゃんとは正月に顔を合わせたきり、一度も会っていない。
去年の暮れのあたりからお互いの頭の中に結婚の二文字がもたげ出し、その雰囲気がどうにも耐えきれなくて、わたしの方から、しばらくのあいだ距離を置かせてほしいと申し出たのだ。
結婚に抵抗があるわけではなかった。
むしろその逆。
結婚に抵抗がない今のわたしに、わたしは強い抵抗があった。
雄馬のことが好きで好きで仕方なかったわたしが、今さら他の人と結婚なんてできるはずがない。
雄馬を愛したように、その人のことを愛せるはずがない。
それなのに、その人と結婚したいと思いはじめている自分が、許せない。
もっと言うと、そんなことで自己嫌悪に陥る自分が許せなかった。
ふたたびスマホがブルブルブル……と震えた。今度は大ちゃんからではなく、大ちゃんをわたしに紹介してくれた美代子さんからのLINE。今晩、久しぶりに二人で飲みに行く約束をしていたのだった。
『19時に唐沢の名前で歌舞伎町の居酒屋予約したから。地図も添付しておくね』
『ありがとう。早めに着いたら先に入っておきます』
『そうしてちょーだい。では、よろしく』
『はーい』
洗面台に場所を移して、申し訳程度に化粧をした。キッチンに向かい、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを一杯飲む。
さして大したものは入っていないバッグを肩にかけ、汚れの目立つスニーカーを履いて、部屋を出た。
腕時計を見る。時刻は7時21分。未だに慣れない満員電車に乗るために、わたしは少し早足になって駅へと急いだ。
◆
京王線から新宿駅で降り、信濃町方面に向かって徒歩数分。大通り沿いのビルの三階に入った小さな図書館が今のわたしの勤め先だ。
五年前、わたしが女優を諦め、当時所属していた芸能事務所を退所した際に、美代子さんがこの図書館を紹介してくれたのだ。
学生時代、わたしと同じ学生劇団に所属していた美代子さんは、大学卒業と同時にスッパリと女優の道を諦め、今の会社に就職した。
その会社というのが図書館の委託事業も担っているところで、自分のやりたいことが分からないと嘆くわたしに、美代子さんが「面接だけでも受けてみたら」と勧めてくれたのがキッカケだった。
図書館というのは正直、それまでのわたしの人生の中では未知の領域で、いざ働いてみるとその大変さにかなり驚かされた。
なんとなく、生粋の本好きが集まり優雅に働く、そんな場所だとイメージしていたけれど、実際は重たい本の山をひっきりなしに持ち運んだり、館内中を歩き回ったりと、世間のイメージ以上に肉体労働の比重が高いのだ。
とはいえ、ここで働いてみて良かった点もたくさんある。
あくせく体を動かしている時だけは嫌なことや辛いことを忘れることができたし、なにより、それまで視界に入っても脳が認識しなかったようなジャンルの本が否が応でも目につくようになった。
知らない本を知っていくたび、わたしの中の世界が押し広げられていくような感覚。そこには、今までに感じたことのない種類の心地良さがあった。
「───それ、カンセカイだな、ユクスキュルの」
わたしがこの話を初めてした時、酔っ払ったリュウくんはなぜか嬉しそうにそう言った。
リュウくん。児玉龍。
わたしの大学の先輩で、なおかつ雄馬とは幼稚園から大学までの幼馴染でもある男性だ。無類のお酒好きで、無類の女好き。今でもわたしが気兼ねなく連絡を取り合うことができる数少ない友達の一人。
「カンセカイ?」
ちょうどわたしが図書館で働きはじめた五年前、リュウくんの行きつけの居酒屋で二人で飲んでいた時のことだ。カンセカイ。初めて聞く言葉だった。
「そう、環境の環に、ワールドの世界で、環世界」
「それで、なんなの、その環世界っていうのは」
「ユクスキュルっていう人が提唱した概念だよ。人間だけじゃなく、この世に存在するありとあらゆる生き物は、それぞれ個体特有の世界を持っているって概念だ」
「はぁ」
よく分かっていないわたしに、リュウくんはさらに説明を続けた。
「そうだな……、たとえばこの椅子。おれが今こうして座っている椅子はたしかにここに存在していて、おれはこれを椅子として認識している。しかし、だ。仮に今ここに一匹のハエが飛んできたとするだろ? 問題は、そのハエがこの椅子を、おれと同じように椅子として認識するかどうかって話だ。正解は、しない。分かるか? 要するに、そのハエの環世界の中では椅子は木組みの物体としてたしかにここにあるけど、椅子としては存在はしていないんだ」
「……なるほどねぇ」
相槌を打ったはいいが、正直これっぽっちも分かっていない。
ここにあるけど、存在はしていない。
言わんとしていることはなんとなく分かるが、理解するのは難しい。
「なるほどって、楓ちゃん、絶対分かってないだろ」
「分かったよ。10%くらい」
「10%じゃ分かったことにはならないよ」
リュウくんのすごいところは、それでも弁舌を止めないところだ。こっちがすでに聞く気を失くしていても、彼は自分が満足するまで話すことをやめない。
「で、その環世界。その気になれば人間は、自分のその環世界を自由に広げることができるんだ。ハエはいつまで経っても椅子をただの木片の集合体としか認識できないけれど、人間はその認識を、ただの木片の集合体から椅子という家具にまで昇華できる。それって実はかなりすごいことなんだぜ」
「……あれ、なんの話をしてたんだっけ」
「楓ちゃんの言う、自分の中の世界が押し広げられていくっていう感覚は、楓ちゃんの環世界が広がっていってるってことなんだって話だ」
「なるほど、10%が15%になった」やっぱり、いまいちピンとはこない。
「15%かぁ」
と、そう言ってリュウくんはゲラゲラと笑いながら、説明の間も決して手放さなかったジョッキのビールを、グビグビと一気に飲み干すのだった───。
図書館に到着した。事務所の出勤カードに打刻し、更衣室に入る。薄手のコートをハンガーにかけて、代わりに制服のエプロンをシャツの上から着る。
更衣室から事務所に戻ると、近くのパソコンで作業をしていた男性の先輩が声をかけてきた。
「鬼塚さん、ちょっといい?」
「どうしました?」
実を言うと、リュウくんの仕事は今のわたしの仕事に間接的に……かどうかは分からないけど、少し関わっている。だから、わたしが図書館で働きはじめたと伝えた時も、彼はパチパチと両手を叩いて、これからは同業者だなと喜んでくれた。
「これ、来週この図書館に入れる新刊の候補リストなんだけど、鬼塚さん、ぜひこの本を入れたい、みたいな希望ある?」
わたしの勤めている図書館では、必ず毎週末に十冊から二十冊の新刊本を入れることになっている。入れる、というのはつまり、図書館が本を購入し、それを館内に所蔵するということだ。
入れる本の選定は、予算の範囲内であればある程度、その館の従業員の裁量に任せられている。どの本を入れ、どの本を入れないか、同じ地区の図書館との兼ね合いも考えながらではあるけれど、自分たちでチョイスできるのだ。
「これ……これがいいです」
パソコンに表示された新刊購入リストのうちの一つを、わたしは指差した。タイトルの隣に著者の名前が打ち込まれている。
『児玉龍』
そう、リュウくんだ。
無類のお酒好きで無類の女好きだった雄馬の幼馴染は、今や日本でも有数の人気小説家なのだった。
◆
新宿歌舞伎町の入り組んだ街中をさらに奥まったところまで歩いていった先に、美代子さんが予約してくれていた居酒屋はあった。
わたしも何度か来たことのある、ひたすら安くでお酒が飲めるのが売りの絵に描いたような大衆居酒屋だ。
週の中日の夜だというのに、店内はいろいろな種類の人たちで雑然と賑わっていた。さすがは眠らない街、歌舞伎町。
「ぷはーっ! 最高っ!」
向かいに座る美代子さんが、さっそく一杯目のビールを秒で飲み干し、漫画のキャラクターのような唸り声を鳴らした。
「相変わらず、いい飲みっぷり」
わたしはテーブルに頬杖をついて、彼女のその姿に見惚れている。
わたしの分のビールはまだ、ほんの数ミリしか減っていない。
「ビールって本当に最高。私の中に溜まったアクを喉越しと一緒に全部腹の底に押し流してくれるんだもん」
美代子さんはわたしよりも三つ歳上の三十八歳、独身だ。
学生の頃は毎日のように「良い男いないかなぁ」なんて言っていたけど、ある時からスパッとその考えを捨て去り、生涯独身を貫くことに決めたのだという。その方が気楽に、直感で、迷いなく自分の人生を生きられるから、らしい。
役者の道から一般企業への就職に切り替えた時もそうだったけれど、自分の人生を長期的に、そして俯瞰的に見つめて、その都度、自分に合った取捨選択をしてきた美代子さんの姿は、わたしなんかよりもずっと生き生きとしていて格好良く、そんな彼女のことが、わたしは大好きだった。
「あれ、でも前に会った時は、最近はあんまりお酒飲んでないって言ってなかったっけ」
美代子さんとこうして二人きりで飲むのは、今年の一月の頭以来、二、三ヶ月ぶりのことだった。
昔の彼女は仕事が終わると毎晩のように街に繰り出し、わたしもそれにちょくちょく付き合わされた。それこそ雄馬が亡くなって間もない頃は、傷心のわたしをなんとか元気づけるために飲み会を開催したり、高いお店に連れ出してくれたりもした。
「そうそう。コロナ禍で飲み歩けなくなってからは特にね。家で一人で飲んでも別に楽しくないし、そうすると自ずと酒の量も減ってくよね」
「あー、だからかな、美代子さん、元々スリムだったけど、また一段と痩せた気がする」
「そう? 禁酒ダイエット的な?」
「禁酒はしてないじゃん。だから……減酒?」
「減酒だね。減酒ダイエット。厳守はしてないけどね」
「うわ、出た」
とびきりの美人で、仕事でもなんでも常に完璧の美代子さんだけど、時々こうして思わずこっちが顔を歪めてしまうような親父ギャグを言う。そしてそのギャップが、彼女の魅力の一つでもあるのだった。
「出ちゃうよねぇ。毎日毎日、職場で古いオッサンたちと顔を合わせてりゃあ、そりゃあ出ますよ、親父ギャグの一つや二つ。思いついたことを頭の中でなにも考えずにそのまま口に出すって、結構ストレス発散にもなるのよ」
「へぇ、美代子さんでもストレスを溜めることあるんだ?」
わたしはジョッキに口を近づけながら、少し意外に思って眉を浮かせた。普段わたしの目に映る美代子さんは、ストレスとは無縁の自由な世界で生きている気がしていたからだ。
「当たり前でしょ。だってさ、いまだに私がみんなの分のお茶を汲むのが当然だって思ってるようなバカもいるんだよ。何時代だよって話でしょ。結婚しない女は負け組だって平然と言ってくるアホもいるしさ。まぁ、そいつらは全員、女なのに自分よりも仕事ができる私に嫉妬してるんだろうけどさ。そんなわけで、ストレス溜まりまくりよ」
美代子さんは捲し立てるようにそう言うと、近くにいた店員にビールの追加を注文してから、「私のことなんかより」
と睨むような目でわたしを見据えた。
「楓ちゃんはどうなの、最近、西郷くんとは」
「うーん」
わたしは仔犬のようにか弱く鳴いて、小首を傾げた。
「危うい?」
「うーん」
「じゃあ、リュウくんとは? 最近会ってるの?」
「何ヶ月も前に一回会ったきりかな。リュウくんはほら、いろいろと忙しいみたいだし」
美代子さんとリュウくんが知り合ったのは、雄馬の四十九日を終えたあと。リュウくんが渋谷の居酒屋を大胆に貸し切り、わたしを励ます会なるものを開いてくれた時のことだった。
その日以来、意気投合した二人は頻繁に飲みにいったりもしていたらしいけど、彼らがいわゆる男女の仲になったのかどうかは知らない。
そんなことがあっても不思議ではないし、そうなってほしいなと思った時期もあったけど、とはいえ、それ以上の詮索はするだけ野暮だというのも重々、承知している。
「まぁ、人気作家だもんねぇ、彼」
「美代子さんは? 最近どうなの、異性関係」
わたしはテーブルの上の刺身に箸を伸ばしながら、何気なく訊ねた。
結婚はしないと心に決めたからといって、それがイコール恋愛はしないという意味になるわけではない。むしろ結婚という選択肢を除外したからこそ、美代子さんは誰よりも自由な恋愛ができるのだ。
「んー……まぁ、それなりに」
「それなりって、どれなり?」
「少し前だと、アフリカ系のアメリカ人と仲良くなったかな。ルーツはナイジェリアとか言ってた気がする」
「ナイジェリア」
想像の斜め上をいく答えに、わたしは思わず目を丸くした。頭の中に世界地図を思い描いてはみるけれど、ナイジェリアがどこにあるのかは見当もつかない。
「そう、ナイジェリア」
「いい感じなの? その人とは」
「どうだろうねぇ」
そう言って息を吐き出す彼女の視線は、わたしを飛び越え、背後にある店の入り口に向けられている。まるでその入り口の向こうにナイジェリアという国があるかのように。
「まぁ、なんにせよ、やっぱりいいもんだなぁとは思ったよ。恋愛。久しぶりに熱くなったもんね、私」
「……そっか」
店の外のナイジェリアに向かって、タバコの煙のようにゆらゆらと放たれた彼女の言葉が、途中でいきなり角度を変えて、わたしの胸にめがけて飛び込んできた、ような気がした。
わたしはその言葉の矢印をかわすように、ちょっとトイレと言って、席を立った。
◆
ちょうどわたしがトイレの入り口に到着したところで目の前の扉が開き、中から若い男性客がにゅっと出てきた。
ありがちな気まずい時間が数秒流れる。
この店のトイレは男女兼用の個室が一つあるだけなので、時々こういう事態が起きてしまうのだ。
ぎこちない会釈をお互いにし合い、男性の姿が視界から完全に消えて見えなくなるのを待ってから、わたしは中に入った。
昔からこの狭い個室の中には、至るところにアイドルや俳優、スポーツ選手のポスターやステッカーが無秩序に貼り付けられている。そのほとんどが店主の趣味のようだが、中には酔客が勝手に貼り付けていったものもあるらしい。
洗面台の壁面に貼られた一枚のポスターを思わず二度見した。
黒色の髪をめらめらとなびかせ、ボールを蹴ろうと右足を振りかぶる一人の男。
生前、雄馬が好きだったサッカー選手だ。
たしか90年代だか2000年代だかに活躍した元ドイツ代表のキャプテンで、大学でドイツ語を専攻するほどのドイツ好きだった雄馬にとっては、ほとんど神様のような存在だったらしい。
雄馬と一緒にドイツの試合を初めて見たのは、たしか2010年のワールドカップだった気がする。車のクラクションのようなけたたましい笛の音が印象的な、あの大会だ。
どの国と対戦したかはもう忘れたけれど、ドイツが得点するたびに子供のように喜び、ドイツが失点するたびに子供のように悲しむ雄馬の姿は、今もまだ鮮明に覚えている。
ドイツがトーナメントで負けた時には、真夜中に隣で号泣する雄馬に釣られて、なぜかわたしも涙を流してしまったものだった。
ふと正面の鏡を見ると、そこに映る今のわたしの目からも無自覚のうちに一筋の涙がこぼれ出ていた。
まただ───。
頬を伝う涙の線を濡れた指先で拭い取り、そのまま項垂れるように顔を下向けた。
また、泣いてしまった。
せっかく久しぶりに美代子さんから元気を貰えたと思っていたのに。
それでもやっぱり、駄目だ。
わたしの意気は古くなったスマホの電池みたいに、いくら充電を満タンにしても、すぐにまたすり減っていく。
雄馬がいなくなってから、もう十年が経つ。
それなのに、いまだにわたしはふとした瞬間に涙してしまう。日常のあらゆる瞬間、あらゆる光景に雄馬の面影を感じてしまうのだ。
街中でカレーのにおいがしてきたら雄馬の姿が、
テレビでスポーツニュースが始まれば雄馬の姿が、
ベッドの上で寝返りを打ったら雄馬の姿が……。
日々の至るところで雄馬の残り香を感じ、残像を見つけ、そのたびにわたしは懐かしさに胸を躍らせ、そして同時に、苦しくもなるのだった。
「雄馬……」
鏡に映るわたしに向かって、わたしは縋るように呟いた。返ってきたのは、外でトイレの順番を待つ人が鳴らしたノックの音。
ドアを開けると、雄馬とは似ても似つかない若い女性がスマホをいじりながらそこに立っていた。
わたしは女性に軽く頭を下げて、その場を離れた。
席に戻ると、わたしの顔を見上げた美代子さんの眉尻がピクリと揺れた。すぐになにかを察したように、テーブルの上の新しい皿に目線を移す。
「おかえり。楓ちゃんが頼んでた唐揚げ、やっと来たよ」
「ただいま。お、やっと来ましたか」
わたしは椅子に座り直しながら、化粧の崩れた顔に精一杯の笑みを浮かべた。
「トイレに貼ってあった女優のポスター見た?」
美代子さんが訊ねる。
「女優? 女優のポスターなんてあったっけ」
「あったよ。便器に座って天井を見上げたところに」
美代子さんの指先が天井に向く。
とはいえ、あれだけ無数に、しかも雑然とポスターやらステッカーやらが貼られているのだ。どこに誰のポスターがあったかなんて、それこそあの元ドイツ代表のキャプテンみたいに、よっぽど印象に残らない限りは覚えていられない。
「気付かなかった。それで、その女優がどうしたの?」
「今ちょうどスマホでネットのニュースを見てたんだけどね、今日捕まったらしいよ。覚醒剤だってさ」
天井に向けられた美代子さんの指が、今度はテーブルに俯したスマホに伸びた。ネットニュースのアプリを開き、画面をわたしの眼前に向ける。たしかに、某有名女優が覚醒剤所持の容疑で逮捕との見出しがそこに書かれていた。映画にドラマにCMにと、日本に住んでいれば見ない日はないレベルの超人気女優だった。
「あらま」
「こういうニュースを見るとさ、なんだか不憫に思っちゃうよね。間違ったことをする前にそれを止めてくれる人はいなかったのかなって」
「うーん、たしかに。でも、芸能界みたいな、あっちの世界の人たちの感覚って、普通の人とは少し違うからねぇ」
わたしは言いながら、自分のその言葉に内心かなり驚いた。
かつて自分が憧れ、目指し、半ば所属までしていたはずの世界は、いつのまにかはるか遠くのあっち側に行ってしまっていたことに、だ。
なにかを諦めるということは、その諦めたなにかを自分の元から遠ざけるということなのだろうか。
「そうなのかもねぇ」
淡白に相槌を打つ美代子さんのわたしを見る目が、わたしのその内心を鋭く剔抉してきているように感じた。
「……今、変わったなって思った?」思わず伏し目になってしまう。
「変わった? なにが?」
「わたし。昔と変わったなって思ったんじゃない?」
「ううん」
伏せた視界の隅っこで、美代子さんが肩を浮かせるのが見えた。
「いや……変わったよ。わたし。自分でも分かってる」
雄馬がいなくなってからというもの、わたしの中にある、ありとあらゆるものがガラリと変わった。
性格も、環境も、時間の流れ方も。
もうあの頃のようには笑えないし、あの頃のようには生きられない。それなのに、わたし以外の世間は何食わぬ顔で、いつも通りの日常を消費していっている。
「でもさ、そもそも変わらない人なんていないんじゃない?」
「そうかな……」
首を傾げながら顔を上げると、美代子さんは自分の皮膚の感触を確かめるように手のひらを揉んでいた。
「ねぇ、知ってる? 人間ってね、毎日毎日、何億って数の細胞が作り替えられているんだってさ」
「何億も?」
わたしも手のひらを広げて、裏と表をひらひらとさせた。
なにもしていない爪、痩せて骨ばった指。自分の細胞のことなんかよりも、そんなところばかりに目がいってしまう。
「そ。つまり、昨日と今日の自分はまるっきり同じってわけじゃないの。でも、ほら、私は私でしょ? 十年前の私も、今の私も。多分、次に会う時の私も。私は日々体の内側から変わっていってるのに、私自身はなにも変わらない」
「変わっていってるのに、変わらない?」
「要するにさ、人間っていうのは、みんな、大切ななにかを変えないために、少しずつ少しずつ変わっていく生き物なんだよ、多分」
美代子さんは事もなげにそう言うと、近くを歩いていた店員を呼び止め、この日何度目かのビールのおかわりを注文した。
その後、店の前で美代子さんと別れ、わたしが自分のマンションに帰宅したのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
他人のタバコと自分のお酒のにおいが染みついた体をシャワーで流し、濡れた髪にタオルを巻いて、リビングのダイニングチェアに腰を下ろした。
正面に見える出窓の窓台には二つの写真立てが置かれている。一つはわたしと大ちゃんが写っている写真で、もう一つはわたしと雄馬の二人の写真。
わたしは椅子に座ったまま、その二つの写真立てに向かって腕を伸ばした。
このまま目を閉じ、腕を伸ばし続けてみたら───。
わたしの手が触れる写真はどっちだろう。
わたしが求めているのは、そこに映る、誰なのだろう。
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