【最終話】●わたし● 5





 助手席のウィンドウを何気なく開けると、秋の心地良い風が車内を吹き抜け、久しぶりに揃えたわたしの前髪をパタパタとなびかせた。

「風が冷たくなってきたねぇ」

 隣でハンドルを握る大ちゃんが、鼻から息を吸い上げるように胸を浮かせた。

「あ、ごめん寒かった?」

「ううん、平気平気」

 杉並区にあるわたしの部屋を出発した大ちゃんの車は、渋谷区のマンションで美代子さんを拾って、そのまま成田方面に向かっている。

 半年ほど前に突然、外国に行くと言い出した美代子さんが日本を発つ日がとうとうやってきたのだ。

 平日昼前の湾岸線は思っていたほど混み合っておらず、想定よりも少し早めに空港には到着できそうだった。

「そういえば美代子さん、結局どこの国に行くんだっけ?」

 わたしが助手席から首を後ろに捻ると、後部座席の美代子さんはウィンドウの桟に頬杖をついて、遠くの空を見据えるようにしながら、
「うーん」
 と唸った。
「とりあえずはアメリカかなぁ。そのあとにどこに行くかはセルジュと相談しながらって感じ」

 セルジュというのは、以前に美代子さんがこっちで知り合ったというナイジェリア系アメリカ人に男性のこと。

 セルジュは長年、自身のルーツでもあるアフリカに何度も赴き、ボランティア関連の活動をしているらしく、そのセルジュとの出逢いをキッカケにして、美代子さんは勤めていた会社を辞めて、海外に渡航する決意を固めたのだった。

「セルジュさん、いつかわたしも会ってみたいなぁ」

 わたしは正面に視線を戻し、見たことも話したこともないセルジュさんの顔を頭に思い浮かべた。他人に流されない、確固たる自分を持つ美代子さんに一大決心をつけさせるくらいなのだから、きっとステキな魅力に溢れた人に違いない。

「いつか紹介するよ。楓ちゃんも西郷くんも、多分すぐに仲良くなれる」

「うん、わたしも、なんか、そんな気がする」

「ところで」
 と、大ちゃんがフロントミラーに映る美代子さんを見る。
「唐沢さん、英語の方はどうなんですか?」

「この半年でかなり上達したよ。アイムカラサワ、アイラビュー」

「完璧ですね」

「センキュー」

「先行き不安だなぁ」

 その後、車はさして渋滞に巻き込まれることもなく無事に成田空港に到着した。

 美代子さんの搭乗開始時刻まではまだ少し時間が余っていたので、わたしたちはパーキングに車を停めたあと国際線ターミナルのカフェに入って、しばらく時間を潰すことにした。

 わたしと大ちゃんが横並びに座り、その向かい側に美代子さんが座った。

 美代子さんは一瞬だけメニュー表を確認したあと、よし、決めた、と近くにいた店員さんを呼んだ。

「カルボナーラとBLTサンド、あとそれから……ガトーショコラに、あとチーズケーキもください」

 彼女が捲し立てるように言うのを聞き終えてから、わたしと大ちゃんもBLTサンドとホットコーヒーを注文した。

「そんなにお腹空いてたんですか」

 少し面食らった様子で厨房に下がっていく店員さんの背中を見ながら、大ちゃんが呆れるように、なのか、感心するように、なのか、目をパチパチと瞬かせた。

「別に? でも、これが日本で食べる最後の食事になるわけだし、せっかくならいっぱい食べたいじゃない」

「だったらもっと日本的な、蕎麦とか寿司とかの店に行けばよかったですね」

「あ、たしかに言われてみれば。選択ミスったなぁ」

 可笑しそうに笑う美代子さん。

「……ねぇ、美代子さん」
 と、わたしは不意に妙な不安に駆られて、たまらず二人の会話に割って入った。引っかかったのは、美代子さんが何気なく口にした最後という一言だった。
「美代子さん、いつ頃帰ってくるの?」

「さぁ、まだなにも決めてないよ」

 美代子さんはケロッとした顔で肩を浮かせた。他意のないようにも、シラを切っているようにも見えた。

「ていうか、帰ってくる……よね?」

「当たり前じゃん。なに言ってるの」

 笑って眉を寄せる美代子さんを見て、わたしは、「あっ、きっとこの人に帰ってくるつもりはないのだろうな」と、そう直感した。

 女優の道を突き進むか就職するかの時も、結婚するか独身を貫くかの時もそうだった。

 美代子さんは二つに一つの選択を前にした時、どちらか一方を曖昧に残しておくようなことはしない。こっちの道と一度決めたら、その道を渡りきるまでは後ろを振り返らないような人なのだ。

「これ、あげます。わたしからの餞別」

 胸の内側をざらつかせる嫌な直感を紛らわすように、わたしは先に運ばれてきたコーヒーミルを、美代子さんの手元にちょこんと置いた。

「え、餞別これだけ?」

 拾った小石をしげしげと見つめるように、美代子さんは小さなコーヒーミルを親指と人差し指でつまみ上げた。

「それだけ。ここの食事代だって、割り勘だから」

「えー、普通こういうのって、送り出す側が出してくれるんじゃないの?」

「美代子さんがまた日本に帰ってきたら、その時におかえりなさいの意味も込めてご馳走してあげる」

「西郷くん、どうなのよ、あんたの彼女」
 大ちゃんに向けられた美代子さんの目がわざとらしく細くなる。
「これが恩人で親友の私に取る態度だと思う?」

「うーん」

 と困ったような苦笑を浮かべる大ちゃん。

「だから美代子さん」
 と、わたしは念を押すように言った。
「必ず帰ってきてね。今日でお別れなんて、わたし嫌だよ」

「大丈夫だよ。絶対に帰ってくる」

 美代子さんは微笑み混じりに、小さくコクンと頷いた。その表情に嘘はなさそうだった。

 そうこうしているうちにホットコーヒーとBLTサンドが運ばれてきて、カルボナーラとガトーショコラとチーズケーキもそれに続いた。

「ちゃんと全部食べきれる?」

「これくらい余裕で食べられなきゃ、海外じゃやってけないよ」

「あんまり関係ないと思うけど」

 しばらく経って、美代子さんが頼んだ料理をすべて食べ終えたところで、ちょうど飛行機の搭乗アナウンスが始まった。

 カフェをあとにし、出発ロビーの保安検査場前に到着すると、満腹で少し気持ち悪そうにする美代子さんはそこで一旦立ち止まり、少し後ろを歩くわたしと大ちゃんにくるりと体を反転させた。

「じゃあ、ここでお別れだね」

「うん……まぁ、元気で」

 わたしはなんとか口元に笑みを作って、手のひらを控えめに持ち上げた。

 彼女の背後では長い列になった乗客たちが次々とゲートの中に吸い込まれている。あのゲートを向こうにくぐれば、もうこちらには引き返して来られない。

「なに、それだけ?」

「うん、これだけ」

「そ。まぁ、それじゃあ楓ちゃんも西郷くんも、この先もいろいろあるだろうけど、ほどほどに頑張ってね」

「うん」

 わたしは頷き、

「はい」

 大ちゃんも頷いた。

「あっちで……そうだな、彼氏でもできたら連絡するわ」

「美代子さんなら、きっとすぐにできるよ」

「はは、そうだろうね」

 美代子さんは笑うと、そのまま手にした航空券をひらひらとなびかせながら、保安検査場の中へと入っていった。

「あー、行っちゃうなぁ」

 大ちゃんが、隣にいるわたしにぼそりと呟いた。

「うん」

「寂しいね」

「うん」
 わたしは少しずつ小さくなっていく美代子さんの背中を見つめながら、
「でも」
 と続けた。
「次はわたしがご馳走するって約束したから」

「そうだったね」

 すると、保安検査場のゲートをくぐって係員から荷物を受け取った美代子さんが、奥のところでふたたびわたしたちに向き直り、恥ずかしげもなく声を張り上げた。

「楓ちゃん! 西郷くん!」

(どうした?)

 わたしは表情だけで返事をした。

「二人がまた仲良くなってくれてよかった! 日本を発つ前に心のモヤモヤが晴れた! 二人とも、ありがとうね!」

 満足そうな顔をして歩き去っていく美代子さん。彼女が残した声の余韻の中には、周りの人たちの嘲笑がクスクスと混じってはいるけれど、それでもわたしの心は恥ずかしさよりも、嬉しさと誇らしさでいっぱいだった。

 あの人はやっぱりすごい。

 すでに姿の見えなくなった恩人に向かって、気付けばわたしも負けじと大きな声で叫び返していた。

「わたしの方こそ、ありがとう! 美代子さん、大好きだよ!」

 空港の出発ロビーは相変わらずの人集りで騒がしい。

 そんな中、バカ、こんなところで大きな声を出すな、はしたない。と、そう言って顔をしかめる美代子さんの声が、遠くの方から聞こえてきたような、そんな気がした。





 高校二年の春にお母さんと死別して以来、月命日になると必ず一人でお墓参りをするようにはしていたけれど、今日に限っては月命日でもなければ一人でもない。

 わたしの隣にはもう一人、餅みたいにでっぷりと太ったお父さんがいる。

 愚かにも不貞を働き(しかも何度も)、ギャンブルに明け暮れ、最後は見事に妻と娘を失った馬鹿な人。

 時折、この人も気まぐれでここには来ているみたいだけど、こうしてわたしと二人でお母さんの墓前に手を合わせるのは、今日が初めてのことだった。

 もう何年も前から一緒に行こうとせがまれていて、ついに先日、とうとうわたしの方が折れる形で、今回のお墓参りが実現したのだ。

「ふぅ……」

 隣でしばらくブツブツと呟いていたお父さんは、引き結んでいた双眸を開くと、胸の前で合わせた両の手をゆっくりと離し、長い息を吐き出した。

「終わった?」

「おう。やっと念願が叶ったよ、俺」

 十一月も中盤を過ぎると、ひらけた空を吹き抜ける風は涼しさよりも肌寒さの方が上回るようになってくる。わざわざ特別な日でもなんでもないこの日を選んで、お父さんと二人でここに来たのは、お墓の中にいるお母さんに無駄な気を遣ってほしくなかったからだ。

 亡くなるまで絶対にお父さんの悪口は言わなかったお母さんのことだから、年に一度の命日や月命日にここを訪ねればきっと、「せっかく来てくれたんだから」と、その場に居てくれようとするに違いないと思ったのだ。

 その点、今日のようにただの平日の、しかも昼下がりに、なんの予告もなく訪ねれば、底抜けに気遣いのお母さんでも、「ごめんなさいね、ちょっと買い物に出掛けていたの」とか「ちょっと友達と会っていたの」とか、そんな調子で、お父さんがいる間は気兼ねなく席を外していられる。気がする。

 今回のお墓参りはあくまでお父さんの自己満足のためのものであって、なにもそれにいちいちお母さんが付き合ってあげる必要なんてないのだ。

「お母さん、顔見せてくれた?」

 風に踊る横髪を耳にかけながら、わたしは訊ねた。

 お母さんのお墓があるこの霊園は、東京郊外にそびえる山の中腹を削って造成されているため、風が右から左からとよく通る。視線を少し下げると、青みがかった視界の奥の方に都心のビル群が霞んで見えた。

「おう」
 お父さんは嬉しそうに頷いた。弛んだ首の贅肉が顎に押し出されて膨らむさまは、まるでカエルの鳴嚢みたいだ。
「最後に少しだけ、チラッとな」

「なんて言ってた?」

「娘に感謝しなさいよって」

「そっか。相変わらず優しいなぁ、お母さんは。買い物しとけばいいのに」

「買い物?」

「ううん、なんでもない。―さて、それじゃあもう、満足した?」

 わたしがお父さんとこうして二人でお墓参りをするのは、きっと今日で最後だろうけど、あえてそれを今ここで言明する必要もないだろう。

「ああ、満足だ。大満足だ」

 そのことはお父さんも重々、承知してくれているはずだ。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

 正直、わたしはまだお父さんを許せたわけではない。お母さんを裏切り傷付けたお父さんのことを、わたしは多分、一生許せない。

 だけど……、なんだろう。

 許す許さないとは別の次元で、怒り続けるのに疲れてしまったのかもしれない。いつまでも怒っていたって仕方ない。お父さんと会うたびに何度も感じてきたことだけど、誰かに厳しくするというのは、誰かに優しくすることよりも、ずっと体力を使う行為なのだ。

 それに多分、わたしはまだ心のどこかで信じているのだとも思う。「今でも良いところはある」とお父さんを評したお母さんの言葉を、そして、それさえわたしにも理解できれば、壊れてしまった家族の絆をふたたび元の形に修復することができるということを。

「……なぁ楓、腹、減ってないか?」

 帰り支度を済ませて霊園の入り口に向かおうとするわたしの背中に、後ろからお父さんが声をかけてきた。

「お腹? んー、どうだろ」

「せっかくだから、昼飯でも食べていこうぜ。俺、この辺でめちゃくちゃ美味いカレー屋を知ってるんだよ。……まぁ、無理にとは言わないけど」

 口を揉むようにしながら、ためらいがちに言うお父さん。

 わたしは少しだけ悩んだ末に振り返り、

「……お父さんがご馳走してくれるなら、行く」

「ほんとか!」

 お父さんの顔が、パッと明るく広がった。

 あまり……というか全然嬉しくないけど、おもちゃを買ってもらった子供のように嬉しそうにするお父さんのその顔は、つくづく、娘のわたしとよく似ているのだった。





 駅前のバス停で立ち止まり、目当てのバスが来るのを待っていると、隣の大ちゃんが両手をコートに突っ込み、丸めた背中を寒々と震わせた。

 十二月の空気はたしかに冷たいけれど、彼が震えているのには、それとはまた別の理由があった。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。誠司さんも楽しみにしてくれてるみたいだし」

「でもなぁ……、僕なんかが本当に行っていいのかなぁ」

「いいの。むしろ、みんなずっと、大ちゃんにも来てほしいって思ってたんだから」

 十二月六日の今日は雄馬の十回目の命日だった。

 毎年、この日が来るとわたしと誠司さんとリュウくんの三人で食事をするのが慣例になっているのだが、今回はそこに初めて大ちゃんも参加することになった。

 数週間前、今回は大ちゃんも一緒にどうかなぁとちょうどわたしが思っていたところに、ほとんど同じタイミングで誠司さんとリュウくんから、『今年は西郷くんも一緒にどうか』とLINEで提案されたのだ。

「ところで、児玉さんって、どんな人なの?」

「え? あ、そうか。大ちゃんってまだリュウくんには会ったことないんだっけ」

「ないよ、一度も」

 たしかに考えてみると、会話の中でリュウくんの名前が出てくることは何度もあったが、実際に二人が顔を合わせる機会は、これまで一度もなかった気がする。大ちゃんがわたしを助けに鐘山の森まで駆けつけてくれた時に連絡を取り合いはしたらしいけど、それもそういえば間に美代子さんを介してのことだった。

「まぁ、平気だよ。すぐに慣れる」

「慣れるって……。楓の話を聞く限り、かなり変わった人っぽいけど」

「あー、それは、うん、間違いないね」

 やってきたバスに乗り込み、数駅先の停留所で降車する。

 そこからさらに一分ほど狭窄な通りを歩いていくと、視界正面にチョコレートケーキのような外観をしたマンションが見えてくる。雄馬の実家の部屋があるのは、その三階だ。

 雄馬が生きている頃よりも亡くなってからの方がここに来ていると思うとなんだか複雑だけど、おかげで駅からマンションまでの道のりはすっかり足の感覚に馴染んでいる。

 一階のエントランスに入ると、正面奥に取り付けられたインターフォンの前に立つリュウくんの背中があった。

「やっほー」

 後ろから肩を叩いて声をかける。

 振り向いたリュウくんはパッと眉を浮かせて、ひらひらと片手を上げた。

「お、楓ちゃんじゃん」

「リュウくんも今来たところ?」

「おう。ナイスタイミングだったな」

 ちょうど誠司さんとの通話を終えたところだったらしく、リュウくんが親指を立ててそう言うと同時に、隣の自動ドアがウィー……ンと開いた。

 中に入り、すぐ右手にあるエレベーターが降りてくるのを待つ間、わたしは両脇の二人に顔を振った。

「あ、そうだ忘れてた。改めまして……リュウくん、こちらがわたしが今お付き合いしている西郷大介くん。大ちゃん、こちらが雄馬の親友だった児玉龍くん」

「あ、そうですよね、えっと、さ、西郷です。児玉さんのお話は楓からもよく聞いていて、今日お会いできるのを楽しみにしていました」

 途端にカチコチになってぺこぺこと頭を下げる大ちゃん。

 そんな大ちゃんの背中を、リュウくんは相変わらず軽薄な調子でバシバシと叩いた。

「ほうほう、なるほど君が噂の大ちゃんくんか。たしかおれや雄馬と同い年なんだよな。いやぁ、それにしても、初めて会うのに初めての感じがしないな。いやいやどうも、この間は楓ちゃんを遭難から助けてくれたみたいで。ありがとうね」

「いえいえ、こちらこそ、その節はどうもご心配をおかけしました」

「そんなに畏まらないでよ。同い年なんだし、もうただの他人じゃないんだからさ」

 エレベーターが到着し、わたしたちは順々に中に乗り込んだ。リュウくんが三階のボタンを押すと扉が閉まり、鉄の箱が足元からゆっくりと持ち上がっていく。

「ね、言った通りの人でしょ?」

 わたしが肘で大ちゃんの脇腹をつんつんしながら笑いかけると、

「うん、噂に違わぬ変人だ」

 と、大ちゃんも緊張で強張っていた口元を少しだけ緩ませて笑った。

「おい、誰が噂通りの変人だって?」

 と、そう言ってわたしたちを睨んでくるリュウくんの声には、二人で一緒に聞こえないふりをしてみせた。

 ファンと音が鳴ると同時に上方の三階ランプが優しく光り、エレベーターが開いた。

 そこから外廊下を十二歩渡って、303号室の前で立ち止まる。手書きで書かれた「枕崎」の表札。青色の玄関に、銅色のドアノブ。

 リュウくんが目の前のドアホンを押すと、まもなくして玄関が開き、中から誠司さんが姿を見せた。前回に会った時よりもどこかスッキリとした雰囲気なのは、口周りに生えていた無精髭を今日はきちんと剃っているからだろうか。

「いらっしゃい」
 誠司さんは言いながら、わたしたちの後ろにいる大ちゃんを見つけるとすぐに
「おっ」
 と口をおの広げて、
「大介くんだね。はじめまして、枕崎です」
 と微笑んだ。誠司さんらしい、こちらの体温をほんの少し上げてくれるような、温かくて、優しい笑顔だ。

「あ、は、はじめまして、西郷大介です。今日はお邪魔になります。あの……これ、よろしかったらぜひ」

 大ちゃんは相変わらずぺこぺこと頭を下げると、ぎこちないロボットみたいな動きで右手に持っていた紙袋を誠司さんに差し出した。

 紙袋の中には、新宿に古くからあるパティスリーのスイーツが入っている。

 すでに誠司さんが食事と一緒にデザートも用意してくれている可能性も頭によぎったけれど、前々から大ちゃんと二人でいつか食べてみたいよねと話していた店だったので、「こういう時に買わないと一生買わない」と自分たちに言い訳をして、ここに来る前に買ってきておいたのだ。

「おー、ありがとう。あ、これってもしかして新宿の有名店のやつ?」

「さすが誠司さん、お目が高い」

「よし、あとでみんなで食べようか」

「はい、そうしましょ」

 リビングに通されたわたしたちはまず、ベランダから射し込む昼の陽光を燦々と浴びる雄馬の仏壇の前で足を畳んだ。

 今年もまた無事に咲いてくれたアングレカムの花を一輪、2014年のドイツ代表の優勝写真と一緒に置かれた雄馬の遺影の手前の花瓶に供え、三人分の線香に火をつける。

 灰の上に並べて立てると、三本の煙がそれぞれ昇竜のように立ち昇り、遺影の高さを超えたところで一つに混じって静かに消えた。

 リンを鳴らして、目を閉じ、手を合わせる。

 しばらくしてまぶたを持ち上げると、リュウくんが誰に言うでもなく小さな声で、「また今年もみんなで集まれてよかった」と呟いた。

 わたしも、彼とまったく同じ気持ちだった。

 今年も、また、みんなで集まれる。それだけで充分、奇跡的なのだ。

 仏壇を離れ、リビングの食卓テーブルに腰を下ろした。

 わたしと大ちゃんが横に並んで座り、わたしたちと向き合う形でリュウくんと誠司さんが座った。

 テーブルにはすでに誠司さんの手料理が並んでいる。サラダにスープに魚に肉にとメニューはたくさんあるけれど、メインはやっぱり、雄馬が一番大好きだった親子丼。

「そうだリュウくん、二人目が産まれたんだったよね。おめでとう」

 と、誠司さんが手際良く全員分のサラダを取り分けながら、ふと思い出したように言った。

「そうそう。今日も本当は連れてこようかと思ったんだけど。まぁ、それはまた次の機会にってことで」

 リュウくんの奥さん、真奈美さんが二人目の子供を出産したのは今から三ヶ月前、九月の頭のことだった。

 凛ちゃんという、リュウくんによく似た、可愛らしい女の子らしい。

 というのも、実はわたしもまだ会えていないのだ。だから今日は凛ちゃんに会えるのもひとつ楽しみにしていたのだけど、どうやら一人目の雄太郎くんが風邪を引いてしまったらしく、今日は真奈美さんと一緒におうちでお留守番とのことだった。

「上の、雄太郎くんはもう何歳になるんだっけ?」

 誠司さんが訊ねる。

「三歳……来年で四歳になるかな」

「ほう、それはそれは、可愛い盛りでしょ」

「そりゃあもう、憎たらしいくらいに」
 リュウくんは破顔して頷くと、親子丼のどんぶりに手を伸ばし、ガツガツと口の中に掻き入れながら、
「あれ、そういえば」
 と、わたしと大ちゃんに顎をしゃくった。
「二人って、もう籍は入れたんだっけ?」

「あ、いえ、それはまだ」
 大ちゃんは首を振った。
「結婚はまだお互いに考えてなくて」

 去年の夏にわたしたちは復縁したわけだけど、それ以来、結婚の話は棚上げにしたままの状態が続いていた。

 別にお互いにその話題を避けているわけではない。

 ただ、せっかく復縁できたことだし、しばらくは時の流れに身を委ねてみようというのが、二人で出した一旦の結論だった。

「おー、そうか。よかったよかった」

「よかった?」

「結婚なんて、するもんじゃないんだから」

「えっ……」

 大ちゃんの目がキョトンと見開いたまま固まった。辛うじて動く二本の指先が、子供が二人いるって言ってませんでしたかと、そう訴えている。

 わたしは、そうやって素直に戸惑う大ちゃんの背中をさするように揺すって言った。

「気にしないで。リュウくんの言うことなんて、ほとんどがテキトーなんだから」

「テキトー?」

「そそ。緊張してる大ちゃんをからかってるだけ」

「なんだ、そうなんですか」

 大ちゃんがホッとした顔でリュウくんを優しく睨む。その姿にわたしも思わず安堵する。

 正直、ここに来るまで少し心配はしていたのだ。他の二人に大ちゃんが受け入れられなかったらどうしよう。大ちゃんが二人に馴染めなかったらどうしよう。

 だけど、どうやらそれも大丈夫そうだ。

 もちろん今日のこの会だけで大ちゃんの緊張が100パーセントなくなることはないかもしれないけれど、それでも少しずつ、ちょっとずつ、じわりじわりと、わたしやリュウくん、誠司さん、そして雄馬の世界と、わたしと大ちゃんの世界が接近していければ、それでいい。

 食後に誠司さんがコーヒーを淹れてくれたので、わたしは買ってきたスイーツの箱を開封し、大皿の上に一つずつ並べた。

 チーズケーキにカヌレにエクレア、他にもモンブランやらショートケーキやら、明らかに人数分以上の数のスイーツたち。

「さすがに買いすぎだろぉ、楓ちゃん」

 上から大皿を覗き込み、呆れるように言うリュウくんだけど、そのくせ、ちゃっかり自分の食べたいやつはすでに手元に引き寄せている。

「店のショーウィンドウを眺めてたら、どれもこれもが美味しそうに見えてきちゃったんだもん。でもいいじゃん。別に今日食べきれなくても、また明日、美味しいスイーツが食べられると思えば」

「あ、でも賞味期限とか大丈夫かな」

 大ちゃんが至極真っ当な、それでいて少し的外れなことをぼそりと言った。なにかを指先で探るようにしているのは、紙箱に貼られていた賞味期限のシールを確認しようとしているのだろう。

「一日くらい平気だよ」

 と誠司さん。誠司さんは大皿の中からエクレアを選んで、自分の小皿に乗せ替えた。

「でも、万が一お腹を壊しでもしたら」

「真面目だなぁ、大ちゃんくんは」

「誰かさんと違ってね」

 選んだモンブランを食べながらわたしが嫌味を言うと、リュウくんはわたしのその言葉をかわすように半身を捻って、窓辺の仏壇に目を向けた。

「おい雄馬、楓ちゃんになんか言われてるぞ」

「リュウくんに言ったんだよ」

 軽口を叩き合うわたしたちの声を遮るように、チーズケーキを選んで食べていた大ちゃんが眉を広げて唸った。

「あ、これ美味しい! 楓、このチーズケーキ、すごく美味しいよ」

 それから大ちゃんはチーズケーキのちょうど半分のところにフォークを入れると、切り分けた片方をわたしの小皿にひょいと移した。

「いいの? ありがとう」

 わたしは、わたしよりも少しだけ座高の高い大ちゃんを見上げた。無意識に口元を綻ばせていたらしく、それを見た大ちゃんが怪訝そうに顔を近づけてきた。

「え、そんなに嬉しかった?」

「え、どうして?」

「なんか、ニヤニヤしてるから」

「してないよ、ニヤニヤなんて」

「してたよ」

「してないってば」

 言いながらわたしはふと思い出し、足元に置いていたバッグの中から一冊の大学ノートを取り出した。

 生前の雄馬がほんの数日間だけ密かにしたためていた、あの日記帳だ。

「なんだよそれ」

 リュウくんがカヌレをつまんだあとの指先を美味しそうにぺろぺろしながら、わたしに訊ねた。

「雄馬の日記帳だよ。たった数ページしかないけど、今年はこれも一緒に雄馬の仏壇に供えようかなって思って」

「へぇ、あいつ日記なんて書いてたんだ」誠司さんが意外そうに言った。

「はい、数日間だけですけど」

「どれ、おれにも見せてみろ」

 リュウくんの手がわたしの目の前に伸びてくる。

「待って、まずはわたしから。そのあとに誠司さん。で、大ちゃん。リュウくんは最後」

「なんでだよ、せめて誠司さんの次だろ、おれは」

「いーや、大ちゃんの次、リュウくんは」

 取り出したノートをパラパラめくると、ちょうど亡くなる前日に雄馬が書き残した最後の日記のところでページが止まった。


『12月5日 木曜

 昨日はすっかり「日記」を書くのを忘れていたので、とりあえず気を取り直して昨日のことから。昨日は一日休みだった。なので昼は久しぶりに実家に帰った。父さんが作ったカップケーキがおいしくて、相変わらず料理上手だなと感心。夜は楓とリュウとで食事をした。日頃からうまいもんばっか食べてるリュウの行きつけなだけあって、かなりおいしかった。さて、次は今日。今日は珍しく仕事がバタついたけど、影山さんに無理を言って早上がりをさせてもらった。家に帰って、久しぶりに楓とカレー。久しぶりにしては上出来。カレーを食べ終えると楓はすぐに仕事に行ってしまったから、ぼくは今、部屋で一人でこの日記を書いている。眠たくなってきた。そろそろ寝よう。今日はどんな夢を見るのだろう。良い夢だったらうれしいけど、まぁどんな夢であれ、明日の朝、楓が隣で寝ていてくれれば、それだけで十分、幸せだ』



───あの日、雄馬はどんな夢を見たのだろう。目が覚めて、隣にわたしがいて、彼は幸せを感じたのだろうか。そうであれば嬉しいけど。

 もう何度読み返したかも分からない雄馬の最後の日記を黙読し、誠司さんに渡そうとノートを閉じかけた、その時だった。

 そこに書き込まれた黒色のインクが、見えないなにかに吸い込まれるように一箇所に寄せ集まって、一匹の大きな黒蝶に姿を変えた。

 黒蝶はノートからひらひらと羽ばたき、窓辺の仏壇の方まで舞い飛んでいくと、わたしが飾ったアングレカムのひとひらにピタリと止まり、羽を休めた。

「あ……」

 わたしは小さく声を跳ね上げた。

「どうした?」

 大ちゃんとリュウくんと誠司さんが、同時にわたしに目を向けた。

「……ううん、なんでもない」

 黒蝶の重みか、あるいは空調のせいか、かすかにアングレカムが揺れている。

 上下する花びらの向こうで、雄馬の遺影が見え隠れする。

 わたしにはそれが、雄馬がそこからわたしたちを静かに見守ってくれているようにも、わたしたちの会話に混じって楽しそうに肩を揺らして笑っているようにも、見えた。


      ───終わり───

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