【第九話】◯ぼく◯ 5
◇
目が覚めた。
体感では夜に目を閉じた次の瞬間に朝が来たような、あの感じ。
汗もかいていない。息も上がっていない。久しぶりに目覚めの良い朝だった。
ここ最近、記憶に累積しない、だけどなんとなく嫌だったという感覚だけが喉の内側にざらざらと残るような、悪夢といえば悪夢のような夢を見続けていたから、それがなかっただけでも今日一日がなんだかいつもより楽しくなりそうな気がして、ぼくは空気の詰まった風船が地面に触れて軽々と跳ね上がるように、ベッドから上体を起き上がらせた。
夜の冷気で強張った頬を、寝室の窓から射し込む太陽がじんわりと溶かしていく。
腕を伸ばして欠伸をしながら隣を見ると、昨日、夜遅くまで仕事だった楓が横向きに体を倒して気持ち良さそうに眠っていた。
「おかえり、おはよう楓」
少しずれた楓の毛布を肩まで上げて、起こしてしまわないように声をかけると、彼女はむず痒そうに眉を捏ねて、「ん……おはよ」と夢うつつに返してくれた。
寝間着からワイシャツとスラックスに着替えて寝室を出ると、まずはコーヒーを淹れるためにキッチンに向かった。
お湯を沸かしつつ、二人分のコーヒーカップ、コーヒー粉、フィルター、ドリッパーを用意する。
あまり沸騰させすぎたお湯を使うのはよくないと聞いたことがあるので、程よく熱くなったお湯をトクトクとフィルターに注いでいると、昨日と同じように寝癖を爆発させた楓が起きてきて、まだ眠たそうに目をこすりながら、ぼくに向かって片手を上げた。
「おはよー」
「おはよう。昨日はお疲れ様。まだ寝てていいのに」
「ううん、起きる」
今日の楓の予定は、午後から大学の頃に所属していた劇団の先輩、唐沢美代子さんと映画を観に行くことになっているらしい。そのまま夜も外で食べてくるとのことだったので、今日のぼくの夕食はカップラーメンか、商店街の惣菜になるであろうことが見込まれた。いや、たしか昨日作ったカレーがまだ少し残っていたはずだから、お米だけ新しく炊いて、それを食べるのもいいかもしれない。
「そう言うと思って」
湯気立つ二つのコーヒーカップをテーブルにトントンと置いて、ぼくはいつものダイニングチェアに腰を下ろした。
「わぁ、ありがとう」
向かいに座り、淹れたてのコーヒーをひとくち口に含んだ楓は、ペロッと唇を舐めるとすぐになにかに気付いて眉を浮かせた。
「おっ、もしかして」
「お、気付いた?」
「うん、豆。変えた?」
「そう。どう?」
「いつも使ってるやつより、少し酸味が強いかも」
「そうそう。ちょうど瓶のコーヒー粉が切れかかってたからさ。昨日カレーの材料を買ったついでに買っておいたんだ」
「あ、もしかしてスーパーの隣に新しくできた、あのコーヒーショップ?」
「正解。いつも買うやつがそこにはなくて、だったらたまにはいつもと違うタイプの豆にしてみようかなって。次は二人で一緒に行って、いろいろな種類の豆を見てみようよ。結構たくさんあるみたいだったよ」
「そうしよっか。次の休みにでも」
微笑む彼女の後ろで、部屋の窓台に飾ったアングレカムがキレイな花を咲かせている。
アングレカム。楓が一番、好きな花だ。
「そういえば、大学の時にぼくがあげた、あのアングレカムの絵を描いた紙ナプキン、今もまだ持ってるんだっけ?」
訊ねると、楓は後ろのアングレカムを一瞥しながら笑って答えた。
「忘れたの? あのあと雄馬、テーブルに水をこぼして、そこに置いてた紙ナプキンもそれでボロボロになっちゃったんだよ」
「……あー、そうだったかも」
絵に描いた花は絶対に枯れない、なんてキザで寒々しいセリフを豪語した矢先の失態だったから、情けなさやら恥ずかしさやらですっかり今の今まで忘れていたけど、たしかにそういえばそうだった。それでそのあと、楓には「水のあげすぎは逆によくないって言いますからね」とフォローまでされてしまう始末だったのだ。
「あの時の雄馬の慌てっぷり、すごかったなぁ」
「たしかに慌てたなぁ、あの時は」
「でもわたし、嬉しかったなぁ、あの時。そういう考え方ができるのって、すごくステキだと思った」
「楓に良いところを見せようと、あの時は必死だったのかも」
「じゃあその必死さに感謝だね。あの瞬間に、わたしの一目惚れは確信に変わったんだもん」
「まじで?」
「まじまじ。あ、わたしやっぱり、この人を好きになるべきだって。そう思ったの」
「それは……初耳だわ」
ぼくは思いも寄らず恥ずかしくなって、鼻の頭をポリポリと指先で掻いた。
先日、ほんの気まぐれで鐘山の森の中にある、あの思い出の岩にアングレカムの絵を描いてみたけど、あの絵も雨風にさらされ、小動物や虫にイタズラをされていくうちに、いつかは消えて無くなってしまうのだろうか。その前に楓と二人で、あるいはリュウも一緒に三人で、もう一度あの森の中を冒険してみるのも面白いかもしれない。
朝食を終えると、ぼくはひと足先に洗面所に向かった。
歯を磨いて、口をゆすぐ。少し遅れて隣に楓がやってきて、自分の歯ブラシにニュッと歯磨き粉を練り出した。
「はい」
と、いつもの流れで彼女が歯磨き粉を渡してきたので、ぼくもいつもの流れでそれを受け取り、そのままふたたび洗い流したばかりの歯ブラシの上に練り出した。
「あっ」
と思わず吹き出して笑う。
「ねぇねぇ、楓」
「ん?」
「いま歯磨いたばっかりなのに、また歯磨き粉出しちゃった」
「あ、おえん」
楓は口に溜まった泡がこぼれないように少し顎を上向けながら、ごめん、とすまなそうに眉を垂らした。
「いや、ぼくも完全に油断してた」
「えお、えっあうああら、おういっあい、みあいおいなお」
「え、なんて?」
ぼくが耳を寄せて聞き返すと、楓は口の中の泡をぺっと吐き出し、すくめるように眉を浮かせて言った。
「でも、せっかくだから、もう一回、磨いときなよって言ったの。いつもより二倍、口の中をスッキリできたと思えば、ラッキーじゃん」
「たしかにそうかも。……いや、そうなのか?」
「ポジティブにさ。物事は思考と想像次第なんでしょ?」
「ミラチュルチンチュングかぁ」
支度を済ませて玄関に向かい、沓脱ぎで革靴を履こうとしていると、見送りに来てくれた楓がスマホをいじりながら、「雄馬」とぼくに声をかけてきた。
「ん?」
「次にわたしたちの休みが一緒になるのっていつだったっけ?」
「えー……と、たしか来週の、金曜日だったかな」
頭の中にカレンダーを思い描く。たしか来週の金曜日にまた、ぼくと楓の休みが重なる日があったはずだ。
「じゃあさ、その日一緒に買い物しない?」
「買い物? あぁ、コーヒー?」
「いや、コーヒーもだけど、ほら、そろそろ雄馬、誕生日でしょ。誕生日プレゼント、一緒に選びに行こうよ」
「そっか、そういえばもうそんな時期だ」
すっかり失念してしまっていたけど、そういえば再来週の土曜日、クリスマス四日前の十二月二十一日がぼくの二十七回目の誕生日なのだった。
「なにが欲しいか、考えててね」
「よし、分かった。考えとく」
「じゃあ、仕事頑張って」
「楓も、今日は楽しんで」
「うん、またあとでね」
「うん、またあとで」
立ち上がり、後ろを向いて、すぐそこにいる楓の体を抱き寄せる。彼女の小さな顎が首筋に押し当たる感触が心地良くて、仕事じゃなければずっとこうしているのに……なんてことを思わずにはいられなかった。
◇
シネマ・グリュックは昨日に引き続き今日も満員御礼……といっても、実際にお客さんが入っているのは話題のフランス映画だけなのだけど、おかげでロビーは平日にも関わらずワイワイガヤガヤと賑わっている。
昨日の反省を生かして支配人の影山さんが受付カウンターに出られる社員の増員を本社に要請してくれたことで、ぼくは昨日の間に溜まってしまった事務所での作業に集中することができた。
シネマ・グリュックにはまず母体となる株式会社が上にあり、その株式会社の映画事業部が、この映画館の管理と運営を担っている。だからつまり、ぼくは正確に言うと映画館そのものに雇われているのではなく、映画館を管理している会社に契約社員として雇用されているというわけだ。
アルバイトとして四年、契約社員として五年。そろそろ正社員にならないか……なんて声がかかるのを密かに期待しているのは、そうなれば当然いくらかは給料も上がるし、給料が上がれば自ずと楓との将来も拓けてくると思うからだ。
そしてそれは、ぼくたち二人の夢を盤石にするための大事な一歩でもあるのだった。
楓が主演した映画を、ぼくの映画館で上映する。
契約社員からはれて正社員に昇格すれば、この映画館で上映する映画の選定にも今より深く関われるだろう。そうすれば、もっと自分好みの映画をここに引っ張ってくることができるようになる。
つまり、楓の主演映画をシネマ・グリュックで上映できる可能性が、少なくとも今よりは格段に広がるのだ。
そういえば以前、いざ夢が叶った時のための下見と称して、一度だけ楓をこの映画館に連れてきたことがあった。
ぼくがまだここの契約社員になりたての頃だ。
その時に観た映画は楓の尊敬している女優が主演を務めた日本映画で、興行収入的には正直あまり芳しくない作品だった。
たしかその日も客入りはまばらで、ぼくたちを除くと、毎週のようにこの映画館に足を運んでくれている常連が数名と、大学生くらいのカップルが一組いるだけだった。
初めて自分が働く映画館に彼女を連れてきた緊張で騒然と高鳴る心臓とは裏腹に、客入りの少ない劇場内はシンと静まり返っている(もちろん上映中に静まり返っているのは当たり前だが、恒常的に客の少ない劇場というのは、それとはまた別の、空気に沈着したような静けさがあるのだ)。
チラリと隣を一瞥すると、暗闇の中でほのかに灯るスクリーンの明かりに一筋の涙を光らせる楓の横顔があった。
彼女は口を真一文字に引き結び、エンドロールに映し出されたキャストの名前が最後の一人になるまで、じっとスクリーンを見つめていた。
その姿を見て、ぼくはその時、強く思ったのだ。
たとえ興行収入が芳しくなくても、客入りが悪かろうが、インターネットの映画サイトの評価が低かろうが、それでも───誰か一人だけにでも製作者の想いを届けることができたのであれば、その人の心の琴線を揺さぶることができたのであれば、それだけで充分、この映画がこの世に生まれてきた意義はあったと、胸を張って言えるのではないだろうか、と。
「枕崎くんっ、昨日は楽しかったかい?」
溜まっていた仕事の処理をひと通り済ませ、ひと息つくように背中を椅子に深く預けていると、すぐそばの支配人デスクに座っていた影山さんが、ヤンチャな子供のように椅子のキャスターをコロコロと転がし近寄ってきた。
「あ、はい。すみません、ご迷惑をおかけしました」
「そろそろ枕崎くんも結婚かな?」
「いやぁ、どうでしょう」
「とかなんとか言って、やることやってるんでしょ?」
「ははは、そうかもしれないですね」
ぼくはその直球ハラスメントを愛想笑いで受け流し、A4のコピー用紙に作成した再来週分の上映スケジュールの草案を影山さんに手渡した。
どの映画を一日どのくらいの回数で上映するかのタイムスケジュールだ。現在のエース格であるフランス映画の上映回数を一日四回から六回に増やし、一回分の動員を複数回に分散させるのが今回の最優先事項だった。
というのも、いくらお客さんが映画館に押し寄せたところで彼らが肝心の映画を観られなかったら意味がないため、劇場スクリーン内に入れる人数に限度がある以上、売上を最大限伸ばすためには上映回数自体を増やすしかないのだ。
「うーん、やっぱりこの映画、回数減っちゃうのか」
老眼鏡を鼻梁に下げて草案を見つめる影山さんが、残念そうに渋面を作った。
先週末に一日三回の上映で始まった日本映画が一日一回に減っているのを見ての、この反応。
もちろん、想定の範囲内だ。
「どうしても、今の状況を考えると削るのはそれしかないな、と」
一つの作品の上映回数を増やすということは、同時に別の作品の上映回数を減らすということになる。配給会社との契約やチケットの売上、グッズの売れ行き等を加味してその塩梅は調整していくのだが、今回のように事前の期待値以上のヒット作品が出ると、自ずとその割を食う作品も生まれてしまう。とても良い作品なのに回数を減らしてしまうのには断腸の思いがあるが、ビジネスである以上、それも致し方のないことなのだった。
「僕は好きなんだけどねぇ、この映画」
「ぼくも好きでした」
「でも、まぁ仕方ないか」
「はい、仕方ないです」
草案用紙に影山さんからのサインを貰うと、自分のデスクに向き直り、パソコン上のデータファイルを「草案(仮)」から「草案(済)」に変更した。これは劇場支配人のチェックを受けましたよという一応の印で、これが決定稿になるわけではないが、この編成をもとに再来週の上映スケジュールを本格的に詰めていくことになる。
「あ、そうだ」
と、影山さんがふと思い出したように声を上げた。
「そういえば僕、今年度いっぱいでここの支配人、辞めることになったから」
「えっ?」
思いも寄らぬその一言に、ぼくは思わず椅子から飛び上がり、ふたたび支配人デスクに体を向けた。
「な、なんで、どうしてですか?」
「いやぁ、僕ももう随分と長いからねぇ。ここいらでちょっと、この職場にも新しい血を入れましょうってことらしいよ」
「それで……影山さんはどうするんですか?」
「そりゃあ、本社に戻るほかないでしょ。それなりに良いポジションを作ってくれるみたいだから、それじゃあよろしくってことになってね」
「そうなんですね……」
「そうそう、そうなんです」
影山さんは、映画館での仕事というのがなんたるかをすべてぼくに教えてくれた恩人だ。
その影山さんがこのシネマ・グリュックからいなくなってしまうなんて、すぐには受け入れられないし、ショックだし、当然、つらい。
だけどサラリーマンである以上、人事の移動は避けられない。上映回数を減らさざるをえない映画と同じで、致し方のないことなのだ。
「それじゃあ……送別会、しましょうね、絶対」
ぼくが言うと、影山さんはくしゃっと笑って、「いいねぇ、盛大によろしく頼むよ」と親指を立てた。
会場はどこにしようか。数ヶ月前に楓と行った韓国料理屋さんはどうだろう。いや、でもたしか影山さんは辛いものがダメだった気がする。新宿の外れにあるインドカレー屋さんにしようか。いやいやあそこは送別会向きの店ではない。やっぱりここは無難に歌舞伎町の大衆居酒屋にして、好きなだけお酒を飲んでもらうのがいいかもしれない。
なんてことを頭の中で考えているうちに、今際の際のセミが最後のひと鳴きをするかのように、事務所のアラームがビーッと鳴った。
そろそろ上映中の映画がエンドロールに入りますよという合図のアラームだった。
◇
しばらくして、受付カウンターの様子を確認しにいくと、ひと仕事終えたアルバイトの子たちがそこで少しくたびれ混じりに談笑していた。
満席のフランス映画の開場がちょうど終わったばかりで、ロビーはいつも通りの静けさを取り戻している。
「お疲れ様」
受付カウンターにいるのは大学生の男の子二人と女の子一人。三人とも今日は大学の授業が休みだったらしく、朝からシフトに入って働いてくれていた。
「お疲れ様ですっ」
彼らの溌剌とした、瑞々しい声が耳に気持ちいい。
「さっき配給会社の人が差し入れにお菓子を持ってきてくれたよ。事務所の休憩机に置いてあるから、影山さんが全部食べちゃう前にみんなも食べてね」
「おー、やったー!」
「なんか、銀座の名店のお菓子らしい」
「それ、絶対美味しいやつじゃないですか!」
「もうね、見た目からして美味しそうだった」
映画の封切りに際して配給会社から差し入れを貰うのはよくあることで、貰った差し入れは事務所にある共有の休憩机に置いて、従業員で分け合うルールになっている。
「あ、そうだ」
と、一番ぼくの近くにいた女の子が手のひらを叩いた。
「枕崎さんって、好きな色なんでしたっけ」
「色?」
唐突な質問に小首を傾げる。
「色……赤、かな」
「赤ですか。なるほど。赤、いいですよねー」
「なになに、どうしたの急に」
「いえ、なんでも」
意味深に微笑む女の子の奥、受付カウンターの隅っこにポツンと置かれた月めくりカレンダーがふと目に映り、なるほどね……と、ぼくは察した。
誕生日だ。
彼女たちはきっと再来週に迫ったぼくの誕生日に、なにかプレゼントをしてくれようとしているのだ。
サプライズ企画に気付いてしまったことを相手に気付かせてしまうことほど申し訳ないことはないので、わざとらしくならないように眉をひそめたりしながら気付かないふりをしていると、入り口の自動ドアがウィー……ンと開き、老齢の男性が慌てた様子で中に入ってきた。映画のチケットを手にしているので、おそらく前もってチケットを購入したあと、近所で時間を潰しているうちに、うっかり遅れてしまったといったところだろう。
「やばいやばい、始まっちゃった?」
「まだ本編前の予告中なので、大丈夫ですよ」
劇場スクリーンの入り口前でチケットを受け取り、半分にもぎる。
老人だと思っていたその男性はよく見るとずっと若い、もしかするとぼくと同じくらいの年齢の若者だった。
「この映画、面白い?」
ぼくに訊ねているとは、すぐには気付かなかった。
「……え?」
「だから、この映画はちゃんと面白いの?」
「えっと……はい、ありがたいことに、多くの方にご好評をいただいております」
「面白くなかったら、返金してもらえる?」
「へ?」
妙な質問に、ぼくは思わず目を丸めた。
「返金だよ返金。いや、ていうのもね、ちょっと前にもここで映画を観たんだけれど、全然面白くなくてさ。お金を無駄にしちゃったなぁって後悔したんだよね、その時」
「いや……、すみません、返金はちょっと、できかねます……かね」
「なんで?」
「なんでって……」
あまりに自明のことすぎて、真面目に答えるのもバカバカしい。
「それが一応、当館の決まりでして……」
「決まり」
男性はぼくの言葉を反芻した。
「はい……」
「決まりか。決まりなら、仕方ないよね」
「はぁ」
頭のてっぺんから足の先まで、ぼくの姿を舐めるようにまじまじと見つめる男性。
すごく不気味で、すごく不快なのに、なぜだろう、どういうわけかぼくはこの人の姿に、なんとなく見覚えがあるような気がした。
記憶の棚の奥の奥の、そのまたさらに奥のところに、彼との思い出が眠っているような、そんな異様な既視感だった。
「うーん、君は良い人なんだけどね」
「はい……?」
「こっちも、決まりだから仕方ないよね」
男性は肩をすくめてそう言うと、訳が分からず呆然と立ち尽くすぼくの傍らをするりと抜けて、闇に呑まれた劇場スクリーンの中へと、着ている緑のサマーセーターをスッと溶かしていくのであった。
◇
午後の一時を少し過ぎ、昼休憩に入ったぼくは、シネマ・グリュックを出てすぐのところにある和食のチェーン店に足を運んだ。
普段は適当にコンビニのおにぎりやパンで済ませるのだけど、脳の回路になんらかの刺激が走って、不意に父さんの味を思い出してしまったのかもしれない、数時間前からなぜだかやたらと口が親子丼を求めて仕方なかったのだ。
父さんほどではないが、さすが全国に展開しているチェーン店なだけあって安定に美味しい親子丼をひとり黙々と食べていると、手元に置いていたスマホがブルルと震えた。
伏せていた画面を翻して見ると、楓からのLINEが二件、届いていた。
そのうち一件は、一本の木の写真。マンションの近くに生えているもので、枯れ色の落ち葉が根元に目立ちはじめている。その写真にコメントを付けるような形で、もう一件。
『どうして木っていうのは寒くなればなるほど薄着になっていくんだろうね』
どうやら葉のない枝を薄着と捉えているらしい。楓らしい感性に思わずニヤニヤしながら、ぼくは返事を打った。
『葉っぱから水分が蒸発するのを避けるためらしいよ。冬は乾燥するから枝に葉をつけたままだとそこからどんどん水分が飛ばされていって木が死んじゃうらしい。そうならないように葉を落とすんだってさ』
たしか、そんな風な話をどこかで聞いたことがあるような気がする。テレビで見たのか、本で読んだのか、あるいはリュウに教えてもらったのか。
多分、リュウに教えてもらったんだと思う。
教えてもらった、というより、いつものようにあいつの蘊蓄をこんこんと聞かされたと言うべきか。
『へー、そうなんだ。木って意外と乾燥肌なんだね』
『そういうこと、なのか?笑』
『それ、リュウくんから教えてもらったんでしょ笑』
『正解。笑笑』
それからぼくは食べかけの親子丼を写真に撮り、『昼飯なう』のメッセージと一緒に楓に送った。
『美味しそう』
『めっちゃ美味しい』
スマホをテーブルに戻し、ぼくは残りの親子丼を掻き込むようにして平らげた。休憩時間は一時間なので、そうのんびりとはしていられないのだ。
セルフサービスの麦茶をコップ一杯飲み干してから、席を立つ。
「ごちそうさまでした」
忙しそうにしている店員さんの背中に声をかけると、「ありがとうございましたー」と、ボタンで押したような、機械的な声が返ってきた。
家の砂糖が切れそうだと楓がこぼしていたのを思い出したので、ぼくは店を出たあと隣のコンビニに立ち寄り、砂糖をひと袋と、ついでに夜用のチョコレートを少し買った。前に楓が美味しいと言っていたチョコレート。楓は今日は唐沢さんとお楽しみらしいから、ぼくだって少しくらい贅沢をしてもバチは当たらないだろう。
コンビニを出ると、いつのまにかパラパラと雨が降り出していた。
一応、折り畳み傘を持ってはきていたけれど、あれよあれよという間に雨足は強まっていき、ぼくの小さな折り畳み傘では太刀打ちできなくなってしまった。
失敗したなぁと心の中で舌打ちをする。
もう少しちゃんと天気予報を見ておけば、この時間帯から雨が降り出すことも予期できたはずだ。そうすればわざわざ外に食べに出るなんてこともしなかったのに。出るにしたって、もう少しマシな傘を用意したのに。
ぐちぐちと内心で呟きながら、新宿の大通り沿いを職場に向かって歩いた。
片側二車線の車道は車の往来も激しく、それを挟むようにして伸びる左右の歩道も、ぼくのような昼休憩のサラリーマンたちでひしめいている。みんな傘をさしているから、道の狭さは割増しだ。
横断歩道を渡るために信号の前で立ち止まると、右手から人海を分け入るようにして猛スピードで走ってくる自転車が見えた。
その自転車を漕いでいるのが男性なのか女性なのかは分からなかった。
ただ、その人が片手でスマホをいじり、もう片方の手で傘をさしながら器用にハンドルを握っているのは、わずかに見えた。
見えた、というより、横目に一瞬だけ映っただけだけど。
自転車のスピードが緩まる気配はなさそうで、ぼくも傘をさしていたせいで視野がいくぶん狭くなっていた。
結果、反応が遅れてしまった。
ぶつかるギリギリのところで、ぼくは咄嗟に半身を逸らして自転車を避けた。
運転手はぼくには一瞥もくれることなく、多分そこにぼくがいたことにすら気付いていなかったのだろうけど、そのまま颯爽と歩道の彼方へと走り去っていった。
すると、危ないなぁと顔をしかめるぼくの視界が突然、ぐらついた。
避けた時に動かした片足が、雨で滑りやすくなった地面に取られたのだ。
傾いた体を立て直そうと、ぼくはもう片方の足をコンパスの鉛筆のように振り動かした。
ところが実際のコンパスがそうであるように、軸足がしっかりと地面を捉えていないと、もう片方の足は空を蹴るようにして回転し、そのままバランスを崩してしまう。
気付けばぼくは千鳥足のような足つきになって、赤信号の横断歩道に飛び出していた。
やばい、とは思わなかった。
なにが起きているのか、頭の理解が追いつかなかったのだ。
あれ、なに、これ? みたいな感じ。
刹那、車のクラクションが聞こえた。
ドスンッという鈍重な衝撃が体に走り、次の瞬間、目の前に濁った空が広がった。
それが、ぼくが生きているうちに見た、最後の景色だった。
◇
いつのまにかぼくは暗闇の中にひとり立ち尽くしていた。
どこかと思えば、もう何度見たかも分からない、だけどこれが初めての気もする、あの夢の中だ。
そうか、ぼくは───。
思考するまでもなく、ぼくはなにもかもを思い出した。
ここはあの世とこの世を繋ぐ中間地点、つまりは冥土のような場所なのだろう。五日前に現れた、あの緑のサマーセーターを着た変な男に言われた通り、ぼくは死んだのだ。
楓はどうしているだろう。
父さんは、リュウは。
あぁ……結局、ちゃんとした別れの挨拶を誰にも言えずに死んでしまった。
でも、これもすべてはぼく自身が望んだことなのだから、後悔はない。
いや、嘘だ。
後悔はある。むしろ後悔しかない。
もっと楓に好きと言えばよかった。
もっと父さんに感謝を伝えたかった。
もっとリュウの執筆活動を応援していたかった。
だけど、それももう叶わぬ夢。それが死ぬということなのだと諦めるしかない。
暗闇の中、目の前の一点だけがほんのりと明るく照らされており、そこに古いテレビと古い丸時計が縦に連なるようにして浮かび上がっていた。
目まぐるしく回転する時計の針が、少しずつ、緩やかに速度を落としていく。
その下に浮かぶテレビでは、数多あるぼくの思い出の中でも一番大切な、あるワンシーンがセピア色になって流れている。
人生で一番美しかった、あの日の思い出───。
一晩中、森の中を歩き続けて疲れきったぼくと楓とリュウが、鐘山の展望台の柵に手を置き、そこから望む日の出の絶景を陶然と見つめている。
まだ人の呼気に侵されていない起き抜けの町並みは新鮮な空気に満ち満ちていて、そこに優しくて暖かい朝陽が少しずつ少しずつ馴染んでいく。
歌うように鳴くカラスたちも、後ろで風に吹かれてざわざわとそよぐ森の木々たちも、みんな、夜の終わりと朝の到来を祝福しているかのようだった。
折を見て、リュウが「ちょっとトイレ」と、ぼくと楓をその場に二人きりにしてくれた。
相変わらず気の利く男だと内心で感謝しながら、ぼくは横にいる楓に視線を転じ、意を決して口を開いた。
「楓ちゃん」
「はい」
彼女の目がぼくの目を捉える。
高鳴る心臓の音が、町並みの背中から上昇し広がっていく黄金色の光芒に溶かされていく。
「───」
ぼくは彼女に告白をした。
すると楓はなにも言わずにニコリと笑い、イエスの代わりにコクンと小さく頷いた。
そのあとリュウがトイレから戻ってくるまで、ぼくたちはひと言も交わすことなく、少し頬を綻ばせたまま、お互いにお互いを見つめ合った。
上手くは言えないけれど、言葉数が増えると、せっかく澄みきったこの瞬間の空気がたちまち濁ってしまうような、そんな気がしたのだと思う。
昔に見た映画でもある俳優が言っていたけど、物事があまりにも明白な時は、それを言い表す言葉なんて必要ないのだ。
セピア色の映像は、そこで終わった。
テレビの電源がプツンと切れる。
と同時に、緩やかに減速していた時計の針も、蝶が花びらの上で羽を休ませるように、ピタリと止まった。
「雄馬───」
後ろから楓に名前を呼ばれたような気がした。
「雄馬───」
今度はリュウに名前を呼ばれた。
「雄馬───」
父さんの声も聞こえてきた。
振り返ると、遠くの方に灯火のような光が輝いているのが見えた。
ぼくはその光を目指して歩きはじめた。
あるいは、光の方からぼくに向かって近づいてきたのかもしれない。
正確なことは分からないけど、とにかく、ぼくの体は吸い込まれるように、その光の中へと入っていった。
ぱっと視界がひらけ、次の瞬間、ぼくは実家のリビングにいた。
目の前の食卓テーブルに父さんと楓とリュウがいる。
すごく楽しそうに笑っている。
だけど、彼らはぼくの方には見向きもしない。誰もぼくには気付いていない。
「───一日くらい平気だよ」
彼らの話す声が聞こえた。今まで一度も聞こえたことなんてなかったのに。
「───おい雄馬、楓ちゃんになんか言われてるぞ」
ぼくは、重なり合う彼らの声に耳を澄ませた。
「───してないよ、ニヤニヤなんて」
その一音一音を福音にして、心置きなく死ねるように。
あぁ、父さん。ぼくを大切に育ててくれてありがとう。愛想のない息子だったと思うけど、父さんの息子に生まれてくることができて、本当によかった。先に死んでしまってごめん。父さんの料理、もっといっぱい食べたかったよ。どうか健康に、長生きしてくれ。
それからリュウ。リュウには……もうなにも言うことはないよ。分かるだろ? お前はぼく以上にぼくのことを知ってるんだから。でも、まぁ、ありがとう。いろいろと。リュウのおかげで楽しい人生だった。世界一の小説家になれるように……まぁならなくてもいいけど、ボチボチ頑張ってくれ。
そして、楓。楓、楓、楓……───。
世界で一番、好きな音の響き。世界で一番ステキな名前。
君の声が好きだ。
君の顔が好きだ。
君の髪が好きだ。
君の優しさが好きだ。
夢を追いかける君が好きだ。
顔を広げて笑う君が好きだ。
寝癖をつけたまま起きてくる君が好きだ。
コーヒーを飲む時、最後に唇をぺろっと舐める君が好きだ。
筆箱を忘れて困っているぼくにそっと消しゴムを分けてくれる君が好きだ。
自分が美味しいと思ったものをぼくにも食べさせてくれる君が好きだ。
でも、それらがすべて無くなったとしても、それでもぼくは君が好きだと、きっとそう思わせてくれる君のことが、なにより大好きだ。
楓、今まで本当にありがとう。
愛しているよ。
だから、さようなら───。
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