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【歴史探訪】「非常識なまでに傍若無人」と後鳥羽院に評され、「新古今和歌集」と「百人一首」で知られる歌聖 藤原定家の歌碑 in金刀比羅神社

 港町牛窓の桜の名所のひとつ、金刀比羅神社。岡山県神社庁のWEBページには「鎮座する高台は昔から城山と言われている処」と書かれています。「城山」といっても、ここは海岸に沿った古い町並みのすぐそば。低めのアングルでぐるりと海を感じることができ、まるで前島に向かって船出するかのような感覚になるスポットです。この境内に石碑があり、和歌が刻まれています。
  忘れぬは 波路の月に 愁へつつ 身を牛窓に 泊まる船人
作者は藤原定家、『拾遺愚草』下・恋におさめられたものです。今回は藤原定家、本当に牛窓に来たのか?問題です。
 まず、藤原定家を語るとき、どうしても触れなければならないのが父・藤原俊成です。
 俊成は平安時代末期の1114年生まれ。藤原道長の4代目子孫ですが、子供の頃に父を亡くし、猶子に出ざるを得なかった苦労人です。位階も停滞、なんとか崇徳天皇に認められて歌壇に入ることができました。そして1145年に美福門院加賀(以下「加賀」)と結婚し、昇進し始めます。1回目の転機です。しかし、1155年に崇徳天皇が譲位、1156年には上皇は讃岐に配流――歌壇は崩壊しました。普通なら俊成も巻き込まれそうなものですが、実は加賀が後白河上皇側だったので、難を逃れるばかりかさらに昇進を続けました。動乱の時代に政争から距離を置くことがいかに大事か、俊成は実証済みだったので、後に定家が高倉上皇の病気平癒に参ろうとした際に厳しく制止したそうです。父から子へのリスクヘッジの教えですね。
 もともと俊成は瘧《わらわやみ》という、おそらくマラリアと考えられる持病を患っていて、食養生や健康管理には気を遣っていたようです。リスク管理に長けていた俊成の歌を詠むスタイルは、夜更け、小さな灯だけともし、リラックスできる服で、ただ一人で吟じながら……苦労人ですから。公家にとってはプライドを保つ源泉、新興の武家にとっては身に着けるべき教養――和歌の抒情味を古典に求め、伝統に回帰する――俊成は「新古典調」に己の活路を見出し、和歌の道を究めました。理念は「幽玄」と「新古典調」。ある意味これもリスクヘッジ的創作活動と言えるかもしれません。俊成の代表歌は
  世の中よ 道こそなけれ 思い入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
 さて、 俊成のプライベートはというと、加賀に生まれるのは女子、女子、女子……。一人しかいない男子は和歌の道に進みませんでした。和歌を嗜む甥に家を継がせようかと考えていたのですが、なんと!俊成49歳にして!男子二人目誕生!2回目の転機です。
――甥は出家し、俊成は53歳で実家「御子左家」に戻りました。良い方ですね、甥の寂蓮さん。秀次―秀頼の豊臣家のようにならないのは、俊成さんと寂蓮さんの人徳もあって、でしょうね。そしてこの二人目の男子こそが藤原定家です。加賀は源氏物語をこよなく愛する永遠の文学乙女(ちなみに俊成も「源氏知らざる歌詠みは遺恨の事なり」と言っています)、加賀には前夫との間の子がいて、そのひとり藤原隆信は似絵の名手、母方の芸術性豊かな血筋も定家に受け継がれていたようですが、わかっているだけで、定家の同母の姉は7人、兄も1人、妹も1人いますので合計10人兄弟姉妹!!!(余談ですが俊成にはさらに妻が6人、子が8人います……)。
DNAもですが、この家庭環境も定家の個性を熟成した大きなポイントかと思われます。
 和歌の家「御子左家」期待の星の定家、21歳時点での重要なミッションは幼い後鳥羽天皇の遊び相手でした。大真面目な話ですよ。そのころ禁裏に鶴が飼われていて、近臣が順番で供奉していたと記録もありますが、事件が起きます。源頼朝が弟義経の追討軍を上洛させた1185年11月25日、新嘗祭の宴の場で定家は源雅行に侮辱されて腹を立て、紙燭で雅行の顔を殴ってしまったのです。定家は“殿上人”の身分を除籍、処分されましたが、世の中は頼朝たちのせいでそれどころじゃなく混乱していますので、処分はいつまでも放置されたまま解けません。年を越して、父俊成が後白河法皇に嘆願し、やっと赦免されました。しかし定家は相手かまわず、相当直情的だったようで、後に後鳥羽院に「非常識なまでに傍若無人」と評されています。歌は「生得の上手」と評されていますが、例えば、歌人西行は「生得の歌人、不可説の上手」と評されていますので、“天才的”という意味では違いがいくばくかの含みがあるような……。西行は元武官だけあって身体が頑強。旅も草庵暮らしも全く平気なタイプ。体力に余裕があり、歌にも「なにとなく」から始まるものもいくつもあってひらめき型のようです。ところが定家の体質は父譲り。後鳥羽天皇の熊野行幸に供奉し、初日は「感涙禁じ難し」と書き記していますが、熊野の入り口では「病気不快、寒風枕に吹く」、翌日は「咳病忽ち発り、心身甚だ悩し」と。とにかく身体がついていかず、えらく難儀しています。ここから推察するに、おそらく定家は西行と違ってほとんど旅をしていない、もしかして牛窓にも来ていないのではないかもしれないという疑惑です。定家は『明月記』と呼ばれている日記を56年間つけていますが、全期間遺っているわけではありませんので、「牛窓に行った」という記録が出てくればと思いましたが、にわかには探し出せませんでした。定家の若い頃、平清盛が亡くなっているので、おそらく牛窓は貴族には知られた港だったはず。歌碑の歌は『拾遺愚草』の下・恋にあり、続く歌が「すまのうらや 波に俤たちそひて せきふきこゆる かぜぞかなし」ですので、ちゃんと定家自身が船旅をして牛窓~須磨を訪れたのだったら良いなと思います。
 定家は仲間と難解な歌を詠むことが多かったので「新儀非拠達磨歌」(禅問答みたいでようわからん)と評されることもあったようです。旅の現場主義ではなく都の観念派かなと思われるのもむべなるかな。しかし、考えてみてください。万葉から言えば、和歌はすでに何百年と詠まれ、詠み尽くされています。偉大な家元・老練な父もいます。またルールでがんじがらめ、マンネリ化もしようもの。父は「新古典調」推し、「本歌取り」という技法も押さえておかないと……今のミュージックシーンで例えるならば、二世歌手がカバーしたりするのに似たような、まあ、完コピではないけれど、昔の歌をベースに歌を詠みなおしたりするアレです……でも定家は単なる二世ではありません。何が違うか――知識ですね。いつ誰がどういう場面でどんな和歌を詠んだかという記録と記憶という膨大なデータベースを培っていました。おそらく父の教えもあって、若かりし頃に「紅旗征戎は我が事に非ず」(軍旗をなびかせて敵を討つことは、私の関するところではない)と宣言して歌道を追求し、(母や7人のお姉ちゃん達に催促されたのかもしれませんが)源氏物語や更級日記などの書き写しを進めた定家がいなければ、古典文学もこれほど遺っていないかもしれないほど。だから定家は勅撰和歌集の撰者を仰せつかり、百人一首の撰者ともいわれるのでは?ということでしょう。定家の歌を詠むスタイルは、部屋の真ん中に、衣服を整えて端座して、南の戸を開けてはるかに見晴らして案ずる、だったそう。だから陰影のある父俊成の歌とはやはり違って理論的な切れ味のある歌。月もくっきりとしています。さらに定家の文字は「定家様《ていかよう》」と言われる独特な書体。本人は「鬼のような字」と書き残していますが、早書きながら読みやすさが抜群で、今でいう和風POP体みたいです。余談ですが、今も茶道小堀遠州流の家元は定家様の文字が書けないといけないんだそうです。
 定家は日記の中に父俊成の最期を記していて、熱のためか、雪を食べたがったとか。そして俊成は「死ぬべくおぼゆ」と言って成仏したそうです……91歳の大往生です。俊成は加賀を強く求めての結婚だったそうで、とても愛したらしいです(子供10人がその証)。定家は妻や子供の数も俊成ほど多くはありませんが、定家にも若かりし頃の、もしかして「初恋」でしょうか……噂話があって、お相手は後白河天皇の皇女式子内親王――禁じられた恋です。ジャスミンに似た強い芳香を放つキョウチクトウ科植物テイカカズラの名前は、定家の執心がカズラとなって式子内親王の墓にまとわりついたと言われて名づけられたとか。

テイカカズラ

二人は妄執で死後も苦しんでいる……という金春禅竹の謡曲「定家」を生み出してもいます。いやはや、並々ならぬ情熱の権化ですね。かと思えば、定家の法名は「明静」で、鎌倉初期の動乱期に我が道を冷静に見極めて追及し続けた理性、歌のスタイルに通じるところも感じられます。定家の代表歌    
  見渡せば花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
 いわゆる三夕《さんせき》の歌の一つです。牛窓の夕暮れも、夕日百選に選ばれていますので、秋、金刀比羅さんの、春に盛りだった桜はなく、紅葉もない、真っ赤に染まるダイナミックな夕焼けの海辺の情景はこの歌にしっくりきます。普遍性の高さが、さすが「美の使徒」定家です。定家は牛窓に来ていないのかなぁ?と想像しつつ、ホットでクールな、鎌倉時代前期の最先端前衛的和歌を吟じてみてはいかがでしょうか。

子供の頃から見慣れていた、先代の灯台

参考文献:
『王朝の歌人 藤原定家』久保田淳
『西行と定家』安田章生
『藤原定家』五味文彦
『定家のもたらしたもの』日本女子大学日本文学科
『藤原定家の和歌』馬場邦夫
『臨終の雪』東野利夫
『藤原定家』村尾誠一、等
監修:金谷芳寛、村上岳
文と写真:田村美紀

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