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【歴史探訪】 服部家中興 服部平五郎信恭が大きく羽ばたいたころの港町牛窓

 幕末から昭和初期にかけて、服部家を商家として成長させたのは、第10代の平五郎信恭です。平五郎は1840年(天保11)に生まれました。天保という時代は徳川家斉が大御所として権力をふるっていて、贅により財政は破綻、賄賂など綱紀は乱れ、華美享楽的風潮だったといわれています。
 ちょうど1830年(文政13/天保元年)は60年に一度の伊勢神宮参詣の「お蔭参」スペシャルイヤーで、大阪で13文だったわらじが200文に値上がりしたという説もあり、庶民の観光旅行一大ムーブメントでした。この年に限らず「お伊勢さんに参る」という口実で沢山の人が物見遊山に出かけたようですが、大体は「講」というコミュニティで積立金をし、誰が行けるかはくじ引きで2~3人が選ばれ(1回行ったら権利消失)、牛窓からだと歩いて20~25日の旅で、最初と最後の一日は皆で見送りや出迎えに行くこともあったそうです。今でも年配の人がお土産を沢山買って配るのも、この講の名残で、もらった餞別で流行の柄の織物、新しい品種の作物の種や農具を買い、道中の見聞を話すのが慣わしだったためでしょう。
 その後の天保年間はしばしば洪水や冷害にみまわれ、大飢饉が起こり、大塩平八郎の乱など騒動も絶えなく勃発するようになりました。老中水野忠邦は人返し令を出す、奢侈禁止令を出すなど改革に取り組みながらも成果に結びつけるのは難しかったようです。
 さて、1853年(嘉永6)には黒船が来航し、全国でコレラが流行してしまいました。さらに数年にわたり大地震が頻繁に起こり、「鯰絵」が流行しました。前の天保の改革で役者や美人を描いた浮世絵が贅沢品として規制され、困った版元が代わりに鯰絵を売り出したという説もありますが、今で言う「あまびえ」のように、鯰絵はおまじないの護符として一気に広がり、世相を現した様々なバリエーションが生まれたのも現代と似たところがあります。

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 それから時代は幕藩体制から大政奉還、廃藩置県、学制発布など明治維新へと転換しました。藩主だった池田氏は東京へと移り、中央から元薩摩藩士などの県令(今の県知事)が派遣される中央集権スタイルへと変わっていきます。また、牛窓でも私塾や寺子屋が廃業となり、1873年には牛窓東小学校が設立されました。
 さらに1873年(明治6)には地租(土地に課せられる税金)が改正され、いわゆる年貢という現物の物納から地価で算出された金納になりましたが、おおむね「前より負担が重くなる」ものであり、庶民の暮らしは厳しくなりました。岡山では児島湾の干拓、塩田の開発が大きなプロジェクトとしてあり、牛窓でも青島の開墾、東小学校校舎新築などの土地や建物の動きがありました。
 1884年(明治17)に邑久町出身の画家竹久夢二が誕生しています。夢二は子供の頃、牛窓神社の客殿の絵を見に来るのがたのしみだったという話も伝わっていますが、ちょうど学校の制度が変わるこの頃、姉さんっ子の夢二が牛窓神社で絵心を養っていたのは興味深いことです。
 そして1896年(明治29)に牛窓が町となり、自治権が拡張されました。1903年(明治36)に元岡山藩士で、岩倉具視の第一次欧米使節団にも選ばれた香川真一が牛窓町長になりました。香川真一は1879年(明治12)から岡山の実業界で活躍しており、1891年(明治24)からは岡山県議会議長も勤めていました。牛窓警察署(現在の海遊文化館)も香川真一が私財を投じた、また留学経験から洋館づくりにも長けていたため、牛窓銀行(現在は街角ミュゼ)のレンガ造りの建物も香川がいたからこそのものでしょう。*牛窓銀行は1915年(大正4)創立です。
 一方、1903年(明治36)には長浜湾の干拓が計画にのぼり、それまで半農半漁で暮らしていた師楽区の山本家当主山本満寿一が白菜の栽培を始めました。翌年には日露戦争が勃発し、このころ鉄道国有法、移民保護法、ブラジル移民開始、韓国併合などインフラや法律が整い、段々と国外にも目が向けられるようになります。山本倉蔵がジャガイモを、岡崎佐次郎がホルスタイン牛の畜産を開始しました。岡山ゆかりの作家内田百閒が「花火」という作品で牛窓港に関する話を書いているのも帝大に入学する前ですのでおそらくこの頃かと思われます。
 1911年(明治44)西大寺鉄道が開通し、乗合馬車が開業、次第に公共交通が整備されていきます。1914年(大正3)から始まった第一次世界大戦、1918年(大正7)には米騒動、スペイン風邪の流行など社会情勢が不穏ながらも、1917年(大正6)長浜には県下で初めてバター工場ができ、長浜湾の堤防が完成、山本満寿一がキャベツの栽培を始めました。1923年(大正12)には関東大震災が起こりますが、阪神間は「モダニズム」といういわゆる高級住宅地として人気があったそうです。
 それから昭和に入ると金融恐慌、満州事変などが起こります。江戸時代の早い時期から岡山は開拓で農地が開け、以前の暮らしより豊かになっていました。また豊かになると、レジャーや旅も楽しみのひとつとなり、交通網の発達も重要となります。牛窓は古くから海上交通の要所でしたが、陸上交通では取り残されたため、後に過疎化が進んでしまいますが、1932年(昭和7)吉田初三郎が岡山市の鳥観図を作成した当時はまだ、後方に港町牛窓も描かれています。続けて1934年(昭和9)に瀬戸内海国立公園の制定の際に牛窓も加えてもらうため、政府にプロモーションをかける目的で牛窓町の有志が集って鳥観図を吉田初三郎に依頼しています。吉田初三郎は地図だけでなく必ず現地に赴き、ドローンの無い時代に想像力を駆使して、鳥の目で観光案内絵図を描きました。奇しくもこの年、服部平五郎、竹久夢二が他界しました。天国に昇りつつ空から郷土を眺め、この絵図に書かれたままの牛窓の景勝に、名残りを惜しんだことでしょう。

参考資料:「牛窓港の『みなと文化』」金谷芳寛、「牛窓町史 民俗編」、
「牛窓町の歴史と現在」岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会

画:牛窓町鳥観図 吉田初三郎(金谷芳寛所蔵)

イラスト:ダ鳥獣戯画

文:広報室 田村美紀

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