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【歴史探訪】「土師氏」改めエリート文章博士一家 菅原道真の歌碑in牛窓天神社

 「通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ?天神様の細道じゃ……」幼いころ、曾祖母や祖母が、牛窓天神社に参るとき、家の裏の坂道を登りながら歌っていた童歌です。牛窓天神社の社の正面には大きな天狗の面が掲げられていて、怖くて、いつも目をつむっていたことを思い出します。

こちらを見てます…

 さて、天神様といえば菅原道真。大宰府に向かう途中、船で牛窓港について一息、海の向こうに霞むかつての任地讃岐を眺めようとしたのでしょうか、この山に登り、詠んだ歌が伝えられています。

牛窓天神社から讃岐を望む

 もともと、この山は前方後円墳で、4世紀後半の吉備海部直氏のものではないかとの推論もあります。菅原道真が立ち寄ったのは901年ですので、古墳ができてから500年以上。前方後円墳が作られていた初期は葬送される本人だけでなく、あの世での付き添いとして人も一緒に埋められていました。これら葬送の「しきたり」に通じていたのが土師《はじ》氏です。土師氏は陶器をつくることも職分とし、次第に生身の人間ではなく焼き物、つまり「埴輪」の副葬を定着させていきました。この古墳からも埴輪が出ているそうですので、それは長船町の土師氏の仕事かもしれません。埴輪という方法は、さぞ、当時の人々を安心させたことでしょう。しかし、唐の様式に倣って薄葬令で古墳が小さくなると、土師氏の仕事が縮小します。そこで求められるのが、生き残るための新しい道ーー当時最も有望な方法は、先進の都の唐の学問を修め、官吏になることでした。
 奇遇にも、菅原道真の祖先は土師氏です。785年に曾祖父古人《ふるひと》が住いのある奈良の地名菅原に改姓することを願い出て、許された家でした。祖父清公《きよきみ》も、父是善《これよし》も文章博士、しかも遣唐使の経験もあり、京の都の邸宅は「菅家廊下」という私塾を主宰していました。祖父は、地方任官されたとき、「清公さんを京に戻してください」と沢山の嘆願書が出されたほどの人気者。また父は教育者としての力量に優れ、何か縁があるのですね、「備前」権守になりながらも都で菅家廊下の門下生の輩出に尽力する日々を送っていました。道真の代はすでに菅原家は漢学エリート一家。しかし、跡継ぎで実質一人っ子の道真を案じて「人の嫉妬を買わないように」と諭してくれる慈父是善が、まだ若い道真を残して亡くなってしまいます。そして勉学に励み、儒家として邁進する道真に思いもよらぬ地方行き讃岐守を命じたのは、55歳で即位した光孝天皇。災いが降りかからないように自らの子女をすべて臣籍降下させたほどの思慮深い天皇でした。
 道真は讃岐に行きたくありませんでした。なんといっても儒家として漢学の才を活かせるのは“都のサロン”。しかも、同僚や部下はほとんど讃岐に赴任してきません。人々に「左遷」と噂されるわ、話の合う人がいないわ……しかし道真は仕事の手を抜かなかったそうです。また、桃太郎伝説もこの時の道真が書いたのではないかともいわれています。

道真は乗馬も好きで「天神乗」という乗り方もあるそうです。
(このイラストの乗り方はモンキー乗りです)


 890年、道真が任期を終えて京に戻ると、光孝天皇が親王に復させ、皇位につけた宇多天皇が即位していました。宇多天皇は若い頃、いとこの子である暴君陽成天皇の侍従を務めましたが、今は重臣かつ舅の藤原基経のストライキ癖に困っていました。そのうち基経の長男時平が若くして出世、バランスをとるかのように年長の学者筋道真が宇多天皇の信頼を得、娘二人を宇多と宇多の子醍醐天皇に入内させました。これが第二の悲劇の始まりです。天皇も貴族も大事なのは①自らの権力維持②継がせるなら兄弟ではなく自分の子、ですが決定的に違うのは③天皇は外祖父(舅)の財産が魅力だけど口出しされたくない、一方貴族が娘を差し出すのは権力目的。ここが貴族社会の権謀術策ポイント。時平派が「道真が娘と宇多との子である斉世親王を即位させようとしている」という噂を流し、道真は左遷……これが901年、世にいう「昌泰《しょうたい》の変」で、道真が大宰府に流される失意の道中、牛窓の古墳の山の岩に腰を掛けて歌を詠むのです。
  磯山の 峰の松風 通い来て 浪や引くらん 唐琴の迫戸
あっさりと目の前の情景を詠んだ歌のようですが、「とりなそうとした宇多上皇(松風)を退けた醍醐天皇(磯山の峰)、両者が会って話をすれば、誤解(波)も引くだろうに、この狭く厳しい世間(唐琴の迫戸)で」という意味も隠されているかもしれません。
 当時の文章博士は「妻子を顧みる暇もなく寸暇を惜しんで勉学に励んだ」といわれますが、道真には妻や子がたくさんいました。右大臣という位の絶頂を極める前年に生まれた孫文時《ふみとき》もいましたがまだ赤ちゃん。身内は、みなバラバラに地方に流されたり、都にあっても大変な苦労を味わったり。道真は実質無給で大宰府に左遷されていますので、暮らしも困窮し、とうとう903年に薨去してしまいました。しかしそのうち、まだ若い時平ら反対派が次々と亡くなり、「もしや道真公の祟りでは?」と恐れられはじめます。醍醐天皇も「延喜の治」と呼ばれる善政を行っていましたが、昌泰の変だけは「聖代の瑕《きず》」と言われたほど。そして極めつけは、930年、干ばつ対策で雨ごいをするかどうかを決める会議中、落雷が内裏清涼殿を直撃し、醍醐天皇の目の前で、重臣たちが服を焼かれる、顔を焼かれる、腹を焼かれる、膝を焼かれるなどして悶え苦しみ、死んだ者も出たのです。禁中つまり御所で「あってはならない」死の穢れ。醍醐天皇は落雷事件のいわばPTSDで3か月後に崩御しました。醍醐の子朱雀天皇は3歳まで「几帳《きちょう》」という、いわば部屋の中のついたての中から出されることなく徹底的に用心して育てられたといわれています。
 さて943年、道真の孫の文時は45歳でようやく官吏登用試験に合格しました。文時は諸国の神社の呼び名の訛りを正す仕事をしましたが、ここに注目したのが孫崎紀子氏です。「謎といわれている竹取物語の作者は菅原文時である。なぜなら本来『散吉郷《さるき》神社』と呼ぶべき飛鳥にある神社を『讃岐神社』としている。作者もわからないように暗号めいて竹取物語は書かれているが、登場人物と目される壬申の乱の時代の君臣に反感を抱くものが書いたであろう、そして当時人々に衝撃を与えた富士山の噴火、日本書紀を読んで「吐噶喇(トカラ)人じつはペルシャの姫」が天武天皇に拝謁したことやこの姫を4年間養育したものが裕福になったことを知っている、さらに羽衣伝説、浄土思想など文時ならば条件が一致する」と論を展開します。(詳しくは『かぐや姫誕生の謎―渡来の王女と道真の祟り』をお読みください。車のメーカー「マツダ」の名前ともなったゾロアスター教の最高神アフラマヅダと飛鳥朝が渡来人でつながる面白さ。飛鳥とゾロアスターのつながりは、かの松本清張も興味を持ったようで『火の路』という長編推理小説を書いています。こちらは前回登場の斉明天皇の「狂心の渠《たぶれごころのみぞ》がポイントとなっているミステリーです。)孫崎論は大変興味深く、改めて竹取物語を読み返すと、言葉遊びの気質がなんとはなくオヤジギャクに通じる感じもして、「確かに、作者は40代後半/訛りの専門家/遅咲きの文時さんかも?」と思います。
 947年、村上天皇の時代になると、ついに道真は北野天満宮に神として祀られるようになりました。文時にしてみれば、おじいさんが恐れられ、神様となったのです。孫としては複雑ですよね。
 歌に戻れば、醍醐天皇の第一皇女、和歌と琴の名手と聞こえ高い徽子《よしこ・きし》女王の詠んだ中に「琴の音に 峰の松風 通ふなり いずれの尾より調べそめけん」という歌がありますが、牛窓で道真が詠んだ歌が本歌では?と思われるほどです。そしてどちらも琴の音と松風が似ているという当時の美意識を底にたたえています。
 のちに、牛窓のこの古墳の山にはご神体が祀られ、大宰府からも勧請を受けて、「牛窓天神社」となりました。地元の子たちは受験の時にお世話になります。通りゃんせの歌を思い出しながら、天狗に尊崇の念を抱いている私の曾祖母もちょっと怖かったなぁ……道真の足跡をたどれば、漢詩の世界にどっぷりとひたっていたい純粋な芸術家だっただけ、祟るような人ではなさそうだけど……と思われるのです。天神様は梅のイメージが強いけれど、花に寄せた道真の和歌を二首
  桜花 主を忘れぬ ものならば 吹き込む風に 言伝はせよ
  秋風の 吹き上げにたてる 白菊は 花かあらぬか 波のよするか
漢詩が専門の道真は、和歌もどちらかといえばシャープな切れ味の印象があるのですが、牛窓で詠んだ歌は趣きがいささか異なることをお伝えして、筆を置きます。

牛窓天神社

 参考文献:『摂関政治と菅原道真』『北野天神縁起を読む』
      『かぐや姫誕生の謎』『怨霊とは何か』等
 監修:金谷芳寛、村上岳
 イラスト:ダ・鳥獣戯画
 文と写真:広報室 田村美紀


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