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【歴史探訪】「狂惑のやつ」曾禰好忠の歌碑 in牛窓オリーブ園

  牛窓オリーブ園の山頂広場の東端に、平成6年3月に牛窓町によって建立された歌碑があります。
  上り船 東風吹く風を 過すとて よを牛窓に 泊まりてぞ経る
詠んだのは曾禰好忠《そねのよしただ》です。聞いたことがない?そうかもしれません。和歌といえば「小倉百人一首」、かるたで親しまれ、人口に膾炙していますが、鎌倉初期に、山荘の装飾として色紙の作成を依頼された藤原定家が7~13世紀のベスト100、つまり「相当優れた歌人」の歌を集めたもので、曾禰好忠も選ばれています。また、中古三十六歌仙でもあります。そう、好忠はすごい歌人なんです。
 百人一首の好忠の歌は、
  由良のとを わたる舟人 かぢをたえ ゆくえも知らぬ 恋の道かな
「由良の瀬戸、この狭い海の道をわたる船の主が舵のおもむく方を見失って、行き先が定かではなくなってしまっている。この恋の行方がどうなることやら、ゆらゆら揺れ動いて私自身にもわからないのと、まったく同じ。狭い海峡も狭い世間の恋の道も、難所は難所。夢中でわたる本人には道の先にあるものが見えないものなのね。」(※以下、古文解釈すべて筆者の勝手解釈です。)この「由良」と思しき海辺の地名は好忠が丹後の役人だったので宮津という説と、好忠ほどの歌人であれば、もっと視野広く紀伊の由良でもおかしくはないという2つの説があります。しかし、この歌は下の句の「ゆくえ」の「ゆ」に呼応して、揺らぎを表現できれば良いので、「ゆら」でさえあればどちらでも良いという3つめの説に賛同したいと個人的には思っています。
 地名に関しては、ホームである牛窓の歌も我田引水に陥っていないか、資料をきちんと押さえねばなりません。まず、歌碑は「夫木《ふぼく》和歌集」を原本としています。これは後世に他人が選んだ私選和歌集です。収蔵された歌・歌人数が膨大で研究価値が高いのですが、伝本に乱れが多いともいわれています。一方「好忠集」(「曾丹《そたん》集」とも言う)は本人が作った私歌集です。より原型に近いと考えられるこの「好忠集」の春の歌の中には
  のほりふね こちふくかせを すくすとて よをうしまとに なけきてそふる

とあり(※国際日本文化研究センターHPより)、解説の中には「うしまど」を「憂し 窓」とシンプルに区切るだけというものもありますが、この「好忠集」の2つ後の49番歌に「讃岐」が詠まれていますので、牛窓地名掛詞説をとっても無理はないと言えるのではないでしょうか。
 続いて、好忠さん人物像に迫ってみましょう。生没年は定かではなく、981年頃、謎合わせという歌遊びをしたころに50余歳といわれています。自分の名前「好忠」は「良すぎる名前。それなのに出世しない……」とこぼしてもいたようです。彼は丹後の役人でしたが、役人には厳格な階級があります。彼の生涯でおそらく最も高かった位は掾《じょう》という、四等官の下から2番目。平安時代に、家系がたどれず、生没年もわからないというのは後ろ盾がないことを暗示しており、出世が厳しかったことは容易に想像できます。家柄の良い貴族たちに軽く侮られてしまう例として、歌学書『袋草紙』に「始めは曾丹後掾と号し、その後は曾丹後と号し、末に事旧りて曾丹と号するなり。この時好忠嘆じて、いつそたといはれんずらんと云々

……つまり、素敵な「好忠」という名がありながら、周りの貴族に、呼び名をどんどん粗略化されてしまう憂き目にあって嘆いていると書かれています。呼び名がショート化されることは古今東西しばしばあり、呼ぶ方は「親しみのあらわれ」と言いますが、短縮して呼ばれる方は密かにもやもやしているかもしれないので、昔も今も本当は配慮が必要なことなんですね。
 さて、そんな好忠さんには歴史的ゴシップがあります。『日本略記』にも記載がある、円融院という上皇が主催した、今でいう園遊会のような公式イベント「子《ね》の日の遊び」に、招待もされていないのに、粗末な身なりで現れて、追い返されます。『大鏡』などでは淡々と記録されたこの話も、『今昔物語集』つまり説話の滑稽譚では反面教師にすべく、話を盛り盛りに盛られてしまいます。文章が増えますが、臨場感にあふれているので紹介しますね。

 すでに座について並んでいる歌人の一番端っこに、晴れの冠ではなく普段着の烏帽子を付け、丁子という植物染めの狩衣っていうこれまたスーツみたいな普段着の、みすぼらしいのを着ている爺さんが座っていた。

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「あれ、誰なん?」と目をこらすと、曽禰の好忠じゃありませんか!貴族たちが「あれ、ソタン?ソタンが来てる?」とこそこそと言っていると、ソタンがいら立ってきて、「そうじゃ」と言った。で、貴族たちが、イベントの責任者の事務官に「なんか、ソタンが来てるみたいだけど、呼んだのか?」と尋ねたら事務官は「そんなことはいたしません」と答える。「ではべつの誰かが呼んだのか」と確認して回ったが、誰もNO。で、事務官がソタンに「呼ばれてもないのに何でここにいるのか」と質すと「歌詠みが参るべき催しがあるから参ったのじゃ。参らんほうがおかしかろう。ここに並んでいる歌人たちに劣っているワシではないわ。」という。「こやつを早う連れていけ!」……襟をつかんで引きずられたり、子供まで一緒に走り回って手をたたいて笑われたり、踏んづけられたり。

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とうとう、ソタンは丘の端に駆け上り「お前らは何で笑うんじゃ!言うから、よう聞けよ!陛下がお越しになっておるのじゃ!歌人を呼んでいると聞いたから、ワシ、好忠が参ったのじゃ!祝いの菓子ももう少しで食べるところじゃった。なのに、追い立てられるわ、蹴られるわ!なんでこんな目に遭うんじゃ!!!」と叫んだので、みんなの笑う声がこだまのように響き渡った……。


 少しネットで検索すると、曽禰好忠は「自尊心が高い」「偏狭」「孤立していた」などという陰キャライメージが定着しているようです。それはこの『今昔物語集』の逸話から、ネット上で安易にコピペされていったように見受けられます。しかし、それは必ずしもすべてではありません。例えば孤立については、していません。源重之、紀時文、恵瓊《えけい》法師、藤原長能、小野宮実資など歌壇や一部貴族とも交流がありました。特に、『袋草紙』には、
  曽禰好忠の三百六十首歌に云はく、
  鳴けや鳴け よもぎが杣の きりぎりす すぎゆく秋は げにぞかなしき
  長能云はく、「狂惑のやつなり。よもぎが杣と云う事やはある」と云々。
「鳴け、鳴け、ヨモギが木のように生い茂る中にいるキリギリスよ。過ぎていく秋というのは、こんなにも切ない。」藤原長能に、「ヤツ、ヤバくね?ヨモギは草で、杣(木)じゃねえし。?言う?!」と言わしめています。でも、実は、長能は好忠の真似をするほどの仲良し。自分とは違う才能を見抜いているからこそ「狂惑のやつ」と言ったのです。
 実際に好忠は歌詠みとしての超絶技巧を持っていました。謎かけ歌、パズル歌、即興はもちろん、王道中の王道の格調の高い歌を権門勢家に代わって読むのも、お茶の子さいさい・朝飯前。それどころか新語を作る斬新な感性まで持ち合わせていたのです。そして、「好忠百首」という、今でいえば「ちょうど百、集めた歌集を作ってみた」を発表すると、他の歌人も真似をする。熟年になって、じゃあさ、こんなのどう?と、今度は三百六十首一年分の「毎月集」を作ると、さすがに誰も真似ができないし、大御所的に歌合せにも呼んでもらえるようになった…ちょっと現代のミュージシャンかユーチューバーのようでもあります。(ただし、円融院の催しにお呼びもなないのにおしかけたのはその後です。)その才能あふれる好忠、勅撰集『拾遺和歌集』にも多数選ばれるなど、平安後期の革新歌人たちに再評価されます。
特に評価が高いのは秋の歌です。
  わが背子が 来まさぬ宵の 秋風は 来ぬ人よりも うらめしき哉
万葉調を重んじていたといわれる好忠ですので、当然、額田王《ぬかたのおおきみ》の
  君待つと 我が恋居れば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く
は知っていたはず。さすがは愛される女性の代表格・額田王が比較的あっさりとポップスのように詠んだのに対し、好忠は「私の恋しいあの人が来ない宵の秋の風は、来てくれないあの人よりもうらめしいわ」と感傷満点の演歌調で詠んでいます。
 そして、冒頭の歌碑の歌に戻りましょう。これは季節は梅の咲く早春。初句の東風《こち》……「東風」といえば、菅原道真のあまりに有名な歌
  東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
を思い出しませんか?少し前の世代である道真を、好忠が知らないはずはありません。この歌を踏まえて、上り船の歌を解釈すると、「鄙から京の都に向かう。船は春先の東風、向かい風をやり過ごす。幾夜か牛窓に泊まって、もう何日も過ぎてしまった。いま、自らを思えば、今年の春の除目でも出世という登り船には乗れなかった。権門勢家は栄え、わが身は逆風の中で縮こまっているしかない。世間を憂いても、窓は開かれず、たたずむのみ。嘆きに暮れる年月が過ぎていくばかり。」 曾禰好忠がこの歌を詠んだ時、菅原道真の受難がわがことのように胸にあったのかもしれませんね。そして何の符号でしょうか、牛窓町の天神社には菅原道真が「唐琴の迫戸《せと》」を詠んだ歌の碑があります。こちらもぜひ、訪ねてみてくださいね。
イラスト:ダ鳥獣戯画
文と写真:広報室 田村美紀
監修:金谷芳寛、村上岳


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