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マクロな幸せとミクロな幸せ


どうもどうも。

ぼくは前にも書いたように、けっこうハードな「生きづらさマニア」であり「幸福マニア」なんだけど、それに関して最近ブームになってることがあって。

「このひと凄いな〜」とか「楽しそうに生きてるな〜」っていうひとを見つけたときに、だいたい

「どういう時に、一番幸せを感じますか?」っていう質問を、わりと素でしちゃうのね。
(めんどくせ~奴だなと思われてるだろうな)


みんな優しいから、けっこうちゃんと答えてくれるんだけど、その答えが千差万別で非常におもしろい。

「持ち家で大型犬を2匹飼う」
「仕事終わったあとに従業員みんなで温泉に行くときが一番幸せだ」
みたいな具体的なレベルの話から

「とにかくいいアイデアが出た時」
みたいな抽象的な話や

「歴史に残る作品をつくるという実感に近づいた時」
みたいな壮大な話もあり

みんな、いろんなレベル感の幸福観をもっていて、超面白い。

「趣深ぇわ」と感嘆しつつ、それをおかずに「じゃあ俺は?」と思索をめぐらせる。しあわせについて考えることは最高の娯楽だからね。


で、やっぱりおもうのが、人生みたいなレベル感で語られる「幸せ観」を見出すのはけっこう難しいってことね。

「わたしは何かを成し遂げ、最終的にどんな状況であれば究極的に幸せといえるのだろうか?」

問いがデカい(汗)

こういうのは、とっても壮大なお話で、人生経験を積み重ね、やってきたことの棚卸しや内省をしながら、一生かけて完成させていくものであり、それこそがキャリアの本質である、と尊敬するエドガー・シャイン大先生は言っておる。

そういう、一生かける勢いで追求していく「幸福哲学」みたいなものを「マクロな」幸せ観とすれば、それとは別に、もっと小さな、日常の具体的なシーンレベルでの小さな幸せ、よろこび、好きっていうのがある。

このあいだコルクラボのメンバーで「アメリ」という映画を見たときに、そんなことをぼんやり考えた。

さすが、世界中の内気女子たちの背中を押した名作。
シーンの随所からしあわせになるためのヒントがいっぱいあったのだけど、
映画を見終わったひと同士でslackで感想を言いあってたときに、登場人物を説明するときそいつの「好きなこと」「嫌いなこと」を、超細かいレベルで羅列してたの面白かったね〜、って話になって。

ああいうのちょっとやってたいね、ってことで、ハッシュタグをつけて日常の中の小さな「好きなもの」をあげつらってみる遊びをしてみた。

こんなふうに。

ぼくもやってみた。

(※スプラトゥーンは大きなスキのため除外)


こういう、目盛りの細かいミクロレベルでの「スキ」を道端の小銭みたいにいっぱいひろっていく感じはなかなか良くて、けっこう「幸せ上手」なやり口だなとおもった。

日常のあるスナップショットに、ちょっとポジティブな感情が紐付いている。それを「スキ」と改めて認識することで、心の針がよりポジティブに振れやすくなるし、その機会も増えるだろう。

こういう「幸せのスナップショット」的なものを集めて触れることが、じぶんのハピネスについてを考えるきっかけになるから、積極的に重ねてったら最終的にマクロレベルのしあわせ観を体現するのにも近づいていくんだろうね。

あらためて、小さいスキはいい。
背筋がゾクゾクするような強烈なハピネス体験ってのはそうそう訪れるものじゃないからね。それに、強烈な快楽体験はちょっとやっかいだ。

ぼくらが強烈な幸福感を感じているとき、快楽を感じるホルモンであるドパミンが「ドバァー」と出ているんだけど、ドパミンが切れたあとに感じるむなしさがすごいのね。

「快」と「苦」は連続したものだから、強烈な快楽だけを追っかけていくとよくないよって、どこかの偉いお坊さんが言っておった。ありがたや。

というわけで、壮大なハピネス観を探求しつつも、小銭をひろうように小さなスキを集めるっていうことも並行してやっていきたいな、とおもったお話でした。

なるべく小さな幸せと
なるべく小さな不幸せ
なるべくいっぱい集めよう
そんな気持ちわかるでしょう

「♪情熱の薔薇」THE BLUE HEARTS

いい唄やなあ。

このときのヒロトは超絶に尖ってて超屈折していた(サビが最後の1回しかなかったり)、っていうエピソードを後からきいて、そういうのも含めてなお良いわー。いとあはれなり。

あと、全然関係ないけど、冒頭の写真、「情熱の薔薇」にあやかってバラの写真にしたつもりだったんだけど、あれバラじゃなくて芍薬なんだって。
わかりにくいよね。


おしまい。

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