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人は変われないのか



こんばんは。
ちょっと前までは暑いなあと思っていたのに、もうすっかり秋だね。

こないだもすげー台風がきてて、頭痛やらで体調崩してた人多かったね。



さて、今日は「人は変われないのか」というテーマを考えていきたいとおもう。


「もう私はずっとこのままだし、変われるなんて思えません」と打ち明けてくれる人がいる。

これまでつらい状況から抜け出そうと、さんざん努力してきたのに、うまくいかなかった。
途中までいい感じになってきたのに、気がつくとまた元どおりになってしまう。

そんな経験が積み重なると「自分は変われないんだ」と思ってしまうのも、無理はないだろう。
「人は変われる」なんて言葉を安易に吐く輩に対して恨みがましい気持ちになってしまうこともあるかもしれない。


でも、「変わる」ってなんなんだろうね。
たとえば、人が自分の変化の可能性についてどう考えているかついて、興味深い話がある。


C・ドゥエックは人間の資質(知能や性格、運動能力)などが変えられないと考えているか、変えられると考えているか、その人が暗黙に考えている信念のことを「暗黙理論」と呼んでいる。

 暗黙理論には、人間の能力や特性は可変的あるとする増加理論(incremental theory)と、人間の能力や特性は固定的であるとする実体理論(entity theory)に分かれる(Dweck, 1986)


たとえば、知能で言うと、「自分の賢さは遺伝するものであって、自分では変えられない」という考え方をする人は「実体理論者(決定論者)」、経験を積むことで向上させられると考える人は「増加理論者(成長論者)」っていうんだって。

学習場面において、増加理論(成長理論)的な生徒は、成績の停滞を自分の努力不足などに帰属し、努力を継続させることができる。一方で実体理論(決定理論)的な生徒は、成績の停滞を自分の能力の低さに帰属し、努力を継続できなくなることが知られている


決定論者の場合、成長の見込みのない自分の能力がいま「ない」と、とても困ってしまう。だから、自分の資質がないとわかってしまう場面を極端に恐れる傾向があるそうだ。


新たなチャレンジを避けるようになったり、周囲に自分は能力が「ある」と証明することに多くの時間を割くようになって称賛を求めたり、資質が低いと「分かる」と、その自己否定的な気分を引きずってしまいやすく、結果として、自分の変化や成長の可能性を信じて努力を積み重ねることに労力を割けなくなってしまう。


一方で、成長論者は、自分の能力は経験や学習を積み重ねることによって「変われる」と信じているので、その場がうまくいかなくても、その段階での「可変性」のある部分に注目して、自分の能力を伸ばしていくためにチャレンジを積み重ねることができる。


この「可変性に注目する」というのが、ものすごく大事な点だと思うんだよね。



「自己否定とは、自分の可能性を否定することである」


と言っていたのは名越先生だったとおもうけど、まさにこの「可能性の否定」というのが、自己否定の本質だと感じる。


身体を構成する細胞はどんどん変わるし、社会だって刻一刻と変わっている中で、自分の資質や自分が不幸であることだけが変わらないというのは、ファンタジーなのかもしれない。


むしろ、変化してしまうことは人間の本分というか、避けられない宿命といってもいいくらいだし、放っておいても変わってしまうものである。

にもかかわらず、人を「自分は変われない」に縛り付けるものはなんなのだろうか。

ナラティブ・セラピーには、「問題による支配」という考え方がある。

うつとか自己否定感、怒り、見捨てられ不安など、その人の生きづらさの根元となるようなさまざまな「問題」が存在する。
人が「問題」と、あまりに長い時間ともに生きていると、うまくいかないのが、問題のせいなのか、自分のせいなのか、わからなくなってしまう。


「問題」と自分が一体化してしまう。
「問題なのは自分だ」と思ってしまう。
他の人にも「あいつは問題だ」と思わせてしまう。
その評価を受けて、ますます自己否定感を募らせて、つながりが奪われていく。


それが「問題に支配されている」状態だ。
いったんモードに入ってしまうと、それまでの人生の中での健全な時間や、やってきた功績、幸せな時間が一切なかったことになってしまう。


ドラクエの「黒い霧」のように、その人のポジティブな一面や、人生の中でのポジティブな側面がかき消されて黒一色になってしまうのね。

そんな状況の中で、自分の変化の可能性を信じるっていうのは、ものすごく難しいことだろう。




ただね、これまでも多くの問題がありながらも、それに完全に屈することなくここまで生きてこれたということは、その人には苦境を跳ね返すための資質やパワーが確実に存在している、ということなんだよね。


ただ問題に対して無力に支配されるだけの存在なのではなく、その資質やパワーがあることにも注目していくことで、問題に支配されて生きている物語に違った意味づけができるのではないかと考えるのが、ナラティブセラピーの根本思想なのね。

問題が消え失せることはないかもしれないけど、問題に支配されずに生きていくことはできる。


なぜなら、問題と「その人」は別の存在だからだ。
だから、まずは自分が抱えている問題と支配構造について自覚的になることが、自分と「問題」を切り離していくことにつながる。
「メンタル・クエスト」でも、そういうことを言いたかったんだよね。


実際に、「自分は変われない」と思う人でも、まるっきり変わっていないということはほとんどない。


「自分は変われていない」という主観があるだけで、事実として明確な変化点がある。
ただ、その人の「理想の変化」とのイメージや期待値と違うから、「変わっていない」というように判断してしまうのかもしれないな。



東畑さんが、臨床味あふれるこんな呟きをしていた。


そう、その人の人生を転換させるような変化というのは、ドラマや映画のように明確で鮮やかなものばっかりではない。



でもね、「ああ、今日見せてくれたこの変化は、この人にとって確実に転換点になるだろうなあ」と思わせてくれることがある。
そういう瞬間を共有できることが、何より楽しいことなんだけどね。



今日は、このへんで。
思わず筆が載ってしまったので、更新が遅くなってしまいました。
ごめんね〜。


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