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先生(長いひとり言)

差別をなくすためには、まず差別は「ある」とはっきり認めることからだと自分は考えている。

そしてその「差別」は、どんな立場の人間であっても、必ずしてしまう事を自覚する事が重要だと思っている。

でも何故日本の教育や教師と呼ばれる人たちは、「差別」や「差別的表現」を、子どもたちから敢えて遠ざけようとするのだろう。(正直自分は学校自体が嫌いな人間だったので、その教師にすらなろうと思わなかった人間だ。だからぶっちゃけ専門的な事や実際に働く現場の声とかは知る由もないので、何か深い事が言えた立場でもないんだけど。)

そんな人間だけど、何となく日本の教育(とりわけ人権教育?と言っていいのかな。)に疑問を持ち続けている。今でもそうだ。

「いじめをなくしましょう」そういう教師が、率先して他の教師や新任教師をいじめてパワハラで追いつめていた。

「みんなと仲良く、平等に接しましょう」そういう教師が、クラスの中で生徒を成績が良い順にエコ贔屓する場面をたくさん見てきた。

(…。昔の自分は、大人しい「いい子」だったので結構エコ贔屓されてた節もある。だからこそ、この学校で言う「いい子」って、つまり扱いやすい子の裏返しだと思っている。如何に学校で扱いやすい子を演じることができるのか。演じきれた子がきっと「優等生」になるのだろうと考えている)

またこれから、先生になりたい、もしくはなった人間の中には、勿論色んな人がいるんだろう。

だけど、何かしら学校や教師に対して思い入れがないと、なろうとすら思えないんじゃないか。そんな人達に学校が嫌いな人(子)の気持ちなんて知る由もないのだろうなどと思っている(これだけ書いて教師に恨みがあるわけでは無い。というのは卑怯かもしれない。不快に感じたら大変申し訳ない)

学校や教師に対するリスペクトがそのまま大人になれば教師も同じ様な人間が増えていく。その中で人間関係が生まれるし、偉くなりたければ年功序列が発生する。結果同じ様な考えや教育のやり方が評価され、蔓延する事になる。結局何も変化は起こらずして当然ではあるのか?

差別は教師や生徒などの立場関係なく発生する。

国籍や性別とか関係なく、する人間はする。

それを認める事、自分も他人も、改めて見つめ直す事が重要なのではないか。ね、先生。



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