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異動

 県庁の大型怪獣対策課で働くナガセは、ある日突然呼び出しを受けた。
「君は」部長は冷たい声で彼に告げた。「超小型害獣対策係に異動だ」
 荷物をまとめて、すぐに新しい課の事務所に移れ。以上が部長から受けた最後の指示だった。シンプルで、明快。いつもこんな風に言ってくれていたら、あんなにたくさんミスをしなかったのにと思うと、ナガセは少しだけ残念な気持ちになった。
「聞いたよ」荷物をまとめている最中、タニグチに話しかけられた。彼はナガセがこの職場で、一番よく話した同僚だった。「異動になったんだって」眼鏡の奥の彼の目は、こんなに可笑しいことはないと潤んでいた。
「次はお前だよ」ナガセも笑った。
「やめろよ、リアルすぎるだろ」ますます大きくなる笑い声。「まっ、頑張れよ。時々遊びに行くからさ」
 超小型害獣対策係の職場は、庁内倉庫の片隅にあった。棚と埃に取り囲まれた薄暗がりに、デスクがふたつだけ置かれていた。ナガセが荷物を抱えて行くと、一人の男がそこで椅子に座って、何もない天井を見上げていた。
「初めまして」ナガセは笑顔を作った。「ナガセです。今日からお世話になります」
「おう」彼はナガセを見もせずに答えた。「おれはアカシだ」
 アカシと名乗った男は、小柄だが、髭を伸ばしっぱなしで肌色も悪く、ナガセよりかなり年上に見えた。荷物を片づけている間、彼はナガセに全く注意を向けなかった。ただ上を見ているだけだった。
 彼こそ、新しいナガセの上司で、新しい同僚だった。たった一人の。
「で」腰を下ろしたあと、ナガセはアカシに問いかけた。「何をすればいいですか」
 すると初めて、彼はナガセを見た。その目は胡桃のようにとても小さかった。
「何もないよ」面倒くさそうに彼は言った。「俺たちは別に何もしない」
 彼の言葉はそのままその通りだった。翌日からナガセの主な職務は、ただ空っぽな時間を、ひたすらやり過ごすことになった。
 岩が崩れて、砂になっていくように、ゆっくりと時間が過ぎた。ここでは何をすることもなく、何を求められることもなかった。初めのうちはさすがのナガセも、自分から掃除をはじめてみたり、アカシに指示を仰いでみたりさえした。アカシはまともな答えを返さなかった。アカシは一日のほとんどを、本を読んだり、ただ呆けたりしていた。ナガセはまず彼に話しかけるのを止めた。そしてそのうちに彼もまた、この新しい時間の流れ方を受け入れていった。三日目にはもう、彼もずっとスマホをいじっていた。
 机の上の電話が突然鳴りだしたのは、まさにその三日目のことだった。半ば反射的に、ナガセは受話器に手を伸ばした。すると、アカシが静かにそれを止めた。
「はい、こちら……」受話器を取ると、人が変わったような声で、アカシは話し始めた。「成程」「そうですか」などと、色々な相鎚を打っていた。それから彼は言った。「お話を聞くかぎり、小型害獣の仕業だとは断定できないと思うんですよ。ええ……」
 しばらく話してから、彼は受話器を置いた。そして何事もなかったかのように、読書に戻った。ナガセはただぽかんとそれを見ていた。
 電話がかかってくるたび、アカシは同じようにした。「具体的な被害はないんですよね…」「近所のネコかも…」「尻尾が30cm以上あるようなら…」「ええ…」
 言語化されることによって、初めて存在するとされる何かがあるとしたら、アカシのしていることはその反対だった。彼は電話をかけてきた相手の認知を操作し、自分たちを記述の外へ追いやることで、非存在という立場におさまっていた。ここの静けさは、そういう風にして守られてきた静けさだったのだ。
 ナガセはだんだんとそれを理解していった。
「アカシさん」ある日突然、ナガセは口を開いた。「アカシさんはすごいですよ」
「そうか」アカシは顔を上げなかった。
「アカシさんみたいに、俺は絶対できないです。要領よくというか」
 ページを捲る音だけが聞こえた。
「アカシさんはどのくらいここでこうやってしてるんですか」
「……十二年ぐらいだな。ずっとだよ」
「いいなあ。俺もそうしてえ」ナガセはため息をついた。「もう異動したくないですよ」
 顔を上げないまま、アカシは愉快そうに笑った。それはナガセが初めて聞いた、彼の笑い声だった。どこか内臓を痛めているかのように、笑い声は少しくぐもっていた。
 次の日、アカシは職場に現れなかった。
 代わりに、タニグチが冷やかしに来た。
「お前聞いた?」いつものように、心の底から彼は笑っていた。「お前といっしょに働いてた人。捕まったって」
「マジで!?」ナガセも笑顔を浮かべた。いつものように。「なんで?」
「何でもあの人、変な宗教団体みたいなのに入ってたんだってさ。祈りを通じて怪獣を呼び寄せるとか、そんなの。噂だけど、あの人それで怪獣呼んで、県庁潰させようとしてたらしい。発想が狂気的だよな」
 ナガセは声を出して笑った。
「ま。また飲み行こうぜ」帰り際、タニグチは言った。「時間があったら、またな」
 タニグチの笑い声が聞こえなくなると、倉庫は途端に静かになった。
 一人残ったナガセは天井を眺めた。
 どのくらいそのままでいたか分からない。突然、甲高い音で電話が騒ぎ出した。ナガセは無視した。だがその音は、まるで変態する怪獣のように、虚ろな空間を膨らんでいった。ナガセはついに電話機を見た。なぜか一向に、電話は鳴りやむ気配がなかった。

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