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蛾がただやってきてただ死んだ話

毎年啓蟄を過ぎると、示し合わせたようにあちこちからちゃんと虫が沸いてくるので、啓蟄を考えた昔の人すごいなあと思っていたら、今年の啓蟄である3月6日を過ぎて数日後、家を出てみると自宅玄関前の通路の壁に体長4~5cmほどの蛾が一匹止まっていた。私は蛾がただただ苦手なので叩き落とすことさえできず、最初のうちはドアの裏に移動しているんじゃないかと心配になり、家を出るにもやたら時間を食っていた。
しかし、徐々に私はこの蛾に対する不安が全く無駄であることに気がつき始めた。なにしろおそろしく動かないのだ。朝、昼、夜、家を出、蛾に一瞥くれるたびに蛾はいちいちそこにおり、やがて蛾を見る私の目は山を見る目と変わらなくなっていった。

やがて1週間ほど経ち蛾を見てみると、例の蛾のそばに、おそらくつがいだろう、もう一匹のやや小ぶりな蛾が止まっていた。おっ、蛾にも人生があるなあと思った。見たところ先の蛾のポジションは相変わらずであった。そしてたちまち、翌朝小ぶりな蛾は死んで床に落ちていた。蛾の雌雄を全く見分けられないので死んだのが彼なのか彼女なのかも分からなかったが、なんとなくオスであるような気がした。交尾直後メスに食われて死ぬオスのカマキリの話をぼんやりと思い出したからだ。

小ぶりな蛾が死んで床に落ちてからというもの、しかし一方で、先の蛾はたくましく生き続けた。私は来る日も来る日も彼(女)の生き様を見つめ続けた。とはつまり上に述べたように、何しろ壁にくっついて山のように動かなかったのだ。風のある日も、ここ1週間降り通しだった雨の中も、彼(女)は頑として動こうとしなかった。まるでそこに強烈な意志でもあって、恋人が死んで床に落ちてなおこれを顧みず、大空に羽ばたいたり、むやみに街灯に集まることもせず、ただその場所に存在し続けることに何か意味があるに違いない、と私が考えただろうか。いや、これは全然考えなかった。

そして今日、3月30日の朝、私が仕事を終えて自宅に帰ってくると、その蛾は死んで床に落ちていた。これまでの時間と、結末のあっけなさから思わず、(おまえ、何のために生まれてきたんだ)と問いたくなった。当然、この問いはたちまち自分に向かってきたが。死んで落ちた床の上で、2匹の蛾の死骸はひっくり返って重なっていた。天国で2匹はようやく再会できるだろう。あるいは、本当に何もしていないので審判の下しようがないかもしれない、蛾にも天国があればだが。でも多分だけどないと思う。ひとつの命が生まれ、消えていくことのあまりのふわっと感にあてられ、仕事の疲れが、実はこれがちょっと癒えた。

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