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【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part3【p9「第1章 基礎原理」〜p11 25行目まで】

本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。

・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』

・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』

お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回はp9第1章の基礎原理に入っていきます。
今回は解説の都合、行数まで記入します。


第1章 基礎原理

今回は基礎原理の前半部分を解説します。
まずはざっくりまとめとして目次を掲載します。

そして今回の基礎原理前半部分の言いたいことを三行でまとめますと…

・「人間は生まれつき歌手」であり、人間は誰でも「歌う」ことができる能力を有している。

・「歌えない」のは知的な言葉の発達、社会へ適応していく際に、動物的な本能のままの歌声が抑制されてしまうからである。

・これを解決するには、まず聴覚の鋭敏さを取り戻すことである。

といったところです。
主張はこの3つ、特に前の2つが大部分を占めており、述べられている内容は「なぜフースラーはそう考えているのか?」を説明しているものと言えます。

では以下、内容に沿って解説していきますので、よろしくお願いします。


1.歌声は「心の動き」+「身体的な機能の連続」によって呼び起こされるもの。歌うことは人間の属性であり、歌いたいという衝動は私たち人間が動物的な本能として生まれ持ったものである。しかし高度な文明を持つ人種ではこの衝動が徐々に消えつつある (p9 1〜7行)

補足として、解説版ではここからp10 3行目までの1塊を「区分1」としています。
合わせて読まれる方はそちらもご参照ください。

  冒頭ではフースラーの思想のような意見が述べられています。(解説版では哲学的、思想的、と述べられています。)
ここで述べられている「歌うことは人間の属性」「歌いたいという衝動は生来のもの」といった部分が「言いたいことの芯」であると私は捉えています。

まず冒頭はドイツ語版で
'Die Singstimme wird hervorgerufen durch eine gewisse urtümliche seelische Verfas-sung und durch ein lange Reihe körperlichr Funktionen.'
DeepL翻訳「歌声は、ある種の根源的な精神的体質と、長い一連の身体的機能によって生み出される。」となります。
解説版でも「原始の心の状態」とされていますが、ここででてくる「ある種の根源的な精神的体質」というのが、理解しにくい点かと思います。
しかし、この「根源的な」「原始の」という表現こそが、「うたうことは私たち人間の動物的な部分にあたるのだ」と言いたいのだと読み解けます。
私の理解では、一文目よりもそこから続く以下の内容が重要と捉えています。

一般的にいって、音楽を作ったり詩を作ったりする間接的なことほどには満足されていないけれども、歌いたいという衝動は生来のものである。

うたうこと 邦訳版 P1 2行目〜

ここの「生来のもの」というのは「生まれ持ったもの」ということですが、それだけでは少しわかりづらいので、あえてここでは私の理解として言葉を足して解説させていただきます。
「音楽を作ったり詩を作ったりする行為は動物的ではなく知的な行為だけれども、歌いたいという衝動は私たち人間という動物が生まれ持った動物的な、本能的なものだ」
「動物的な」「本能的な」というのがこの「うたうこと」を読み解く上でのキーワードと考えております。

そして4行目後半から、
’高度に文化的な人種では、この内的衝動は消えつつある’
とあります。
私は「高度に文化的な人種」を「高度な文明を持つ人種」と言い換えています。
日本語における「文化」という言葉の意味として、「世の中が開けて生活水準が高まっている状態。」という意味があるようですが、現代の日本ではいわゆるカルチャー(或る集団の様式)といったニュアンスで用いられていると考えているため、ここでは文化よりも文明と言い換えた方が理解しやすいと考えます。

話を戻して、「文明が発達している人種」とは何か?
これはいわゆる「先進国の人々」や「発展途上にある国々の中でも経済的に進み始めている国の人々」を意味します。
例えば電気を使いこなしたりパソコンを使っていたり車を活用したり、といったものです。
ここで現代の人類を「現代人」とひとまとめにするのではなく、「人種」という言葉にする理由は、下記のように捉えると納得感があるかと思います。

・文明的な生活を送る人種(特に経済や技術などが発展している)と比較して、
・経済などが発展していない、いわゆる原住民の方々は
・この「内的衝動」「動物的な本能」が強い状態と考える
  =人種が違えば内的衝動に違いがある

高度な文明を持たない人種では歌う衝動が残っている、と言われると、みなさんも
「たしかにテレビでよく見た「原住民」ってみんなクラシックとかとは違うけど、歌ったり踊ったりしてたよなー」
なんて思う方もいるのではないかと思います。
ここではそういった原住民の方々ではなく、文明が発達した国の人々はこの「内的衝動」が失われているとフースラーは述べています。


2.発声する際に動く筋肉は、人類共通で生まれつきもっている。歌が歌える少数の人にだけ与えられた特別なものではない。ということは、「歌えない」という場合は生まれつき与えられた能力が「閉じ込められている」に過ぎない。ゆえに「鍵を外してやる」べきである(p9 8〜13行)

ここでは、人間が発声するための肉体的前提条件は生まれつき持っているとフースラーは述べます。
生まれつき他の人が持っていない筋肉や器官を持っているから歌手は歌えるんだ!というわけではなく、みな共通で同じものを持っているというのは理解しやすいかと思います。

それが「肉体的前提条件」「解剖学的構成」という言葉で表現されています。
転じて、歌が歌えないという場合は、この生まれ持った器官の能力がどれだけ使えるかによる違いと言えます。それを「能力が閉じ込められている」と表現していると捉えます。

最後に出てくる鍵を外すという表現は、この「能力が閉じ込められている」ということに対応する表現であると考えます。
「発声する際に動く筋肉たち(=発声器官)がなにかしらの原因によって生まれ持った能力を発揮できずにいる」状態を「閉じ込められている」とし、
それを発揮できるようにすることを「鍵を外す」「解錠する」としています。


3.ある人が「歌えない」ということは「歌うための器官がない」のではなくて、「歌うための器官が貧弱な状態である」ということである。(p9 13〜20行)

2番が理解できるとここはスムーズかと思います。
歌えない!という場合は器官が「無い」のではなく「貧弱である」のが原因ということを述べています。
この事実は言われてみればそれはそうじゃない?と思うような単純なことですが、フースラーはこの単純な事実を生理学者や医者でさえ知らないと一蹴しています。
それは、
’歌手が特別な体を持っていたり、不思議な方法で自分の楽器(すなわち発声器官)を作り上げていると信じているからだ。’
と述べられています。
この本が書かれた当時と現代で比較した時、生理学者や医者の一般的な認識は違う可能性がありますが、少なくともフースラーが書いた当時はそのような認識があったのだと思われます。
そして2番でも述べられているように、「歌うための肉体的前提条件はみな共通でもっており、歌手だけが特別な肉体を持つわけでは無い」ので、「歌手は自然の法則の外にあるものではない」と続くわけです。


4.「歌うこと」は非常に複雑で尚且つ意味深い能力であり、こういった複雑な能力は必然的に、種全体に与えられていなくてはならないからだ。例えば 「歌う渡鴉」 は存在しないが、 「歌えない雄ナイチンゲール」 は存在しない。(ナイチンゲールが病気であったりしない限り)(p9 20〜23行)

ここでは鳥の例えを出して、下記のようなことを述べています。
「歌うってとても複雑な能力なんだから同じ動物の種類の中で持ってる人持ってない人がいるなんておかしいのでは?」
「ほら、ナイチンゲールとかの歌う動物見たらさ、歌える動物は病気とかじゃない限り歌えるでしょ?」
砕けて表現するとこんな感じです。

動物の例えが少しわかりにくいとも思われますので、補足しつつ説明します。
渡鴉の鳴き声は図鑑によってはカホン、カポンと書かれている場合もあるようです。日本で一般的に知られるカラス(ハシブトガラスやハシボソガラス)とは少し違ってより高い音で鳴きます。
一方ナイチンゲール=和名サヨナキドリであり、「西洋のウグイス」とも言われる鳴き声の美しい鳥とされています。ナイチンゲールという名前も、古英語で夜に歌う、という意味で和名の由来ともなっていると言われるほど、人間にとっては「歌」という概念と結びつきの深い鳥です。
主観を述べると一般的にイメージされる、癒される美しい小鳥のさえずり、といった印象です。
*どちらの鳴き声もyoutubeで調べると聞くことができるので一度聞いてみると良いかもしれません。

比較してみると確かに「歌っている」ように聞こえるのはナイチンゲールだと思います。そしてフースラーは、この歌う能力は非常に複雑で、「こんな複雑な能力だったら最初からその種はできるようになっていなければならない」と述べています。

他にもシジュウカラという鳥も美しい声でさえずるのですが、シジュウカラの歌声はその歌い方に意味があり、仲間とコミュニケーションをとっていると考えられています。
(例えばツピーツピーといった歌声は警告を表していたりするようです。)
こういった動物として生きていくために必要な能力であるからこそ、複雑な能力を種全体が扱えると考えると、「歌う」という複雑な能力が扱える人間がいる=人間という種は「歌う」能力を皆持っているはず、「歌えない」場合は何かしらの制限がかかってしまっている(鍵がかかっている)というのがここでフースラーが述べているのだ、と私は捉えています。


5.ここまでのまとめとして、
①大昔から人間という動物には歌う能力が生まれつき備わっていた。
②長い時間が過ぎ去っていく中で発声の機構を使わずにいた為、音声衰弱症となってしまい、今やこの状態が当たり前になっている。
③自然歌手と呼ばれる、「最初から発声器官がよく使えている歌手」がいることを踏まえると、現代の多くの人間は抑止された歌手なのだと言える。
(p9 24行〜p10 3行)

ここでフースラーは「人間はそういうふうに作られている」「ずっと昔には人類は誰でも歌ったものだ」と述べています。
この次の段落(p10 4行目頭)でも繰り返し述べられますが、

「人間は生まれつき歌手である」

これがフースラーの基礎原理、基本概念とも言える主張です。
「多かれ少なかれ抑制されている」などの但し書きがありますが、ここではあえて省きました。
確かに抑制されていることや、「じゃあなんで上手く歌える人と歌えない人がいるんですか!」という意見がもちろんあるであろうことを踏まえると、付けて然るべき補足事項なのですが、それはあくまで補足的な情報に過ぎないにも関わらず、そういった情報が多いが故にこの本は読みにくい!と感じられてしまう為、省いてシンプルにさせていただいた次第です。

そしてこの概念は発声訓練教師にとって「きわめて肝要な」概念であると次の段落で触れられています。


6.「人間は生まれつき歌手である」という概念は発声訓練教師を進むべき道に導き、誤った考えを正してくれる。 例えば「歌声の発声」と「話し声の発声」が同じものであるという誤った考え方を拭い去ってくれる。(p10 4〜9行)

ここから解説本での「区分2」に入っていきます。

ここの後半部分で
’誤った考え方(たとえば、歌声の発声と話し声の発声が同じものでひとつだという考え方)を拭い去るだろう’(p10 8行目〜)
という記述があります。

これについては、おそらく読者の皆様も「同じじゃないの?」という疑問が出る部分であると思われますが、フースラーはこれらは違うもので、同じものだと考えるのは誤った考え方だとしています。
これについてはこの場では例え話としてさらっと流されていますが、
p10後半部分、本ブログの8番が「なぜフースラーはこれを「誤った考え方だ!」と言っているのか?」を読み取れる部分となりますので、ここでは一旦進ませていただきます。


7.声を訓練することは「声を再生」することであり、それすなわち治療である。(p10 10〜13行)

先ほどの歌声と話し声の話題が補足的に入っている為混乱しますが、この話は「人間は生まれつき歌手である」に掛かっていると考えられます。
・「人間が生まれつき歌手なら」…
・「歌えるように訓練する」ことって…
・「元の状態に戻す」=「再生」するってことだよね!
と考えるとわかりやすいかと思います。
フースラーはこれを「歌うための器官を、自然が意図した状態へ戻す」と述べています。
例えば、誤った体の使い方代表として「ストレートネック」を挙げます。
ストレートネックの体の状態は、いわゆる異常をきたしている状態で、
それは自然が意図した体の使い方ではないため体にさまざまな異常をきたしていると考えられます。
当然、人間が今の姿に進化するのにかかった膨大な時間に対して、
スマホやパソコンなどが生まれてから、100年も経っていません。
人間の体が、スマホやパソコンでの座って長時間の作業に適している体になっていないというのはみなさんも理解できるかと思います。
このような「適していない使用方法によって体に起こった異常」。
これを治す行為があるとしたとき、それは「治療」と呼ぶのはなんとなく納得いただけるかと思います。
これと同じように考えていくと、フースラーが「声の訓練」=「再生」であり「治療」であると述べているのが理解できるかと思います。

このように「声の訓練」を「治療」として捉えると、
・歌声の技術を高める技巧を身につけたり
・より芸術的に聞こえるような装飾をつけたり
といった教育や練習は、フースラーの考える「声の訓練」とは違うもの、というのが見えてきます。


8.人間は、話すことができるようになる遥か昔、原始時代に長い間歌声に恵まれていた。これは赤ちゃんが生まれてすぐから無意識に出す、「旋律的な感情的な響き」を、苦労して「話すことのために声を作り直している」ことからも推察できる。(p10 15〜19行)

生まれたばかりの赤ちゃんはいわゆる「生まれつき歌手」に含まれるため、なんの制約も受けない無意識で、生まれてすぐ呼吸をするために鳴きます、これを「旋律的な感情的な響き」とフースラーは形容しています。
ここが先ほどの6番で出てきた、「歌声」と「話し声」の大きな違いと読み取れます。
・「歌声」は生まれてすぐの赤ちゃんが出せるほど、知的なものが一切必要のない動物的な本能に身を任せたもの
・「話し声」は知識を得て社会の中で自己認識を固めていく過程を経て苦労して「歌声」を作り直したもの
であると言えます。
ここでいう歌声はいわゆる音楽的な歌ではなく、感情の発露に身を任せた動物的で本能的な声を「歌声」と呼んでいると読み取れます。
動物として持ち合わせた歌声と、知性や社会性を伴った話し声が同じものではないという点についてはここで伏線を拾った形になります。


9.喉頭が非常に混み入った仕組みをしていることから、歌うための特殊な楽器であることは疑う余地がない。言葉を作り出した知性が歌うための器官を占領したのである。(p10 19行〜p11 1行目)

フースラーは喉頭は歌うための楽器であるとここでは言い切っています。
その仕組みとは整体の表面が節線の形成によって割り切れる部分に縦方向に分割される、という点が調和的に分割されるためであると述べており、これらは
’いわゆる「無用な」と考えられている美の感覚を生じさせるため以外にはなんの目的をももちうるものではない’
と声帯の持つ構造が美を生むためのものであるといった表現をとっています。
私の理解としてはこういった意見はモノを見る角度によって異なるモノであると考えており、あくまでフースラーはこのような概念で考えているのだ、程度の理解で留めておくのが良いかと思います。
ただ、美の感覚自体は人間にとって「無用なもの」ではないというのはおそらく大衆の理解を得られる意見かと思います。
美の対象が何かは人によって異なりますが、絵画や音楽、芸術、陶芸、工芸品、あるいは肉体や、人の顔、はたまた抽象的な概念を美学と呼ぶなど、挙げればキリがないほど「美」と関わるものは多いです。
「美」というものは人間と切り離すことのできないものであるという点については理解しやすい点かなと思います。

10.人間は言語の発明によって人間性を発達させたが、言語が急速に発達した結果、歌うことにおいて使われる筋肉が衰えてしまった。(p11 2〜17行)

8番から続く流れとして、動物的な本能のままの歌声と比べ、言語を扱うにあたって知性を働かせ、また、感情のままに声を出すことが少なくなった結果、あまりつかわない筋肉が現れ、語弊を恐れずに簡単にいうと筋肉たちがサボり出してしまっている、それが現代人の「ふつう」になってしまっているのであるとフースラーは述べています。
念の為「神経支配の欠如」「不用性萎縮」についてすこし補足します。
とっても簡単に説明しますと、
・筋肉は長い間使われずにいると萎縮し痩せていきます。
・神経支配が悪い筋肉は、筋肉に対する命令が上手くいかず、筋肉の動きが鈍くなります。
歌声と話し声には違いがあり、動物的な体の使い方がされなくなっていった結果、これらの異常が起こってしまうといったことが述べられています。
そしてそれが起こってしまう要因の一つとして、「大声で笑ったり、怒鳴ったり、泣いたりといった感情表現が呼吸筋と喉頭の共同運動を引き起こす」ことによって自然と身につくはずの体の使い方が ’感情の騒々しい表現を許さないという因習的な行儀作法’ によって阻止、抑圧されてしまうと続きます。
これは現代日本においても非常によくある話ですから、みなさんも幼い頃は「大きい声を出すな!」「泣くな!」「近所迷惑だろ!」と怒られながら育ったという方も少なくないと思います。
「社会に適応するため」という目線ではあるいは確かに役に立つのかもしれません。
ただし、これらが本来人間が育っていく中で自然と使えるようになるはずの呼吸筋と喉頭の共同運動を阻害してしまい、結果として先ほどの「神経支配の欠如」や「萎縮」などが起こってしまうのだと考えられます。


11.それにくわえて現代人は聴覚情報よりも視覚情報の方が優勢となってきており、歌うための器官を自分で感じ取ることが難しくなってきている。それゆえにまずは聴覚をふたたび呼び起こすために再教育するのが、歌声についてのあらゆる作業の出発点である。(p11 18〜25行)

これについては、聴覚と視覚については例を挙げて説明します。
目の見えない方は触覚や聴覚が鋭くなるという話はよく聞くと思います。
それは視覚情報が得られないため、聴覚情報から多くの情報を得る必要が自然と増えるために鋭くなるのであろうと考えられます。
現代人は文明の発達、電気の発達によって朝昼夜全ての時間で視覚情報に頼って生活ができます。
また、本などの文字媒体が普及していることも、視覚情報の優勢化を促していると考えられます。
スマホをはじめとした電子機器類もあり、視覚からの刺激は大昔の人類と比べて多くなっていると言えます。
それゆえ聴覚情報に対する鋭敏さが損なわれている、まずは本来の聴覚の鋭敏さを取り戻すのが訓練のスタート地点であるとフースラーは述べています。



ここまでがひとまとまりと考えて良いと思います。

まずフースラーの言いたい大前提は「人間は生まれつき歌手」であるということ。
つまり本来は誰でも歌えるはずという意見ですね。
続けて「歌えないというのならそれは本来の能力が発揮できていないだけなのだ」ということ。
そして最後に「まずは聴覚を取り戻すことからはじめよ」ということ。

この3つが、区分1〜2で述べている内容であり、「基礎原理」と銘打ってあるだけあって、フースラーにとっての「大前提」をさまざまな角度から説明している内容であると言えます。

基本的にこれらの概念はフースラーにとって土台となっているもので、飲み込んでおかなければこの先も「え、何の話…?」となってしまう可能性大なので、「そういった考え方なんだなー」と頭の中に一旦仮置きしておくと理解しやすいのではないかと思います。

では長くなってしまいましたが今回はここまでとします。
次回は第1章の続きを進めていきます。
よろしくお願いいたします。

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