『ミモザの告白』について

あかん。これはあかん。トランス女性の高校生を中心に書かれたラノベ作品なのだが、はっきり言っておく。差別的、差別加担的な作品だ。少なくとも、マイノリティを登場させている作品として大きな問題がある。
以下、詳しく述べたい。(トランス差別について直接的な言及があります。)

第一点。マイノリティへの言及からの意図的な逃げ。
あとがきに「作中では使用を避けている単語がいくつかあります。理由は多々ありますが、本作とその人物たちを特定の枠組みに当てはめたくなかったから、が最大の理由です。誰にでも身近に感じられて、自由に解釈できる作品になればいいな、と思って書きました」とあります。(この時点で既に察してる方も多いかと。)
一方で、この槻ノ木汐という人物は、明らかにトランスジェンダー女性として描かれています。汐はp.49で、これからは女子生徒として通学することを同級生たちの前で明かす。p.49「実は今まで、自分の性別に疑問を持ちながら生きてきました。先週、家族と話し合っていろんなことに決心がついたので、今日から女子としてやっていきます」
また、作中には現実にトランスジェンダーに向けられる差別発言が多く書き込まれています。(断りなくそのような描写を入れることも問題です。単語「トランスジェンダー」を避ける以上、「トランス差別あります」とも書けなかった。)そのほとんどが西園という登場人物によるものですが、p.68「大体ずっと男として生活してきたのに、今さら女になりたいとか、ワガママだし無責任だよ」[…]「きっしょ。まじで無理だわ」[…]「似合ってるとかなんとか言ったの、あれ、全部お世辞だから」p.129「てかさー、下着どっちの履いてるんだろうね。[…]男子が女子の制服着てるのって校則違反にならないの? あれって風紀を見出してると思うんだけど」p.135~136「「だって汐、男だもん。スカートなんていらないよね」[…]「どんだけスカートに固執してんの? 女子の格好したら、自分も女になれるとでも思ってるわけ?」[...]「答えろよ! ついてんだろうが!」そう叫び、あろうことかーー汐のへそより一〇センチほど下の、[…]鷲掴みにした。」p.183「いくら周りが女の子扱いして本人がそう思いこもうとしても、汐が男なのは変わんないから。それとも手術でも受けんの? 切り落としたりするわけ? そこまでやってないってことは、結局お遊びなんでしょ?」p.263 「何も間違ったことは言ってないから」[…]「率直な感想を言っただけだから。気持ち悪いもんは気持ち悪いんだから仕方ないでしょ」[…]努力で直せる範囲なんだから別にいいじゃん。あれでも私、汐のこと気遣って言ってたんだけど」[…]男のままでいたら、普通の人よりかは楽に生きられる。でも、女になったらそんな恩恵は受けられなくなるの[…]今は女の方がいいと思っても、とびきり可愛い女の子と知り合ったり、社会人になって働き出したら、やっぱり男でいた方が良かったな、って後悔するときがくるかもしれないじゃん[…]自分の身体に考え方を合わせたほうが、よっぽど健康的で賢い生き方だと思わない?」(うへー、見飽きすぎて見飽きたあまりにもよくあるトランスヘイト言説…。)
これらの言説は現に、現在トランスジェンダーに向けられているものそのものだと言えます。(この作品は2022年発表、Twitter上でのトランスヘイトが激化し始めたのは2018年)これらの言説が、現実の「トランスジェンダー」という特定の人々に向けられたものだと作者には分からないはずがない。にも関わらず、汐が「トランスジェンダー」であるという断言を避け、作品の読解を「誰にでも[…]自由に解釈できる」ものとして開いています。ここで汐が「トランスジェンダーではないかもしれない」可能性を保持することは、「汐はトランスジェンダーではない」という読解を可能にすることです。
作中で西園(上記の登場人物)の発言はある程度の正当性を持たされています。例えば、西園は汐に恋愛感情を抱いており、その感情がこれらのヘイト発言につながったとされており、また、星原という登場人物はp.266「アリサ(引用者注:西園のこと)の言ってることは、分かるよ。先のことまで考えてて、さすがだなって思う」と述べます。
ここにおいて、作者が特定の単語の「使用を避け」ることは、差別的立場との相対主義を積極的に取ることです。(あとがきにあんなこと書かなければいいのに。)さらに、そのあとがきでは「もし男友達が女子制服を着て登校してきたら?/もし同性の友達に告白されたら?」と汐を男として扱っています。これらは「ふと思いついたアイデア」らしく、つまり、「もし男友達が女子制服を着て登校してきたら?/もし同性の友達に告白されたら?」という設定の後に、汐をトランスジェンダーとして描くことにしているのです。実際、参考文献には「性同一性障害」について書かれた本が並びます。例えば、SRSについてp.184「アリサが思ってるほど簡単にできることじゃないんだよ」(性別不合の治療のハードルの高さは周知だと思います。)その上で、トランスジェンダーではない読解の可能性を開き続けているのです。現実の当事者に対するリスペクトに欠けているとしか思えません。汐は、「先週、家族と話し合っていろんなことに決心がついたので、今日から女子としてやっていきます」と言いますが、この家族と話し合う過程に触れられることはほとんどありません。汐は父が再婚しており、妹の操が汐の性別移行に対して否定的ですが、難しい、としてそのまま放置します。(汐はさらに「日本人とロシア人のハーフ」なのですが(なんで?)、それも含め交差性の書き込みがあまりにも雑。)

「特定の枠組みに当てはめ」ることなく、「誰にでも身近に感じら」れる作品にするということについて、さらに述べていきます。この作品の文体は、典型的な「ラノベ」、特に、「普通の」男子高校生が一人称で語るという形式を取るものです。一巻を通してこの形式は一貫しており、汐はつねに一人称の「咲馬」から見た人物として描かれます。
先程、この作品に登場するトランスヘイト言説が現実的なものだと言いましたが、それとは対照的に、この作品での出来事はある種「ラノベ」的、非現実的です。特に、中盤から終盤にかけて、汐が世良という人物に告白され、考査で学年一位をとったら付き合う、と約束し、その交際を阻むために咲馬が学年一位を取るためにもう勉強するくだり(既に「ラノベ」あるあるだと分かる)では、西園が咲馬のための勉強会に呼び出されたり、咲馬は風邪で意識が朦朧となりながらも試験を受け、そして実際に一位を取ります。また、汐がロシアにルーツを持ち、さらに成績優秀・運動能力に長け、「クラスの人気者」であるという設定(ステレオタイプすぎる)はまさに「ラノベ」あるあるですが、同時にだからこそ「あり得なさ」を感じさせます。
このあり得ない設定とイベントの中に、極めて現実的なヘイト発言が挿入されているのです。(「ありえなさ」については溝口彰子先生の議論を参考にしています。)作品全体がファンタジーとして描かれていて、それによって現実のものであるはずのヘイト言説もまたファンタジーなものとして読まれ得ます。作者は積極的にこの読解を否定しません。否定しないことによって肯定しています。
そもそも「もし男友達が女子制服を着て登校してきたら?/もし同性の友達に告白されたら?」という、ふと思いついたアイデア自体が、その根底にファンタジーなありえなさを持っています。作品は徹頭徹尾「ラノベ」であり「ファンタジー」で、汐もその世界の中でファンタジーでかつ、「普通の男子高校生」の目を通して眼差されるあるステレオタイプとして書かれています。このすべてがファンタジーに浮遊した中で、西園の発言は汐の生き方と全く同じレヴェルに置かれ、積極的に相対化されています。

第二点。ポリアモリー差別。
先程登場した、汐に告白した世良という人物は、ポリアモリーです。(同様に「ポリアモリー」という単語は登場しません。)この作品の唯一の語り手である咲馬は、世良を嫌悪します。
p.307~309「彼女が何人もいて、その中には中学生もいて、さらには汐にまで手を出した。不純を煮詰めたような男だ。どうして汐が、そんなヤツと一緒にいられるのか理解できない。/……あれ?/西園が汐に言った『気持ち悪い』と、俺が世良に言った『気持ち悪い』。/これ、なんも違わなくない?[...]俺と西園の『気持ち悪い』は同種のものなのか?/いいや、違う。違うに決まっている。西園のはただの誹謗だ。俺のは誹謗ではなく、正直な感想で、だから、何が違うかというと……それは……ええと……。[…]ーーもしかして、同じなのか?[...]十分な根拠もなしに他者を悪く考え、罵った。/そこになんの違いがある?/......ない。同じだ。[…]俺は、結局、偏見まみれの排他的な田舎者でしかなかったのか?」(期待しました? 残念。続きはこうです。)p.309~310「ーーでも。/それでもさぁ。/やっぱり、気持ち悪いもんは気持ち悪いよ。/世良のことは、理解する気にもなれないよ。理由なんてないんだ。ただ受け付けないだけ。そういうのって、たぶん誰にでもある。もちろん口に出すのはよくないけど、気持ち悪いって思っちゃうのは、もう、防ぎようがないんだ。」(で、咲馬はなんで汐のことは気持ち悪いと思わないわけ? p.328「汐は可愛くて、綺麗で、美しかった」から?)
改めて、咲馬の眼差しは作品の中で唯一の読者に見える眼差しであり、この種の「ラノベ」一般に言えることには、読者はこの唯一の語り手=「普通の男子高校生」に同一化することを要求されています。つまり、作品自体が咲馬の見ている世界とイコールであり、この後この部分への反論は一切見当たらず、一巻の終わりまで世良は咲馬に嫌悪されます。世良はポリアモリーであることに限らず、飽きっぽく計算高く「詐欺師のような」異質な人物として書かれており、漠然と咲馬に嫌悪感情を向けられています。

補足して、この作品での「田舎」の扱いに言及します。先程咲馬のモノローグに「俺は、結局、偏見まみれの排他的な田舎者でしかなかったのか?」という部分がありますが、作品を通して咲馬は舞台であるこの田舎を「偏見」にまみれ「排他的」なものだと言います。(どの口で!)そこへの反論は、また、ありません。
一方で、この作品は「自由」な「都市」の読者に向けて書かれています。「都市の空気は自由にする」とでも言いたげに、作者は読者が「自由に解釈」することを期待します。しかし、別所で言いますが、都市の空気は自由にしません。そこはまさにトランスヘイトの蔓延するパノプティコンであり、また、咲馬はそのような地方差別を内面化してもいます。

ーー

ここまでが、一巻を読み終えたときの感想。というか、糾弾。
正直、めっちゃ怒ってた。
何が問題かって、あとがきで「作中では使用を避けている単語がいくつかあります」と明言したこと。あとがきというのは単なるおまけじゃなくて、ことこういうとき、作者が作品に注釈を入れ、入れ子にしてしまう機能があります。作者が、この作品は「トランスジェンダー」という「特定の枠組み」の話ではないよ、と作品を外から定義づけているわけです。前述のように、汐が「トランスジェンダーではないかもしれない」可能性を保持することは、「汐はトランスジェンダーではない」という読解を可能にすることです。現実的には、そのように書いているにも関わらず。

気乗りしなかったけど、五巻まで読みましたよ。
ここまでの糾弾ではないかな、と思わなくもない。まあ、程度問題でしかないんですけど。明言しておくと、ポリアモリー差別は反省されなかった。世良の書き方、咲馬からの見方は最後まで変わらなかった。

さて、二巻以降、雰囲気が変わったように思いました。「ありえなさ」が軽減されている。違和感をあまり覚えることなく、ふと笑えるようなシーンもありました。なんらかの転換があったように思えます。

西園について。
三巻は、彼女を中心に話が進みます。
私のこの作品への態度を前提として言っておくと、「遠い出来事」です。私は彼らの固有の文脈を、外から眺めているに過ぎない。私のスタンスとして、私自身の人間関係の中のひとでなければ、ある差別主義者そのひと固有の文脈に気を払うことはありません。憐憫と軽蔑がいいとこです。どのような事情があれ、差別の態度であることに変わりはなく、その効果は許せるものではないからです。また、そのひとは差別主義者の共同体の機械でしかないからです。彼らは自ら、自身を機械化している。
西園は、私とはなんの関わりもない人物です。私にとっては、没個性的な、ありふれた差別主義者の一人でしかない。そんな人物にフォーカスしていった、私はそんなことをしないでしょうが、ともかくそういうふうに書かれた。
西園が退学するとき、過去の言動を謝った西園に対し、汐は許せないと言います。それはある種の救いではあるのです……。もちろん私は、「同じ当事者」である汐に同一化し、期待する気はありません。私と彼女は違うひとだから。
この作品は、「人間関係」を書きます。そこに終始し、固執します。田舎町の高校の、特定の誰かたちの、固有の文脈、それを書いています。(そこから特定の単語の使用を排除する理由はなんなんだ、とは思いますが。)であれば、その文脈上にいる西園を描くのもまあ、もっともです。
もう一点、三巻で、西園がネット上のトランス差別言説の影響を受けていたことが書かれます。(ここでも「トランス」とは言及されないのですが。)自覚的に書き入れられているというわけ。

飛ばしましょう。最終巻である五巻の終盤、「インタビュー記録」という部分があります。その中で、真島(登場人物の一人)と西園が、汐を「トランスジェンダー」と言います。また、「カミングアウト」という単語もこの周辺でよく使われています。
なんらかの転換だよね。態度変更。
もちろん、登場人物に言わせているだけで、作品自体は汐を「トランスジェンダー」と定義づけることを避けているのですが(汐自身はこの語を一度も使わない)、つまり、一巻あとがきの「自由に解釈」という性格を保持してはいるのですが、一方で、態度変更している。汐はトランスジェンダーとして読まれうる、という可能性をもまたここで約束しているわけです。(遅すぎやしないか。)
言ったように、程度問題です。程度の問題でしかありません。ただただ、二巻以降、差別的だ、と糾弾するほどのものでもないだろうと私が感じているだけで。一巻の酷さがなくなるわけではない。モヤモヤの全くない作品もまたありませんが。トランス差別を前面に押し出しておいて、汐はトランスジェンダーではないかもしれない、と逃げたのが問題だったんです。

最後、モヤモヤです。大学生になった咲馬と汐の関係性、まあいいです。作品の主題だけど、そこは問題じゃないのだ。汐はバーテンダーとして働いているらしい。白シャツ、スラックスにネクタイを締めて? その後でこう言います。p.409「昔のぼくみたいな人も、結構いる」この「昔のぼくみたいな人」というのが、性別違和に苦しみながら、望まないジェンダーで生きているひとのことを指すのか、それとも、「男なのに女の格好をして生きているひと」を指すのか。まあ、順当に読めば前者です。
汐がこのときどうやって生きてるかって。p.406「自分らしく生きるには、何かとお金が必要だからーー」というのはどう考えても治療費のことでしょう。(治療費……他人事じゃないんだよなぁ。)で、バーテンダー? 男のひとの格好して?(そういうもんなの?) もし汐が、(前に西園が言ったように)心変わりして男として生きているとしたら? エピローグだから、詳しい話はされないけど、そういう読みでは、「昔のぼくみたいな人」というのは後者の意味になる。まあ、前者だろうけどね。そういう読みを捨てきれない書き方、そういうモヤモヤです。

「性的指向」という単語を汐は、ある大事な場面で口にするんだよね。それが汐と咲馬の関係性に大きく関わってくる。これも五巻です。遅いなぁ。そして「性同一性」への言及はないんだね。難しい語ではあるけど、言及してもよかったんじゃないか。

うん、いやー、最初っからトランスジェンダーって言えばいいのに。
それだけです。どうして逃げるかなあと。
上からで申し訳ないけど、マイノリティを描くことの緊張感ってのがなかった。
改めて怒るけど、安易にネタにされていいひとたちじゃないのさ。トランスジェンダーであることは、その語が持つ社会的文脈を負うことでもある。その文脈を持ち込んだ上で、トランスジェンダーではないかもしれない、というのは逃げだろって。「一億総BL」の世界(差別も生きづらさもない世界)にはしないと決めたなら、社会的文脈の中でマイノリティを書くんだという覚悟をしろ。

そして、ポリアモリー差別やめろと。

読みたいひとは読めばいいと思う。作者の八目 迷さんがトランスヘイターだってことはないんじゃないかな。買っても差別への加担にはならないと思う。(J.K.ローリングと違って!)一、二巻は西園のトランスヘイト発言がきついから、それだけ注意です。(上にも書いたけど、警告があるべきだった。)

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