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世界遺産 ドゥブロブニクの旧市街

ドゥブロブニクは中世に海上交易で栄えた要塞都市。1979年 世界遺産に登録されてます。

しかし 街の歴史的建物は 20世紀末の内戦で甚大な被害を受け  1991年[危機遺産] に登録されてしまいました。 内戦が終結し 平和が戻ると 市民が中心になって修復再建活動が始まりました。 1998年 [危機遺産] から外れて [アドリア海の真珠] は見事によみがえりました。


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ピレ門から旧市街へ入場。


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プラツア通。ドゥブロブニクのメインストリート。 朝早い時間で、まだ人影もまばら。 石灰岩で舗装されていて 白くてピカピカな石畳。


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オノフリオ大噴水。ナポリ出身オノフリオの設計。15世紀 街に水を引くため 水道施設の一環で造られたもの。 愛嬌ある顔の口の部分から水がチョロチョロ出てました。


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修道院の中に ヨーロッパで3番目に古い薬局が作られ 現在は薬博物館に。 博物館の写真は撮れませんでした。

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修道院の回廊から見た中庭。


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ドゥブロブニクは 狭い石段の路地が多い街。小さな道はどこもお洒落で写真撮るのも楽しくなります。


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プラツア通り突き当たりにあるルサ広場と時計塔。


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16世紀のドゥブロブニク出身劇作家 マリン ドルリッジの像。鼻を触るとまたこの街に戻ってこられるとか。 私も触っておきました。


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青空市場。 地元の人とのちょっとした会話が楽しい。


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路地裏のお店。 商品の飾り方まで いちいちカワイイ。

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まんまるネコ。のどかだニャン。


ドゥブロブニクは13世紀に共和制の自治都市になって以降も ヴェネチア ハンガリー オスマン帝国の支配下にあっても 独自の立場で [自由] を保持し続けました。 宗主国に 貢納金を払い続けることで [自治] を確保していました。

自由は いかなる黄金をもってしても

あがなうことは出来ない

城壁外の要塞に刻まれた ドゥブロブニク市民の思いを表した有名な言葉。


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自由と自治を象徴する仮想人物のローラン


城壁に登りました。ゆっくり一周して一時間くらいでした。


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城壁から見たプラツア通り辺り。


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オレンジの屋根の色がよく見ると少し違いが。 色褪せている屋根は内戦で破壊を免れたところ。鮮やかなオレンジ色の屋根は内戦後に修復したところ。美しい景色の中に垣間見られる苦い傷痕。 

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要塞内部から見える景色。外敵の侵入を警備してたのでしょうか


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ルサ広場で見た時計塔。裏から見ると ちょっと雰囲気変わって見えました。


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お昼頃 プラツア通りに戻って来ました。 だいぶ 人が増えましたね。



ドゥブロブニクの旧市街は予想通りというか 予想以上に美しい街でした。 

ただ 気のせいか 相対的に お店の人が素っ気なかったように感じました。 クルーズ船でやって来て 数時間で去っていく観光客の大群に疲れてるのかも知れませんね。 

自分も観光に行っていて 大きな事は言えないけど、 [観光公害] の問題を少し考えさせられました。


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