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2018年時点、日本初紹介。20世紀ラテンアメリカの作家五人

今回は、野々山真輝帆[編]、彩流社の『ラテンアメリカ傑作短篇集〈続〉 中南米スペイン語圏の語り』(2018)に、収められた作品の中から、それまでに邦訳が無かった作家5人の作品について紹介したいと思います。


『ノクターン』(リカルド・グィラルデス、1915)

韻文で展開されるストーリー。

あくまでも、「詩のような小説」であって、「小説のような詩」ではないと思いました。明確にストーリーを語っていますし、しっかりとした「オチ」があります。メッセージ性としては「因果応報」…と言ったところでしょうか。

ストーリーだけを追うと、別に大した話でも無いような気がしますが、韻文ならではのリズム感と言いますか、推進力のようなものがあります。

一振り、乾いたムチが鳴り、いきなり駆け出した殺し屋は溶けるように闇間へ消える。
程なく、影の気配も闇に紛れ、たちまち、跡形もなし。
そして、カラカラに干上がった道には、蹄のエコーが響き渡った。

日本語に直されていても、声に出して読みたくなってしまうあたり、訳者はかなり力を注いだのだろうなあ…と。

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『悪魔の姑』(カルメン・リラ、1920)

カルメン・リラは、コスタリカの作家。僕はコスタリカの文学作品自体、今回初めて触れました。
ただなんだか、普通によくあるおとぎ話のような気がしてしまって、いわゆる『文学作品』としては、なんだか気が抜けるような終わり方…という感じがしてしまいました(笑)。

悪魔にしても、他の登場人物にしても、ちょっといまいちなキャラクター像で、あまり好みではなかったかも…。(雑な紹介ごめんなさい)

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『魂』(フリオ・ガルメンディア、1927)

ベネズエラの作家。おなじく悪魔が出てくる話でしたが、こちらは面白かったです。

悪魔(外見は描写されません)が《私》の部屋のまわりをモジモジしながらうろついていたので、《私》は、彼を部屋に招き入れます。そして悪魔が「何としてでも、あなた様の魂を買い取らせてほしいのです」と、《私》にお願いするところから物語が始まっていく…。

不思議なことに、「魂を売ってもらいたい」という申し出さえ除けば、彼に悪魔らしいところは特に無く、その振る舞いも言動も心も、「普通の良いやつ」なのです。
(そもそも「魂を奪いにきた」わけでもなく、「売ってもらいに来た」っていうのが、なんかもうユーモラスで、ちょっと可愛いですよね…。)

そして、なんと《私》は、その悪魔の申し出をあっさり受け入れようとします。
ただ、そもそも《私》自身が、「《私》には「魂」があるのかどうか分からない」…という理由から、悪魔にそばについてもらって、《私》にそもそも「魂」があるのかどうかを確かめてもらうことになり…。

…なんか、もうこの時点で結構ぶっ飛んでます。
なんだよ「魂がないかも」って(笑)。

そして、悪魔を前にして、まったく平静でいられる《私》の不気味さ。

ラテンアメリカ文学としては例の如く、そういった読者の〈腑に落ちない感覚〉が解消されることはなく、淡々と物語は進んでいきます。
(例の如くとは言ったものの、まだ1920年代の作品。実はかなりの前衛性だとも思います。)

悪魔が「悪」ではない…というユーモラスさ。
むしろ物語の末尾に近づくと、悪魔から「魂を買い取らせてほしい」と頼まれていた《私》の方が、よっぽど悪いやつな気がしてきて、笑えてきます。

というか、もし〈悪魔なるもの〉が存在していたとしても、必ずしも「人間は、悪魔よりも善だ」なんてことは言えないよなあ…。と。

日本では、チャーミングなお化けもいっぱいいる印象ですが、キリスト教的な「サタン」としての悪魔がこういうユーモラスな描かれ方をするのは、ちょっとビックリでした。

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『運命は忘れられた神』(ギリェルモ・メセネス、1958)

そそられるタイトル…。実際に面白い作品でした。ガルメンディアと同じく、メセネスもベネズエラの作家です。

これは、インディヘニスモ文学と言って良いのか…。
もともとは原住民の一部族で、首長だったはずの男が、《ベンシード(敗北者)》として語られます。彼の葛藤を描く物語。

冒頭から、彼らの部族は、スペインからの征服者に敗れ捕囚されている状態。
首長であった《ベンシード》も拷問も受けており、ボロボロの身体です。

部下である《ブラボー》は《ベンシード》をなんとか励まそうとしますが、《ベンシード》はついに心までも「敗北者」になりつつありました。

ちなみに、部下の《ブラボー》という名前は、「勇敢な者」を意味します。《ブラボー》はその名前の通り、勇気や誇りをもって叛逆を企てるのですが、その途中で命を落としてしまう。言ってみれば、名誉の戦死を遂げることになります。

勇敢に抵抗する部下と、抵抗する気力すら失ってしまった《ベンシード》。

征服者たちは、《ベンシード》の部下たちを牢屋に閉じ込めたまま、彼だけを釈放します。
元々先住民が有していた土地・信仰・文化を「近代化」させるために、首長であった《ベンシード》を政治利用してしまおう、という魂胆からです。

そして、《ベンシード》自身も、それに抗うことが出来ません。

彼は生きていた。生きているがゆえに。自分自身に嫌悪を感じた。きのう異邦人の看守長(あの赤毛ザルの男)の冗談を耳にして自分が笑ったことに愕然とした。(中略)
彼は知っている。“死”が、己の民の教訓、模範、伝説として彼の想像し得た数多の死の中の一つとして、自分の受け入れたこの無意味な生を精算しうる唯一の行為であることを。だが、今となってはいかなる死も自分が選び得ないことも知っていた。
彼は怠惰であり臆病であった。

インディヘニスモ文学では、原住民は善良で無垢な心のまま、搾取や弾圧の対象とされていることが多いようなイメージでしたが、この小説では、そのようなステレオタイプに留まっていません。

敗北者《ベンシード》と、勇敢な《ブラボー》が対比されることで、より彼らの内的な葛藤にも迫っています。「自らの神に背くこと」と「生物学的な死」のどちらを恐れるのか、「従属」と「死」のどちらを選ぶのか…。

《ベンシード》は、自己嫌悪に苛まれながらも生きながらえました。この格好悪さを僕は愛おしいと思います。

敷物の上に横たわり、ベンシードは自分の記憶を呼び戻し、その人生の軌跡へと引きこもる。彼の忘れられた神々のどれにも似て、彼の栄光の運命は石の飾りにすぎない。


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『俺たちが人間に戻った夜』(ホセ・ルイス・ゴンザレス、1970)

ホセ・ルイス・ゴンザレスは、ドミニカ共和国生まれだそうですが、作家としてはプエルト・リコで活動していたようです。
(スペインに同姓同名のギタリストがいるので、ネットで調べるとその人の方がドーンと出てきますね…笑)

作品は、《俺》が《君》に語る、口伝調の回想録という形式です。
回想の舞台はニューヨーク。《俺》はプエルトリコ出身で妻の出産を控えた工場労働者です。
(訳者の解説によると、著者のホセ・ルイス・ゴンザレス自身を思わせるとのこと)

その日俺は真っ正直なユダヤ人でスペイン語も少し分かるボスに話をしておいたんだ、残業をやらせてくれ、女房の出産の費用が足りなくなりそうだからと。(中略)ああ、女房は自宅で出産するのにこだわっていた、スペイン語を話せない医者や看護師のいる病院ではいやだと言ってきかないから。それに費用が嵩むだろう。

この語りのとおり、《俺》は、我が子の出産にかかるであろう費用のため、必死に働いています。

ある日、《俺》がいつも通り働いているところに、軽度な知的障がいのある知り合い《トロンポロコ》が言伝にやってきて、子どもはもう、今日にでも生まれそうだと知らされます。

ユダヤ人のボスは、《俺》の早退けを許してくれたので、《俺》はトロンポロコと一緒に電車に向かって走ります。
この時に、さらっとアメリカ人を揶揄する描写があるのですが、それがちょっと面白いです。

ボスもまたユダヤ人で、彼らにとって家族は常に何よりも大事なのさ。その点ではほかのアメリカ人たちとは違う。奴らは親子、兄弟の間で侮辱しあい、何かにつけて口論している。(中略)朝から晩までドルを追いかけ、まるでぼろ布できたウサギに釣られて走らされているドッグレースの犬のようだ。


さて、電車の停電に巻き込まれたり、トロンポロコの行動に翻弄される《俺》でしたが、ようやく家に帰り、生まれたばかりの我が子に対面します。

ただ、《俺》は女房を労いつつも、その場では照れ隠しなのか、そんなに感動を示さず、なにやら騒がしいマンションの屋上に足を運びました。
それは停電した街の星空を眺める人々でした。電気の止まったニューヨークは、プエルトリコの夜を彷彿とさせます。

その時、俺はいろいろなことを考えた。生まれたばかりの息子、ここでの彼のこれからの人生、プエルトリコのこと、年寄りたちのこと、ひとえに生活のためにやむなく捨ててきたさまざまな事を思い、もう忘れてしまったあれやこれやに思いを馳せた。君も分かるよね。心が黒板なら、時は黒板消しのようなものだ。心がいっぱいになるとそこに書かれたものを消していく。でも、いつまでも記憶に留めておきたいと思うことは、(中略)あの夜こそまさに俺たちが人間に戻ることができた夜だったということさ。

決してバッドエンドではない読後感ですが、作品の中では当時の政治状況、過酷な労働環境、自殺問題、ヒスパニック系や黒人などに対する差別意識、知的障がい者への偏見や、支援の行き届いていない様子などが盛んに描写されていると思います。

1970年は米ソ冷戦真っ只中。ベトナム反戦運動や、公民権運動の終盤期…。キング牧師の暗殺や、ウッドストックフェスティバルの終了。だんだんと社会変革への希望が翳ってくる時代でもあります。

風刺というよりは結構直接的に、アメリカ的な資本主義社会を批判しているようにも感じた作品でした。


と、今回はこんな感じ。

短篇集全体として、もう少し訳者の解説なりが充実していたら嬉しかったなあ〜と思いつつ、幅広い地域と時代の、日本初紹介作家の邦訳に取り組んでいるこの本は、それだけでもとても貴重だなあー!と思います。

その点、前作『ラテンアメリカ傑作短篇集 中南米スペイン語圏の語り』(2014)は、末尾の作品解説もかなり充実していたし、更に素晴らしかったです。

所収されている他の作品についても、そのうちnoteに書けたらいいなあ〜

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