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『失われた足跡』を紹介するにあたって (シュルレアリスムとの関係など)

キューバ出身の作家、アレッホ・カルペンティエルの『失われた足跡』を読みました。

今回、作品そのものの紹介に至るまで、かなりの長文になってしまったので、2回に分けて投稿しようと思います。

この投稿では、作家カルペンティエルのこと、そしてこの『失われた足跡』が出来上がっていくまでの過程を中心に、牛島信明の訳者解説(文庫本の末尾)を主な拠り所として、書き進めていきます。

作品自体のことは、次回の投稿で。


アレッホ・カルペンティエルは、キューバの首都ハバナで1904年に生まれました。
父はもともとフランス、母はロシア出身(青春時代はスイスで過ごしたとのこと)ということで、先祖のルーツを辿った時には、ラテンアメリカ文化にも増して、ヨーロッパ文化がかなり身近にあったと言えるかも知れません。

※ちなみに、木村榮一の『ラテンアメリカ十大小説』(2011年、岩波新書)には、カルペンティエルはスイスのローザンヌで生まれたあと、すぐに両親とともにキューバに引っ越してきた…と書いてありました。こちらが真実かも知れませんが、いずれにしても、物心がついた時には「キューバ人」だったと考えて良さそうです。

建築家だった父の影響で、カルペンティエル自身も熱心に建築の勉強に励んだようですが、家庭の事情により10代後半で断念。ジャーナリストとしての道を歩み始めることになります。

ここで、彼は凄まじい才覚を発揮するのですが、その才能ゆえに、当時のキューバで独裁体制を敷いていた、マチャド政権に対する抗議文に署名したことを理由に投獄されてしまいます。

この時、まだ23歳だか、24歳だか。今のぼくと同じ年齢かあ…と思うと、そのギャップになんだか軽く自己嫌悪してしまいそうになります、、、

7か月後、一応出獄はできたものの、厳しい監視下におかれた彼は、作家仲間の援助によってフランスへの亡命を決意。

そこから10年以上にわたるパリ滞在期間中に、当時全盛だったシュルレアリスムの作家たちと交流を持ちます。

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フロイトの精神分析における治療法(自由連想法)などを、創作技法に応用する(例えば自動記述法という、考えをまとめる前にとにかく筆をはしらせて、即興的に文章を作成するなど)ことによって、それまでの文壇や言語芸術の世界に無かった、奇怪で狂気的な詩や小説を生み出していたこの一派は、1920年代半ばから、文学の域すら超えて、芸術運動全体の最先端となっていきます。

ところが間もなく、カルペンティエルは思うところがあったのか、そのシュルレアリスト達をボロカスにコケ落として訣別。
その後、自身の文学的な模索の中で、今回の『失われた足跡』や、これまたラテンアメリカ文学のなかで重要な作品とされている『この世の王国』といった作品を生み出していきます。(時系列的には『この世の王国』が1949年、『失われた足跡』が1953年発表)

ちなみに、僕自身はシュルレアリスムの作品は結構好きで、アンドレ・ブルトンの『溶ける魚』にはかなり衝撃を受けましたし、宇佐美斉が訳した『ポール・エリュアール詩集』も一時期よく開いていました。

街灯はその夜、郵便局へゆっくりと近づいていきながら、一瞬ごとに立ち止まって耳をすますのだった。こわかった、ということだろうか?

(アンドレ・ブルトン『溶ける魚 18 』巖谷國士:訳)

私はソランジュと知り合ったときには褐色だった。だれもが私のまなざしのみごとな卵形をほめそやしており、私の言葉だけが、ひとびとの当惑ぶりを見ないでいいように、彼らの顔と私とのあいだにひろげることのできる唯一の扇だった。

(『溶ける魚 32』)

こんな感じの、奇怪な文章がシュルレアリスムの特徴。これは何かの比喩…という訳でもなくて、とにかく当時の人間の現実認識を、内部からぶち壊そうとするような意図を持った前衛芸術…と考えて良さそうです。

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日本だと、饒正太郎や、(つい最近全集が刊行された)左川ちか等も、シュルレアリスムの影響下にあるオススメの詩人です。

(※2023年追記: 厳密には左川ちかは、「モダニズム」ではあるけど、「シュルレアリスト」ではなかったかも。それでいうと、日本の詩人で明確にシュルレアリストと呼べるのは北園克衛かも知れません。でも、やっぱり雰囲気としては、ぼくは左川ちかも饒正太郎も、シュルレアリスティックだと思うので、敢えて消さずに残しておきます。)

朝の光の中で魚の様に耳がぬれる。
美しい姿を見せて魚は水面で倒れる。
無数の顔が流れる。
⦅…⦆

(饒正太郎『河』)


料理人が青空を握る。四本の指跡がついて、
–次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる青色の空の看守。
日光が駆脚でゆくのを聞く。
彼らは生命よりながい夢を牢獄の中で守つてゐる。
刺繍の裏のやうな外の世界に触れるために一匹の蛾となつて窓に突きあたる。
死の長い巻鬚が一日だけしめつけるのをやめるならば私らは奇蹟の上で跳びあがる。
死は私の殻を脱ぐ。

(左川ちか『死の髯』)


言葉によって、まったく新しい現実体験が喚起されていくようです。
現実を超越した現実、というようなニュアンスで『超現実』と訳されることもあるのだとか。

…ついつい、シュルレアリスムの紹介や擁護にアツくなってしまいました(笑)

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とにかく、カルペンティエル的には、「シュルレアリスト、しょーもないわ!」みたいなことになっていくわけです。

そして実はその批判も、なかなか正鵠を射ていて。

シュルレアリスムは、先程も言ったようなフロイトの精神分析に加えて、実際の精神病者によるアウトサイダー芸術なども参考に、それらを「技法」として取り込もうとしました。そこには、なにか「驚異的な芸術作品」をつくろうとする「意図」が感じられます。

シュルレアリストにとって、精神障害者が陥っている錯乱状態、あるいは極度の熱狂や薬物によるトランス状態がもたらす擬似的な「狂気」は、社会の規範からの完全な自由を意味していた。彼らは、精神障害を非合理性の代名詞ととらえ、そこにシュルレアリスムが目指すべき道を見ていたのである。

(服部正『アウトサイダー・アート 現代美術が忘れた芸術』2003年、光文社新書、40p)

ただこれが、見方によってはちょっとだけ「小賢しい」と取れなくも無いのです。

シュルレアリストにとっての「狂気」は、空想上のものであり、⦅…⦆芸術理念のうえでは精神障害を「創造の自由」と結びつけて称賛していても、精神障害の現実には目を背けたかったのである

(服部正『アウトサイダー・アート 現代美術が忘れた芸術』2003年、光文社新書、45p)

実際に、精神病を発症した作家仲間とは縁を切ったという、アンドレ・ブルトンをはじめとして、確かに彼らが見ていた「驚異的」とか「狂気」というのは、インテリぶった人たちの、漠然としたイメージの中にしか存在しなかったものなのかも知れません。

カルペンティエルが批判したのも、そのような側面だったと捉えることができます。

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ふたたび、キューバの地に戻った彼は、その後大陸にも渡り、現地のネイティヴ・アメリカンたちと生活を共にしたりもしています。

その中で、シュルレアリスト達が概念としてしか考えていない「驚異的」なものが、中南米の地(島々も含む)においては「現実のもの」として存在しているのだ、と確信するようになっていきます。

1949年、『この世の王国』という、ハイチ革命をテーマにした小説を発表。序文で、シュルレアリスト達を非難し、作家は、小手先の技巧ではなく、驚異的な現実そのものをまずは受け入れ、その存在を信じることから創作を始めるべきだ、というようなことを述べているそうです。
(この点、ぼくは実際に読んだわけでなく、木村榮一や牛島信明の解説の受け売りです…。いずれ『この世の王国』も、ちゃんと買って読もう…。)

ただ、ネットの様々な書評文やブログを見てみると、実はこの序文で言っていたほど、カルペンティエル自身が「現実における驚異的なもの」を、この小説の中で発揮しきれていない(あるいは現実を描写するだけでは、やはりシュルレアリスムの作り出した驚異にすら及ばない)のではないか…?というような評価が目立ちます。

そのような酷評にもさらされる中、ついに1953年『失われた足跡』を発表することによって、カルペンティエルは四年前の自身の序文が正しかったことを、証明しようとするのです。

正直すごいです。
レヴィ=ストロースの『野生の思考』どころか『悲しき熱帯』もまだ書かれていない時期に、これほどのリアルなフィールド観を描けていること。
当時としては、本当に画期的な作品だっただろうなあ…と思います。

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…というわけで、次回は『失われた足跡』の作品自体について書くつもりです。

以上!ながーい前置きになりました(笑)

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