インターネット上では人の言動は過激に”なる”のか、及びマスメディアの役割について

 色々な分析があるところですが、インターネット上では人の言動が過激になるのだ、という理論が一定の支持を得ているようです。

 確かに、インターネット上では、人に面と向かって発言するわけではありませんから、対面の場合と比べると一定程度過激化する傾向はあるのだと思います。

 ただ、本来的には、それは傾向程度のものであって、人の言動というのはもともと過激なのではないか、とも思うわけです(もしインターネットを使ったから人が過激になるというのなら、インターネットの利用は制限されるべきでしょう)。

 そして、本来的な言動は過激な人たちが、人に面と向かってそれを放つわけにはいかないと自制している、というのが現在の社会の状況ではないでしょうか。そうすると、インターネットというのは、人の本来の面が出てきているだけなのだ、ともいえるわけです。

 しかし、そういう過激な人たちであっても、一つの社会を形作っていかなければならないとするなら、一定の公共的な事柄(税金をどうするか、社会保障をどうするか、などなど)についての議論が必要となります。ただ、過激な人たちの議論ですから、そのままぶつけ合えば、恐ろしいことになります。具体的にはTwitterなど見ていただければ、すぐにそのようなものが見つかると思います。左も右も、過激さではそう変わりません。自らこそが正しく、相手は間違っている、ということを、より激しく表現する競争でもしているのかと思うくらいです。

 本来は、こういった公共の事柄については、マスメディアがフィルターとしての役割を果たすことが期待されていたのだと思います。賛成にせよ、反対にせよ、内容の本質を損なわない形で、かつ相手方にも受け入れ可能な程度に表現を和らげる、というのは言葉の専門家にふさわしい高度な役割だと思います。

 もっとも、現状、こうした役割については、マスメディア自らが放棄しているように思われます。少なくとも、放棄しているように見られる状況になっている、ということは事実です(なお、メディアが政治的な左右両方から批判されている状況というのは、それはそれで健全である、という見方もありえます)。つまり、マスメディア自体が一定の事柄を望ましいと考えていて、それに向かって議論を誘導しようとしている、と見られる状況になっている、ということです。もちろん、マスメディアにも望ましい事柄があるのは当然なのですが、それとこれとは別というか、議論を歪めることが正当化されるわけではないでしょう、ということです。

 それでは、マスメディアについて法律で規制するのが良いのかというと、そうではないように思います。これについてはまた別に論じたいと思います。


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