「贈与」について考える

本屋さんをぶらぶらしていたときにたまたま目に飛び込んできて購入しました。
素敵な偶然の出会いをすることができました。まさにSerendipity。インターネットで本を買うのは便利ですが、これだから書店通いはやめられませんね。

贈与とは何か

本書では贈与を「お金で買うことができないものおよびその移動」と定義しています。例としてサンタクロースやノーベル賞、親から子への愛です。
贈与について私が大事だと思ったのは以下3つです。

  • 贈与は(不当に)受け取ることなく開始することはできない。

  • 贈与は受取人に知性を要求する。

  • 贈与は必ずしも届くとは限らない。

自分でこのようなことを言うのはおこがましく恥ずかしいのですが、私は周りの人よりも贈与を恐れずにしているな、という自覚がありました。自分が贈与をする理由がわかっていなかったのですが、この本によって言語化できました。
私は多くの方に愛していただいて生きてきたと思っています。特に数年前に亡くなった祖父には本当に愛してもらいました。小さい頃の私はよく動き回る、うるさい手のかかる子供だったので(今でも変わっていませんが・・・)、面倒を見るのはとても大変だったはずです。それでもこれだけ可愛がってもらえたのは、不当というほかありません。多くの方に不当に愛していただいているからこそ、見返りを求めずに贈与することができます。「自己犠牲」の気持ちはほとんど生まれません。返すに返しきれない贈与を受け取っていると認識しているからです。

自分が多大な贈与を受け取っていると認識していると書いたあとに、「贈与は受取人に知性を要求する」が大事と言うと、自分のことを知性があると思っているのかと思われそうで恥ずかしいです。だが、こちらも重要なポイントだと思います。贈与を受け取ったことを認識していない人が贈与をしようとすると自己犠牲になってしまいます。これではいつか精神的に疲労困憊とです。自分が周りの方に愛していただいている(それも返しきれないほど)ことに気がつけたからこそ、疲弊することなくギブできます。私はいつ自分が贈与を受け取っていると認識したか覚えていません。贈与を受け取っていると自覚するようになったこと自体が誰かからの贈与のような気がします。感謝です。

贈与は必ずしも届くとは限らない、は常に意識しておかないと忘れてしまいそうです。何かを贈ったとき、レスポンスをもらえることをついつい期待してしまいます。例えば後輩にご飯をごちそうするとお礼を求めてしまいそうになりますが、お礼を求めるとそれは「交換」です。交換に基づく関係性は信頼関係を結ぶのが難しくなります。いつか届きますように、届くといいな、と祈るに留めることを忘れないようにしたいです。

贈与について理解することで、もっと日々を豊かに過ぎすことができそうです。

仕事のやりがいと生きる意味

第9章 贈与のメッセンジャー の以下の一文が気にかかりました。

「仕事のやりがいと生きる意味を与えてもらいたいから贈与する」は矛盾です。完全なる矛盾であり、どうしようもない自己欺瞞です。そんなモチベーションでは、やりがいも生きる意味も与えられません。

ここを私は、生きる意味ややりがいを求めて仕事してはいけない、と解釈しました。しかし、生きる意味ややりがいを求めて仕事をすることは、どうしようもない自己欺瞞なのでしょうか。ドストエフスキーは、「もっとも残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせることだ」と述べています。やりがいを見出せない仕事は辛いよな、と思います。確かに仕事の結果と「交換に」生きる意味ややりがいを求めるのは自己欺瞞かもしれません。しかし、自分の仕事が「いつか誰かの役に立つといいな」と祈り、そこに生きる意味ややりがいを見出せるならば、仕事に生きる意味ややりがいを求めてることは自己欺瞞ではないと思います。皆さんはどう思うでしょうか?

終わりに

自分の世の中を見る眼差しが少し変わったと思える良書でした。
冒頭でこの本に出会えたことは偶然かつ素敵な出会い(Serendipity)だったと述べました。しかし、Serendipityという一単語で片付けるのは惜しい気がします。著者はもちろん、この本を陳列した書店の店員さんなど、多くの方の贈与を受け取ったような気がします。
このnoteが次につながるパスになればいいなと思います。


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