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今年の桜も物件を連れてきた

春になると、
否、誕生日が近くなると、だ。

人生の来し方をいろいろと

振り返ってしまう。
私にとって「春」は年末年始なんかよりもずっと「区切り」の感覚的な意味合いが強い。
 
学校に通っていたころとは違って、新しい人との出会いや別れでガラリと環境が変わることなんて無くなったにも関わらず、桜が咲き始めると「去年はどこの桜を見たかなあ」と思い起こし始め、そこから5月、夏、秋…と季節ごとの思い出をたどり始めてしまう。
そしてまだ慣れない「〇〇歳」をどう過ごすか、目標とする自分自身の在り方と現在のギャップに、毎年多少がっくりしながらもいろいろと心に誓ってみたりする。
 
そんな春。
誕生日当日の4月11日の今日はもうすでに桜は散り初めを迎えている。
 
そして今日送られてきたとある物件概要に記載されていた物件名称は、懐かしくも大切なとあるアルファベットが記載されていた。

去年の桜は神戸で見ていた

もう1年前になるこのnoteのヘッダー写真は、物件前の桜並木を撮ったものだった。

この物件名と「同じアルファベットが冠された」今日の物件概要書をしみじみとスクロールする。
開発当時のプランニングは、間違いなく私が師と仰ぐ社長のところで成された物件だ。
 
今回は件の社長ではなく、回りまわって別のクライアントから全く異なるアプローチでの情報発信を受け取った形になる。
 
不動産業界では、そこそこの業歴になると見知った物件が何回転かを繰り返し、もう一度手許に物件情報として戻ってくることはたまにあるのだが、私はそういった経緯を「縁」として大切にすべきものだと考えて手掛けてきた。
 
逆に、見知った物件の所有者が変わっていることを耳にしていながら、取引として関わることが全くないまま目の前を通り過ぎていくことがあることのほうが多いことを思えば、わざわざ誕生日を選んで、わざわざ星の数ほどある物件の中から自分にゆかりのある人の手がけた物件が向こうからやってくるなんてことは奇跡に近い。
 
それを「こじつけ」と言うのは簡単だし、やれるかやれないか、結果だけしか報酬に繋がらないこの業界に於いて感傷は無駄だと言われるのも承知だ。
 
しかし、それでも私はそこに何らかの必然性を感じずにはいられないのだ。

「しっかりしろ、頑張ってコレ纏めてこい」

しかも物件の状態はまだまだ改善の余地があり、自分の得意とする提案がいくつも考えられる状況にある。

そういう「めんどくさくて」「手が掛かる」「あんまり誰もやりたがらない」案件を、私はえり好みすることはしない。
却ってそういう案件が「私のことを好きなのかな?」と思うぐらいに寄ってくるのは、経験値を積めるという意味では有難いとすら思うのだ。

「やるしかない」「やりたい」「やれる」

去年の5月以降はnoteもほとんど公開出来なかったばかりか(下書きはたくさんある)、個人的な理由(そのうち公開するかも)で、このnoteのアカウント名でのTwitterの私は息絶えてしまった。

だけれど、私は私のリアルの人生を生きねばならない。
私の人生は、私のためだけに神さまが用意してくれた「かけがえのない人生」であり、どれだけ苦しくても辛くても、誰かが代わりに生きてくれるわけではないし、私が誰かの人生を代わりに生きてあげることも出来ないのだ。
 
そんな当たり前のことをことあるごとに反芻しながら生き永らえてきた1年だったけれど、今日送られてきたこの物件概要書を目にして、改めて人生のあらゆる「必然性」に思い至った覚醒の感があったので急遽noteに書き起こしてみた。
 
今日から歳を重ねた1年が「雌伏雄飛」となるか否か、この案件が私を試しに来たのだという気がしている。
 
さて、来年の桜はどこで誰と見ているのか。
それを楽しみにしながら、今日始まった新しい歳の私を全力で生ききっていきたいと思う。

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