稼ぎ頭だった事業が「電話1本」でいきなりなくなった話
ある日、電話がかかってきて売上の半分以上が吹き飛ぶという経験をしたことがあるでしょうか?
僕にはあります。
当時の年間売上がだいたい73億円くらい。そのうちの41億がなくなったのです! 粗利でいうと全体の3分の1くらいを占めている主力事業のひとつでした。
今回は、社内で「ハリケーン」と呼ばれている、この事件の話。少し長くなりますが、僕らの会社を語る上で避けては通れない話なのです。
懸賞サイトから始まった
まずは創業からの流れを簡単に振り返りたいと思います。
前回のnoteにも書いたように、最初の事業は懸賞サイト「MyID」でした。
昔は抽選で商品が当たる「懸賞」が今よりも流行っていて、そういった懸賞の情報を集約したポータルサイトを作ったのです。このサイトは順調にユーザーが増えていき、売上も伸びていきました。
その一方で、ガラケーのサイトをやったり、「@woman」という女性メディアを買収したり、並行していろんな事業もやっていました。
そうやっていろんな事業を次々に立ち上げて会社を大きくしていこうとしていたのですが、創業から4年ほど経ってこんなことに気づきます。
「たくさんの事業を"足し算"で増やしていっても、やっぱりスケールしないものなんだな」
そこで「何か大きい事業をひとつ作らなきゃ次のステージにいけないな」と思うようになりました。それまではメディア事業として「出版社が雑誌を増やしていくように」事業を作っていたのですが、「大きなテレビ局」のような事業を作らなければいけないな、と思ったのです。
値下げ競争に巻き込まれる
メイン事業である懸賞サイト「MyID」もどんどん競争が激しくなっていきました。それに伴って広告の単価も下がってきて、僕らも激しい値下げ競争に巻き込まれていったのです。
ターゲティングメール広告は、サービス開始当初、1通10円だったものが8円となり、5円となり、さらにそこに値引きも加わって、あっという間に配信単価が下がっていきました。
「この先、どんどんサチって(飽和して)いくだろう」
そんな未来が見え始めたんです。
一方でたとえば当時、ヤフーのようなポータルサイトはCPM(1000回表示に対する広告費)で広告を販売しており、こういった単価の下落は見られませんでした。それだけではなく、僕らの懸賞サイトと比較すると広告単価は10倍以上高かったのです。
一般的にメディアビジネスでは、ユーザー数を増やせば増やすほどメディア価値が上昇して広告単価は上がるので、懸命にユーザー数を増やそうと頑張ってきました。ただ、それでも懸賞サイトはなかなか単価は上がっていかない。むしろ競争が激化するなかで単価が下がっていく状況でした。
そして、それには根本的な原因がありました。
広告単価を10倍にするには?
なぜ広告単価が上がらないのか?
それは広告主に「懸賞ユーザーはモノを買わないんじゃないか?」と考えられていたからです。
「タダで何かがもらえる"懸賞"に応募するようなユーザーはモノを買わないし、広告主にとっては"いいお客さん"ではない」
そう思われて、認知やブランディングを目的とするような広告があまり入らず、広告単価が上がっていかなかったのです。
僕は納得がいきませんでした。
なぜなら懸賞サイトに集まってくるユーザーだって、普通に服を買い、スーパーでショッピングをして、ご飯を食べ、あらゆるモノを買っています。それなのに「懸賞サイトを利用しているときだけ広告単価が低い」というのはおかしい......。
僕は「そもそもサイトのコンセプトを変えないと広告主にとって魅力あるメディアに見られないのではないか」と考えるようになりました。
ユーザーにとっても、広告主にとっても魅力あるメディアを作って、たくさんのユーザーを集めていかないと広告単価は上がっていかない......。
そこで会員DBは維持したまま「懸賞サイト」からコンセプトもサービス内容も変えたメディアに変えることにしたのです。
「価格比較サイト」として再スタート
僕が目をつけたのは「ショッピング」でした。
「僕らのサイトに集まるユーザーは"懸賞をするユーザー"ではなく"ショッピングするユーザー"なのだ」
そう広告主に思ってもらうためにサービス内容もコンセプトもサイト名もドメインもすべてを変えることにしました。そして2004年、ポイントがたまる価格比較サイト「ECナビ」を立ち上げたのです。
僕はこれに懸けることにしました。
細々とした事業をたくさんやるのではなく、「ECナビ」というひとつの大きな事業に集中しよう。そこで、その他の事業は撤退したり、売却したりして、整理していきました。
さらに翌年には社名も「アクシブドットコム」から「ECナビ」に変え、不退転の決意でビジネスモデルを大きく転換したのです。
全員から反対された
……と、サラッと書いていますが当時はみんなから反対されました。
懸賞サイトだって値下げ競争に巻き込まれていたとはいえ、カテゴリー内では1位か2位になっていました。創業以来、売上は倍々に増えて、2003年時点で年間売上15億円、営業利益は2億円以上になっていました。
そんななか、僕が「懸賞サイトのコンセプトも事業内容もサービス名もドメインも全部変更して"ECナビ"へ大転換、その他の事業は売却。おまけに社名も変える」と言い出したわけですから大変です。
役員たちからは、
「えっ? どういうことですか?」
「コンセプトを変えるって、懸賞サービス自体は変わる?……変わらない?」
「ユーザーはどうなるんですか?」
「営業はどうするんですか?」
と懸念が噴出しました。
僕は説明しました。
「懸賞サイトに来た人は、これまでどおり見られるようにするよ。だけどドメインはECナビとする。今まで懸賞サイトを使っていた人には懸賞コンテンツのページにリダイレクトさせる。つまり、ECナビの中に懸賞サイトが内包される感じになるんだ」
そう説明はしたのですが、現場にいる人からすると、そう簡単な話ではありません。
「ユーザーにとっても、広告主にとっても、わかりにくいです!」
「PVが落ちたり、ユーザーの離脱が起きるんじゃないですか?」
「広告主に対して、事故が起きないと説明できますか?」
疑念は消えることなく、当時の責任者、部長クラスは全員が反対しました。みんな「また社長が変なこと言い始めたぞ」という顔をしていました。
全社向けに説明したときも、みんなポカーンとしていました。質問もぜんぜん出ない。会場には100人くらいいたと思うのですが、不満な顔を浮かべる社員が何人かいただけで、静まり返っていました。
「新規事業」ではダメだったのか?
もしこれが「会社の新規事業のひとつとしてやる」ということであれば、ここまで反対されなかったかもしれません。
既存の懸賞サイトは残したまま、新しく「ECナビ」を立ち上げる。それが順当なやり方なのかもしれません。
でもそうすると組織は分断されてしまうと思ったんです。
懸賞サイトのチームは「俺ら売上は伸びてるし、利益も出てるし。またなんか社長がなんか言ってるな」と他人ごとになってしまう。
僕としては既存事業に携わっている人たちにも、新規事業を「自分ごと」にしてもらって「自分たちが変わらなきゃダメなんだ!」と意識してもらう必要があると思いました。
そこで懸賞サイトとECナビを分けるのではなく、ひとつの「ECナビ」というメディアを作り「懸賞サイトはECナビの中にあるコンテンツだ」ということにしたのです。
成長が落ちるのは確定した未来
なぜ僕は、社内の反対を押し切ってまで「ECナビ」を始めたのか?
それは「このままだと早晩この市場は無くなる」という確信があったからです。
市場が成長するときの角度はなだらかです。でも、落ちるときには急降下することがあります。
懸賞サイトの市場は明らかに競争は激しくなってきているし、広告単価も下がっている。もしかしたら、みんなで崖っぷちに向かって走り続けている状態かもしれない。崖から落ちてから「次どうする?」と考え始めても相当厳しいだろう……。
僕からすると、懸賞サイトはもはや成熟期であり、その後急降下していくのは明らかでした。既存事業の売上が落ちることは「確定している未来」です。だから、今のうちに何かやらなきゃいけないと思ったのです。
説明会の後半で、みんなにこう問いかけました。
「僕が提案したECナビは僕らが生き残るひとつの手段でしかない。他にもっといいアイデアがあるんだったら検討するから出してほしい」と。
でも結局、誰からも何のアイデアも出ませんでした。
「それなら、これに懸けてみようよ!」
そう言って納得してもらい「ECナビ」はスタートしたのです。
過去最高の営業利益に
その後、予想どおり他の懸賞サイトの広告単価は落ち込み、業界全体が沈んでいきました。
そんな中で「僕らは価格比較サイトです! ショッピングするユーザーも増えています!」と言うことができ、広告の単価も上がりました。「事業を変えてよかったな」と思いました。
ECナビのコンセプトはポイントがたまる価格比較サイト。
ユーザーが買い物をするとき、ECナビを使えばベストな商品が見つかる上にポイントも貯まるというものです。(ちなみに今はまたコンセプトを変えて、ECナビはお得で便利な「ポイントサイト」になっています。)
ひとつ懸念だったのが「価格.comに勝てるのか?」ということでした。
当時すでに価格比較サイトというカテゴリでは「価格.com」は王者として君臨していたのです。
ただ、価格.comはディレクトリ型の「価格比較サイト」です。価格をディレクトリで表示する「比較サイト」というのはビジネスモデルとしてはもう古いんじゃないか?
僕らがやりたいのは、価格比較を行うディレクトリではなく、ショッピングに特化した「検索エンジン」です。実際にアメリカでも、ショッピングに特化した「ショッピングサーチ」が伸びてきていました。
ショッピングに特化した「検索エンジン」のサービスを日本でいち早くやれば勝てるはずだ!
そうして始まった「ECナビ」はリニューアル後も大きな混乱もなく、順調に伸びていき、2005年9月には過去最高の営業利益4.5億円をたたき出すことができたのです。
それでもライバルは強かった
ただ、それでも「価格.com」にはまったく追いつけませんでした。
ECナビの事業自体は成長するのですが、ぜんぜん追いつけない。むしろどんどん差が開く一方です。
これはやっていく中で気づいたのですが、この事業で肝になるのは結局「SEO」でした。
たとえばGoogleなどの検索エンジンで「パソコン 価格」「パソコン 口コミ」と検索したときに、どれだけ検索結果の上位に来るか? 検索エンジンからいかに流入を増やすか? そこが鍵だったのです。
これは、始めるときには気づけませんでした。「価格.com」はサービス名称としても、口コミも充実しており、SEOの強さは圧倒的でした。
Web2.0の波
さらに追い打ちをかけるように「Web2.0」の波がやってきました。
ここでまた僕は危機感を抱き始めるわけです。
2006年に出版された梅田望夫さんの『ウェブ進化論』が話題になり、「Web2.0」は大きなムーブメントになっていきました。
ホームページのような一方向性の時代から、ブログやSNSなど個人が簡単に情報発信できる双方向性の時代へと急速に変わっていった。新たなサービスやプラットフォームが次々と出てきました。
僕らは創業当初からいろいろやっていた事業を整理して「ECナビ」に集中し始めたわけですが、結局「価格.com」にはぜんぜん追いつけない。むしろどんどん離されていく。そうこうしているうちにWeb2.0の大きな波がやってきたのです。
「絶滅期の恐竜」になってはいないか
足元を見ると、僕らの組織は150名近くになっていました。創業当時のスピード感がどんどんなくなってきていました。
社内の組織は縦割りになって、それぞれが部分最適を目指すだけではなく、会議に参加する人数も増え、至るところで「調整します」みたいな言葉をよく耳にするようになりました。気づけば「決断できない組織」になっていたのです。
まるで絶滅期の「恐竜」です。
図体だけは大きくなったけれど、その副作用で意思決定が遅く、環境変化に対応できない組織になっていました。僕は思います。
「価格.comを意識するあまり、組織が大きくなりすぎてしまった。僕らはまるで恐竜だ。このままでは恐竜のように絶滅してしまう。WEB2.0という大きな環境変化に対応するためには、敏捷に動ける小さな哺乳類にならなきゃダメだ......」
そこで僕は機能別の組織を分割し、複数の事業部に再編し、ひとつひとつの事業が機動力をもって意思決定しながら事業を推進していくことができるように「事業部制」に組織を変更することにしました。
そこからポイント交換サイトの「PeX」というサービスを作ったり、ソーシャルブックマークサービスを始めてみたり、中国に子会社をつくってみたり……再びいろいろな事業を展開することにしたのです。
(歴史が長くてなかなか本題の"ハリケーン"に到達しませんが、もうすぐですので笑)
あらゆるサイトに検索機能を入れる事業
そんな中で出会ったのが「検索エンジンのシンジケーション」という事業でした。
これは、いわば検索エンジン会社のいわば「代理店」です。様々なサイトに対して検索エンジンの導入支援を無料で行ない、その代わりにそこで発生した検索連動型広告の収益の一部を頂くという事業でした。
当時のECナビには「商品の検索窓」の横に「普通のウェブ検索ができる検索窓」も設置していました。
「商品検索」を押したら商品の検索結果が出てくるのですが、普通のウェブ検索をすると、ヤフーの検索結果をカスタマイズした検索結果が出てくる。
そして、このウェブ検索で表示された検索連動型広告がクリックされるとその広告売り上げの何%かがバックされる。これが収益を生んでいたのです。
「これはいいな」と思いました。
僕らは、その仕組みを自分たちのサイトだけじゃなく、他のサイトにも提供することにしました。こうして生まれたのが検索エンジンのシンジケーション事業でした。
裏側の検索エンジンはヤフーであり、グーグルのものです。自分たちでエンジンを作るわけではないのですが、それらのエンジンを「カスタマイズ」して提供する。それだけですぐに収益が生まれる。
当時はいろんなサイトが「ポータル(玄関)」になるために競っていました。ポータルに検索エンジンは不可欠です。そこで僕らが「検索窓、つけませんか?」と持っていくわけです。
このシンジケーションの事業はみるみる伸びていきました。
「こんな儲かるビジネスがあるのか」
「こんな儲かるビジネスがあるのか」と思いました。
当時は主にグーグルとヤフーの2社が「うちの検索エンジンを使ってくれ」と競争していました。
NTTの「goo」の裏側はグーグルが取るのか、ヤフーが取るのか?
ニフティはどちらが取るのか?
僕らはグーグルとヤフー、両社とうまく付き合いながら「じゃあ、このサイトにはグーグルさんの検索機能を」「こちらのサイトにはヤフーさんの検索機能を」というぐあいにやっていました。
カスタマイズをする必要はありましたが、一度サイトに設置してもらえれば、その後は手離れも良く、手堅いビジネス。そのサイトでユーザーが検索エンジンを使えば使うほど、ほぼ自動販売機のように毎日チャリンチャリン収益が入ってくる。収益性も高い。
シンジケーション事業の売り上げは全社の半分を占めるようになり、利益も大きく出るようになりました。そして、これは今後も伸びていくだろうという手ごたえがありました。
ヤフーVSグーグル
実は、アメリカのヤフーとヤフージャパンは別の会社です。
ヤフージャパンはソフトバンクの子会社で、アメリカのヤフーとライセンス契約を結んでいました。アメリカのヤフーが開発した「YST(Yahoo Search Technology)」という検索エンジンのライセンスを受けている状態でした。
しかし、2011年。
ヤフージャパンはグーグルと新しく契約をして「アメリカのヤフーの検索エンジンはもう使わないよ」という判断をしたのです。
「とうとうヤフージャパンもグーグルの検索を使うような時代になったのか。グーグルは強いな」と多くの人が思ったのではないでしょうか?
僕もそうでした。「世の中はいろいろ変わっていくんだな〜」と。そしてこのニュースが自分たちの運命を左右するとは、この時点では1ミリも思っていませんでした。
電話1本で売上の半分が吹き飛ぶ
そのニュースの数日後だったでしょうか。
熱海で役員合宿をやっていると、シンジケーション事業の担当役員にヤフーの人から電話が来ました。
「申し訳ないのですが……」とヤフーの人は言います。
「今までアメリカのヤフーの検索エンジンだったからシンジケーションできたのですが、グーグルになるとできないんです。新規を開拓するのは難しいし、既存のものに関しても順次契約終了となります」という話でした。
考えてみれば、そうです。
ヤフージャパンがグーグルを使うということは、国内の検索エンジン市場ではもう競争する必要がなくなるということ。競争がなくなれば、シンジケーションを活用して検索エンジンの利用先メディアを開拓することも必要なくなります。
これは大問題です。
売上の半分がなくなってしまう。
当時、営業利益で5億とか6億ぐらい出てたのが、この売上がなくなると「マイナス5億円」になります。
合宿は突然、お通夜のようになりました。
電話があったのは初日の夕方で、合宿2日目は記憶にありません。天国から地獄へと突き落とされるとはこのことか、と誰もが無言になっていました。記憶にあるのは会議室でみんなが下を向いてる様子をガラケーのカメラで撮ったことくらいです。(そのときの写真は残念ながら見つかりませんでした。)
「でも、5〜6年は保つじゃん」
稼ぎ頭の事業がいきなり電話1本でなくなってしまった。
連絡を受けた当初はショックであんまり覚えていないのですが、冷静に考えてみると解決の糸口が見えてきました。
「稼ぎ頭がなくなる」といっても、幸いなことに、いきなり明日から0になるわけではありません。「既存契約は順次契約終了」という話だったので、完全に売上がなくなるまでは1年くらいは猶予期間があるだろう、と思いました。
「今、会社にいくらキャッシュがあるんだっけ? 30億ぐらいはあるな……。ということは毎年5億円の赤字になっても、お!5、6年は保つじゃん」
過去を振り返ってみると、だいたい5、6年に1つか2つは新規事業がうまくいっていました。ならば、この1、2年でそれに代わるような新規事業を作ればいい、と思ったのです。
そう考えたら、僕はむしろテンションが上がってきました。
全クルーで乗り越える
社内ではこれを「ハリケーン」と呼ぶことにして、こんなポスターを作って、会社中に貼りました。
そして、社内向けにこんな話をしました。
「ハリケーンが来るのは確定した未来だ。だから、今さらそれをどうこう言ってもしょうがない。それよりもハリケーンに備えて新規事業をいろいろやっていこう! これを一緒に乗り越えよう!」
役員だけで情報を囲って秘密裏に対応するのではなく、むしろ状況をオープンにすることで「みんなでやっていこう」という雰囲気を作ったのです。
たしかにすごく難しい状況ではあるけれど、だからこそ、これを乗り越えることができたら、すごくいい会社になるんじゃないか。「これを乗り越えられたら、俺たちカッコいいな!」と思いました。
結果として辞める人もけっこういました。いっときは離職率も20%を超えてしまっていました。
一方で「一緒にピンチを乗り越えていこう!」という人たちだけが残ったのです。これは意図していたわけではないのですが、結果としてちゃんと思いのある人たちが残って、そうでない人は退職していきました。
「アドテク」参入の契機となる
ハリケーンを通じて思ったのは「もっと強い会社にしなければ」ということでした。
ピンチに強い組織にしないといけない。他社のプラットフォームに依存するのではなく、自分たちの運命は自分たちでコントロールできるような事業をつくっていこう、と。
そこで経営理念を作り直し、CCO(チーフ・カルチャー・オフィサー)というポジションを作ってカルチャーを強化していきました。(これが功を奏し、後に「働きがいのある会社ランキング」で3年連続1位になります。)
いまのメイン事業であるアドテクの領域に出会えたのもハリケーンがあったからこそです。
当時、アメリカでは「アドテク」という領域が盛り上がり始めていました。テクノロジーを使った広告の最適化ビジネスです。その中に、メディアが広告収益を最大化するためのプラットフォーム「SSP(Supply-Side-Platform)」というビジネスや広告主の広告効果を最適化するプラットフォーム「DSP(Demand-Side-Platform)」があり、それがいまのメイン事業に育っています。
結果論ではありますが、もしこのハリケーンがなかったら、その後稼ぎ頭になるアドテクへの参入が遅れていた可能性は十分にあります。
禍福はあざなえる縄の如し
実は、上場できたのもハリケーンがきっかけだったりします。
そもそもその当時、僕らはサイバーエージェントの子会社でした。ハリケーンが来ることが確定して、藤田晋さんに「業績が大きく落ち込みます。予算も大きく外します。ごめんなさい」と言いに行ったら「こういうタイミングだったら、サイバーから出て上場を目指す、という選択肢もあるよ」と言われたのです。
業績が悪いときに「グループから出ていいよ」と言うのは冷たいんじゃないか、と受け取る人もいるかもしれません。でも僕からすると「すごくいいアドバイスをしてもらった」と思っています。
サイバーにとっても売上が減少するので、すごく大きな話です。そういう中で「こういうタイミングだから、リスクを取ってチャレンジしてみるのもありなんじゃないの?」と言ってくれた。
ECナビは2012年にサイバーエージェントの傘下から出て、PEファンドのポラリスキャピタルの支援を受けてMBOすることになりました。
その後、社名も「VOYAGE GROUP」に変更し、ついに2014年、念願の「上場」を果たすのです。
禍福は糾える縄の如し。幸も不幸も、表裏。何が不幸のもとになり、何が幸福をもたらすかわからない。そうつくづく思うわけです。