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就職も、転職も、起業も失敗したけれど、いま僕は1400人超の会社の社長

いま僕は「CARTA HOLDINGS(カルタホールディングス)」という会社の社長をやっています。オフィスは虎ノ門ヒルズに入っており、社員数は1400人を超えています。

と、こんなふうに書くと順風満帆に見えるかもしれませんが、振り返ってみるとここまでの道のりは失敗の連続でした。

このnoteでは、僕の20代の話をしたいと思います。

僕は就活、転職、起業、どのフェーズでもうまくいきませんでした。今回はそんな失敗続きの僕がどのように社長になったのか? 「経営者としての始まり」の話をしてみたいと思います。

就活ではマッキンゼー、ボスコンに落ちる

早稲田の学生だった僕は、就活でコンサルティング会社を受けました。

いつか起業したかったので「コンサルに入れば経営のことが学べるだろう」と考えたのです。

マッキンゼーやボストンコンサルティングなどいろいろな会社を受けたのですが、結局どこにも受からず。唯一受かったのが、トーマツコンサルティング(現デロイトトーマツコンサルティング)。なんとか滑り込みで入れてもらえました。

トーマツコンサルティングは監査法人系のコンサルティング会社。今では何千人もの社員を抱えていますが、当時はまだ50人ほどの会社でした。

同期は6人。研修を3カ月やって、その最後の日に配属が発表されました。戦略、マーケ、人事、システムのコンサルティングの部署があり、僕は「経営を勉強するなら戦略かマーケがいいな」と思っていたのですが「宇佐美くんは体力がありそうだからシステムね」と言われ、システムコンサルティングのチームに配属されました。

仕事ができない

僕は同期のなかでも明らかに仕事ができませんでした。

1日かけて資料を作成し上司に提出すると、真っ赤に修正されて「君はこの資料をいくらで買うんだ? クライアントはあなたに対していくら支払っているかわかっているのか?」と激詰めされることもしばしば。

当時の上長には迷惑をおかけしました。

そんな僕でしたが、1年も経つと慣れてきて徐々に仕事も面白くなってきました。仕事の進め方もわかるようになり、小さな領域ではありましたが任せてもらえるようにもなりました。

ただ一方で、すでに出来上がった大企業の大規模システム開発プロジェクトの仕事をどれだけ頑張っても、「ゼロイチ」を創り出していくような起業には全然つながらないことに気付き始めたのです。

そこで「とりあえずベンチャーの世界に足を踏み入れてみるのがいいんじゃないか」と思うようになりました。

憧れの「ベンチャー」に転職

僕が社会人になった96年当時は、日本でもインターネットのベンチャーがいくつか立ち上がってきていました。そのなかに「クレイフィッシュ」という会社がありました。

よく飲みに行っていた友人がクレイフィッシュの社長である松島さんと仲がよかったので、東新宿にあったオフィスに何度か遊びに行かせてもらいました。ちょうど上場前のタイミングで、本当にみんなが寝ずに仕事をしてるのを見て「これこそベンチャーだ!」と思ったのを覚えています。

ベンチャーにさらに興味を持つようになった頃、その友人たちが「今度新しい会社を作ろうと思ってるんだ」と話していました。もともと友人が経営していた会社と伊藤忠、島精機の3社が出資をして新しく会社を作るという話でした。

友人は言います。

「ある発明家がいてね、アドビのアクロバットみたいなソフトウェアを作ろうとしてるんだ。共通のフォーマットでWindowsでもMacでも使える互換性のあるソフトウェア。……どう? その会社手伝わない?」

アクロバットは使ったことがなかったのですが「なんかよくわからないけど、すごいらしいな」と思って、僕はトーマツコンサルティングを辞め、そのベンチャーを手伝うことにしました。

ただ、その発明家というか社長と会ったのは、入社までに1回だけ。面接らしい面接もありませんでした。だから入る会社がどんな会社なのかきちんと理解してはいませんでした。

わかっているのは、まだ3、4人の会社で、僕は営業とかマーケティングの責任者をやるということくらい。肩書きだけは立派に「営業本部部長」でしたが、部署には僕1人だけのようでした。

でも僕は「ようやくベンチャー企業で働けるぞ! マーケティングがやれるぞ!」と鼻息を荒くしていました。

ヤバい会社に入ってしまう

入社当日ーー。

僕はクレイフィッシュのような、もうみんな死に物狂いで朝から晩まで寝泊まりするような会社を思い描いていました。でも初めて会社に行くと、どうやらそういう感じではなかったのです。

赤坂見附の路地を入り雑居ビルの一室に辿り着くと、まず靴を脱いでスリッパに履き替えました。「スリッパに履き替えるような会社か……」と思いながら入っていくと、社長とエンジニア2人と事務の人が1人いました。

「ああ、宇佐美くん、こっちこっち」

社長に呼ばれて1対1で対面すると「今作っているソフトがいかに素晴らしいか」「いかにすごい技術か」についての熱弁が始まりました。

「宇佐美くん、ファイルというのは、やりとりするときインターオペラビリティー(相互運用性)が大事なんだ。このソフトウェアがあればOSが何であろうと情報をやりとりできる。ファイルをやりとりしてるとよく文字化けするだろ? そういうストレスのない世界を作っていきたいんだ。そこで宇佐美くんには営業とかマーケティングをやってもらいたい」

僕は「なんかすごそうだな」と思いながらも、実際今後マーケティングをするにあたって素朴に「誰が使うんだろう?」と思いました。そこで社長の話が途切れたタイミングを見計らって思い切って聞いてみました。

「……で、これって誰が使うんですかね?」

すると社長は顔色ひとつ変えず「それを考えるのが君の仕事じゃないか」と言うのです。

「お~っと、マジか」と思いました。

誰が使うのかわからない、でも何かすごいものを作っている。そんな会社に入ってしまった。すでにトーマツコンサルティングは辞めてしまっています。そのとき僕は気づくのです。「もしかしたらヤバいところに入ってしまったかもしれない」と。

その後もよくよく話を聞いていくと、その社長は別にエンジニアとか研究者ですらなく、単なる「発明家っぽいおじさん」だったのです。技術的にも革新的な何かがあるわけでもなかった。しかもソフトウェアの開発は外注しているといいます。ソフトウェアを作ってすらいない……。さすがに「あれ、自分たちで作らないの?」と思いました。

どうせ潰れるなら、やれるだけやってみよう

どうやら僕はいきなり転職で失敗したようだ……。でもそのとき、逆にこう思いました。

「この会社はどう頑張っても潰れるだろう。どうせ失敗する可能性が高いのであれば、ここでやれるだけやってみよう!」

そう思い直した僕は、早速パッケージのデザインを決めるところから始めることにしました。パッケージデザインを決めるためには「誰に対して、何を訴求するか?」を考えなければいけません。

その商品を誰が使うか? どういうシーンで使うか? 社長はそこが見えていないので、僕が考えるしかありません。

当時はちょうどアドビがアクロバットを発表して普及し始めていました。どんな環境でも専用ビューアーがあればファイルを同じように表示でき、プリンタードライバーを使えば「PDF」という形式で出力することができる。

社長のやりたいことをシンプルに整理していくと「日本初でPDF的なものを作る」ということでした。原理的にもアクロバットとほぼ同じ……。

毎日毎日、赤坂見附のオフィスに通って、自社商品の売り方を考えてみるのですが、辿り着く答えはいつも同じでした。

「アドビでいいじゃん」

すでにアクロバットがあるし、それでいいのではないか? 最初は朧気ながらだったのですが、それは確信に変わっていきました。僕も、そして開発している人たちも、だんだんと「これじゃマズイ」ということが見えてきた。「ここはなんとしてもアクロバットと差別化を図らないと、先はないぞ」と思うようになりました。

新しい技術をどうビジネスにできるか?

アドビよりも先進的なことをしなければいけない。

当時のアクロバットは、PDFファイルを見るために「専用のビューアー」が必要でした。そこでその会社では「PDFをブラウザで見ることができる」くらい汎用性の高い新しいファイルフォーマットが作れないかを模索し始めました。

その頃、登場した技術に「XML」があります。

XMLについての説明は少し複雑なので割愛しますが、ようするに既存の「HTML」よりも汎用性の高い技術です。HTMLと違って、テキスト自体に意味を持ったタグを埋め込むことでデータも互換できるようになります。

「次のインターネットの規格はXMLだ」と言われ始めてもいました。

結果としてそのベンチャーでは、既存のファイルフォーマットをXML形式に変換するコンバーターやビューアーの開発を進めていきました。もし実現できれば日本初どころか、世界初です。

一方で僕の興味はそういったソフトウェアよりも「そもそもXMLを使って、どういうビジネスができるだろうか?」ということにより興味を持つようになりました。

当時は新しいインターネットの技術がアメリカのシリコンバレーでどんどん生まれていました。「新しい技術をどうビジネスの中で応用するか?」「新しい技術でどのように社会を変えられるか?」を考えることは、すごくエキサイティングなことでした。

情報発信したら、いろんな人とつながった

XMLについて自分なりに調べ始めたのは、その会社に入社して1年が経った頃でした。

ちょうど友人がさまざまなベンチャーを集めた協同組合を作っていたので、その共同組合と一緒に「XMLを使ったビジネスの研究会」を立ち上げました。

また僕個人で「XML通信」というメルマガを発行することにしました。アメリカの最新事例などを調べて「こんな新しいビジネスが生まれています」というものを紹介する内容のメルマガです。

その当時、日本でXMLについての情報発信をしている人もあまりいなかったので、短期間で何千人もの人がメルマガに登録してくれました。おそらく日本でXMLに詳しい3人のうちの1人になっていたと思います。

XMLについて勉強しながら発信していると、だんだんXMLに興味のある人たちとネットワークができていきました。そこで「これをもっと広げていきたいな」と思うようになっていきました。

「新技術でできた何か」を営業して回る

入社した会社では「XMLのコンバーター」と「XMLのビューアー」がいちおう完成しました。

モノができても、売れなければ意味がありません。そこは僕の仕事です。そこで当時、ソフトの卸売をやっていたソフトバンクに取引口座を開いて、秋葉原の量販店の棚に置いてもらえるよう営業をやりました。

でも、なかなか売れません。

結局「そのソフトウェアによって何ができるか?」はよくわからないままだったのです。「誰に響くか?」が明確ではなかった。

「売れない売れない」と言っていてもどうしようもないので「インターネットで売ってみよう」ということになりました。97年当時はインターネットで売ることはまだまだ一般的ではありませんでした。

僕らは、後に楽天が買収した「インフォシーク」というサイトでプレゼントキャンペーンみたいなことをやりました。「アンケートに答えたら500円」というチカチカ光るようなバナーを出したのです。

すると、思ったよりも反響がありました。500人以上からちゃんとアンケートが集まったのです。「売れる」というところまでは至らないまでも「インターネットって、マーケティングに使えそうだな」という感覚がありました。

少しだけですが「見えた」と思いました。

「日本にもインターネット、来るぞ」

が、相変わらず経営は危険水域です。

そこで営業チームで話し合って、自社プロダクト以外にアメリカでいちばんうまくいってるソフトウェアを探して日本に持ってくることにしました。いわゆる販売代理店になるのです。

98年の年末、ラスベガスで毎年行われている「COMDEX」という世界最大のコンピューターの展示会に行くことにしました。そこではあらゆるコンピューターやソフトウエアの会社が出展して、新商品をアピールしていました。

僕らはそこであらゆる会社と商談をしました。

そこで感じたのは「インターネットの熱」です。アメリカでのインターネットビジネスの盛り上がりを直に肌で感じた僕は「やっぱり日本でもインターネット来るぞ!」と思いました。

結局1社目に入社したベンチャーは、その後どうにもならないような状況になってしまいました。

「こりゃ、どうやってもこの会社はダメだな……」

その一方でインターネットの可能性に僕は魅了されていました。「次々に出てくるテクノロジーを使って何かでっかいことができないか?」とますます思うようになりました。

起業の滑り出しは順調、に見えた

99年の春。僕はその会社を辞め、最初の起業をします。

XMLを使った検索エンジンを開発する会社です。友人とやっていたXMLの研究会で新規事業をやろうということになり、そのまま法人化したのです。

資金はいきなり1億円ありました。

なぜか? 助成金が下りたからです。

ちょうど小渕首相が「ベンチャー向けの助成金を10億円設定します」とぶち上げていました。

また同じ頃「AmazonがXMLを使った検索エンジンの会社を買収した」というニュースもありました。そこで僕らも、日本で同様のサービスを展開できるのではと思い「求人情報の検索エンジン」の企画案を書いて出すと、無事に1億円の助成金が出ることになったのです。

コンサル時代にシステムコンサルティングをやった経験は、起業には結び付かないと思っていましたが、インターネットサービスを考えるうえでシステム開発の経験があったことは大きなアドバンテージになりました。

そんな感じで、起業の滑り出しは順調に見えました。

1億円が入ったのはいいけれど……

求人情報の検索エンジンの開発が始まりました。今でいう「Indeed」のような検索エンジンです。

ただ僕はエンジニアではないので、実際の開発は前述した協同組合に加盟していた何社かの人たちと一緒に進めることにしました。

ただ、ここからが大変でした。

助成金を申請する段階では、各社が提案書の作成にいろいろ協力してくれました。その時点では「誰がどういう権利を持つか」といった詳しい話はせずに「こういうサービスがあったらいいですね!」といった話だけで進んでいました。

でも、いざ実際に「1億円取れました!」となった途端に各社から「ここはうちの会社が……」「この部分の権利はうちで……」と言い始めたのです。

いつのまにか「目先の権利とお金をどう配分するか」という議論が始まってしまった。

僕としては「このお金は事業を立ち上げるための助成金であって、配分するためのものではないんだけどな……」と思っていました。思い描いていたのは、かつて見たクレイフィッシュのように、みんなでひとつの目標に向かって熱量持って取り組んでいく姿。

しかし、どうも思ってたのと違う。

結果、このプロジェクトはそのあと1年ほど続いたのですが「お金をもらうためだけの書類仕事」みたいになってしまいぜんぜん面白くなくなってしまいました。最初の起業はこれといったサービスもリリースできず、50センチくらいの提案書の束と使われないプログラムができただけでした。

就活でも希望していた会社に落ち、転職するもヤバい会社に入ってしまい、起業したけれどうまくいかない。「なんで僕だけうまくいかないんだろう」と思っていました。

99年、運命を変えた「飲み会」

そんなとき、僕の運命を変えるメールが届くのです。

99年の春に「インターネット系の会社の人たちで集まって飲みましょう」というお誘いがメールで届きました。呼びかけ人は、当時ネットエイジの取締役だった松山くん(現在はEAST VENTURESというVCの代表)です。

その日、渋谷にある居酒屋「うおや一丁」にインターネットビジネスをやっているスタートアップの人たち40〜50人ほどが集まりました。

飲み会では「渋谷をシリコンバレーのような街にしていこう!」「渋谷は渋い(Bitter)谷(Valley)だからビターバレーってのはどうかな?」などと盛り上がりました。のちにこれが「Bit Valley(ビットバレー)」という名前に繋がっていきます。

ワイワイ飲み会をやり、そのあと東急本店の地下にあった「ドゥマゴ」というカフェにみんなでなだれ込みました。さらに盛り上がったので、残っていた人たちで近所のネットエイジのオフィスに遊びに行くことになりました。

ネットエイジのオフィスは、1階に歯医者さんがあって2階にオフィスがある一軒家のような場所でした。狭いフロアでひしめき合いながらパソコンに向かっている。場所がないから押し入れで仕事している人もいます。まさに「ガレージベンチャー」。雰囲気はさながらアメリカ西海岸です。

僕はこの様子を見て「そうそう、僕がやりたいのはこういうことなんだよ!」と改めて思いました。

たまたま隣にいた男

その飲み会のとき、たまたま隣に座っていたのがネットエイジの社員だった尾関くんです。

彼は言いました。

「いまインターネットを使ったマーケティングサービスを考えてて。アメリカの最新事情を調べたいんだけど手伝ってくれない?」

尾関くんは新しい会社を立ち上げようとしているところで、一緒に動いてくれる人を探しているようでした。

最初の起業で挫折を感じていた僕は、ちょうど「こっからどうしようかな」と思っていました。そんなときに尾関くんから「一緒に会社やらない?」と誘われたのです。

アメリカでは口コミを利用したサービスやポイントを活用したサービス、アフィリエイトプログラムなど、さまざまなマーケティングサービスが立ち上がっていました。調べれば調べるほど、マーケティングの領域に可能性を感じるようになりました。

尾関くんとはすぐに意気投合して一緒に会社を立ち上げることになりました。彼がCEOで、僕がCOO。そうやってできたのが「アクシブドットコム」という会社でした。

「いきなり2つの事業なんてありえない」

会社を作ることは決めたものの、具体的に何をやるかはまだ決まっていません。そこで2人でやりたい事業案を出し合いました。

僕がやりたいと思った事業はアフィリエイトサービスでした。

当時、Amazonが初めてアフィリエイトプログラムを作って話題になっていました。僕は日本でも同様の市場が広がっていくに違いないと思い、アフィリエイトプログラムを提供するサービスを日本でいち早く立ち上げ、大きくしたいと考えました。

一方で尾関くんは、もともとネットエイジ社内で検討していた「MyID」というサービスをやりたいと言いました。

「MyID」というのは、ようするに「ユーザーがひとつのIDを作れば、いろんなサービスを使える」というもの。ひとつのIDでいろんなサイトが使える。そういうサービスを作ったらグローバルにも広がるんじゃないか。「ユニバーサルID構想」というものを掲げて、事業を作っていこうとしていました。

「どちらも伸びそうだし面白そうだよね」ということで2つの事業をそれぞれ進めようということになりました。

ところがその様子を見ていたネットエイジの西川社長は「スタートアップで立ち上げから2つの事業をやるなんてありえない。どちらかひとつに絞ったほうがいい」とアドバイスしてくれました。

「さてどうしようか」と思っていたときに、日本でもアフィリエイトサービスを提供する会社が出てきました。それを見て「日本初」と言えないのであれば尾関くんの言う「MyID」に集中しようということになりました。

いきなり壁にぶつかる

そうやってスタートした「MyID」でしたが、いきなり壁にぶつかりました。

今はグーグルやフェイスブックのIDがあれば、いろんなサイトが使えますよね? MyIDのイメージもそういったものでした。あらゆる人がIDをひとつ持っていれば、いろんなサイトを利用できる。

ただ、これをやるには多くのユーザーが必要です。今のグーグルのようにたくさんのユーザーがいれば「このユーザーIDを使って、ここのサービスも使えますよ!」ということができるけれど、そもそもユーザーがいないので誰も乗っかってこないわけです。

ユーザーを集めないことには始まらない。そこでちょっと軌道修正をしようということになりました。

目をつけたのが「懸賞」です。

最近はあまり見かけなくなりましたが、当時は「懸賞サイト」がいろいろありました。ユーザーは懸賞に応募するたびに、名前や住所、電話番号なんかをいちいち打ち込まなければいけませんでした。

であれば、懸賞の情報を集約してポータルサイトにしてはどうか?

ポータルサイトに名前や住所などを登録しておけば、応募するときに自動的にフォームに反映させられるユーザーは応募のたびに情報を打ち込む手間が省けます。これなら多くの人が登録してくれるんじゃないか?

そういうわけで、MyIDは当初のコンセプトとは全く違う「懸賞サイト」としてスタートすることになりました。

3社からM&Aのオファーが届く

尾関くんが代表取締役CEO、僕が取締役COOという形で始まったアクシブドットコム。

尾関くんは人脈が広くて、いろんなスタートアップやVCの人たちとも仲がよかったので、外向けの広報や資金調達は彼が担当していました。僕は最初の起業を経て「社長業はもういいや」と思っていたので「どう事業を作っていくか?」「サービスをどう伸ばしていくか?」「どう組織をつくっていくか?」という部分を担当することになりました。

事業も組織も順調に伸びていき、設立から2年弱が経った2001年6月に初めて単月で黒字になりました。するといきなり3社からM&Aのオファーがありました。外資系企業、楽天、そしてヤフーの3社です。

「おっ、来たぞ!」と思いました。

ただ、僕らはまだ売却したいと思ってはいませんでした。一方で「このサービスをもっと伸ばすためなら、M&Aという選択肢もあるかもね」という話になり、真剣に検討することにしました。

売却するにしても、どこがいいんだろうか?

まず、外資系の会社はやめることにしました。僕たちがそんなに英語をしゃべれないから、という単純な理由でした。楽天は、三木谷さんのような銀行出身の人が立ちあげた会社と僕らとではカルチャーが違い過ぎるんじゃないか、ということでお断りしました。

残るはヤフー。ヤフーは当時すでに日本一のポータルサイトでしたし、僕らの株主でもありました。ヤフーの懸賞コーナーを僕らが作る提案もすでにしていました。そんなこともあり「ヤフーに売却するのがいいんじゃないか?」ということになりました。

売却条件もたしか7億か8億ぐらいで当時としてはそれなりに高い金額を提示され、売却でほぼほぼまとまりました。当時のヤフーの社長だった井上さんと赤坂の高い料亭でご飯を食べ、あとはもう判子を押すだけ。

……でも、最後の最後で悩んでしまいました。

ヤフーに売却すると、完全に「吸収合併」となり、アクシブドットコムという会社はなくなってしまいます。すると株を持っている創業メンバーはそれなりにリターンがあるけれど、一緒に働いているメンバーはそうではありません。

ヤフーに吸収されることで安定はするかもしれないけれど、吸収されたあともメンバー全員が本当に社員として雇ってもらえるかどうかも微妙だなと思いました。

「サイバーエージェントがいいんじゃないか」

直前まで悩みに悩んだのですが「やっぱりここは完全に吸収される形ではなく、僕らの会社を残したまま事業を大きくしていきたいよね」という話になりました。

ヤフー以外に選択肢はないのか考えているとき、尾関くんが言いました。

「サイバーエージェントはどうかな? ちょっと藤田さんに話してみるよ」

尾関くんはサイバーエージェントの99年の新卒社員。2週間ほどで辞めたのですが、藤田さんとは仲がよかったのです。

返事は「OK」でした。しかも「吸収合併じゃなくて、そのまま会社を残していいし、うまくいけばその後上場してもいいよ」という話でした。

「これはいいね!」ということで、条件はヤフーのほうがよかったのですが、サイバーと資本業務提携をして、いったんはサイバーが株の過半数以上を持つ形になって、連結子会社になったのです。

これが2001年の9月のことでした。

経営のバランスが崩れていく

黒字にもなったし、サイバーの仲間入りもした。売上成長も加速しました。すべては順調に見えていたのですが、このあたりから少しずつ組織に「歪み」が出てきました。

サイバーにグループ入りするまでは、僕と尾関くんの役割分担は明確でした。ただ、グループ入り後は尾関くんの広報や資金調達の仕事がだいぶ落ち着いてきたこともあって、彼なりの「こういう会社にしたい」「こういうサービスにしたい」という思いが強くなっていきました。

すると僕が今までやってきた領域とだんだんクロスオーバーする形になってきたのです。正直なところ「ちょっとやりにくいな」と思うようになっていました。

僕としては「でも、この会社は尾関くんが社長だし、彼がやりたいようにそのサポートをすればいい」と思うようになっていました。

そしてだんだんと「辞めよう」と思うようになりました。

現場の意思決定者が何人もいるのは組織として良くありません。であれば、僕が引こうと思ったのです。そう決めてからは少し現場でも引き気味になって、尾関くんがどんどんやればいいというスタンスを取るようにしました。

でも会社経営というのは、難しいものです。いろんなバランスがある。会社のあらゆる物事が矛盾なく一気通貫になっていないと、結局現場は混乱してしまいます。

事業はこれまで僕が作ってきたいろんなバランスの中で回っていたので、尾関くんが「この部分はこうしたい」「あの部分はこうしたい」と進めていっても、その部分だけ他と整合性が取れなくなる。

もう一回「新しいバランス」を作らないと、会社はうまく回りません。

僕からすると「尾関くん流の新しいバランスを作ろうとしているんだな」と思う一方で、自分が今まで作ってきたバランスの中で成り立っていた組織がどんどん崩れていくのを目の当たりにすることにもなりました。

「社長になるか、去るか」

「自分はこの会社を辞めてもなんとかなる」と思っていました。自分で立ち上げた最初の会社もあったのでそっちに戻るのもありかな、と。

でも、ひとつあったのが、社員のことです。このまま僕が抜けて会社がうまく回らなくなったら社員のみんなは今後どうなるのだろう、ということが引っかかっていました。

「自分が残るとしたら、どういう形がいいのだろう?」

そう考えたときに「自分が社長になるのであれば残るけれど、そうではなかったら残らない」。これだなと思いました。シンプルに言うと「代表は1人で自分が社長になるんだったら残る。それ以外だったら残らない」と決めたのです。

そのときまでこういったことを尾関くんには相談できていませんでした。ひとり悶々と考えこんで、ひとりで退職する気になっていたのです。

でもここは腹を割って話そう、と心を決めました。

立つ鳥跡を濁さず、みたいに去るのではなく、ちゃんと議論してお互い納得いくまで話し合おうと。

尾関くんと何度も話をしました。まわりの人たちとも話し合いを続けました。創業直後に最初に投資してくれたインキュベートファンドの赤浦さんというレジェンドみたいな人がいるのですが、当時社外取締役だった彼にも何度も相談しました。サイバーエージェントの方々とも話しました。

僕の強い意志に根負けして、最後は尾関くんに「じゃあ、代わろうか」と言ってもらい、2002年に尾関くんが取締役会長、僕が代表取締役社長兼CEOという体制になりました。僕はちょうど30歳になっていました。

たった2人のボートは1400人超の大きな船に

尾関くんとたった2人で創業した会社は、3年で社員数50から60人くらいになり、その後も仲間は増えていきました。

社名は「アクシブドットコム」から「ECナビ」、「VOYAGE GROUP」と変わり、さらに経営統合を経て「CARTA HOLDINGS」になりました。2人で漕ぎ始めたボートは、今では1400人以上を乗せる大きな船になりました。

創業日はちょうど25年前の10月8日です。

ネットエイジに間借りした「オフィス」には僕らの机がなかったので、どこかから拾ってきた木の学習机とみかんが入っていた段ボール箱を机にして、その上にパソコンを置いて仕事をしていました。

僕らには何もありませんでした。

実績も、事業計画も、お金も。

何もないなかで、ただただインターネットの可能性に惹かれて「僕らでも世界を変えるようなスゴイことができるはずだ」という夢と情熱と熱狂だけの出航でした。

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