🥇さま27 サラエボ

著者の凄さ↑

こちらの作品はフィクションです。しかし著者は著名なジャーナリストでピューリッツァー賞受賞者であり、更にサラエボ・ハガダーは実在する産物になります。
また、解説の千街晶之氏によると、物語の終盤のスリリングなエスピオナージュ仕立てには、ナイジェリアで政治家の汚職を取材中にスパイ容疑で刑務所に収監されたことがある著者自身の記者時代のさまざまな体験や見聞も投影されているかもしれないと解説している。
研究段階ではありますが、彼女がフィクションとしてまとめたものは、かなり重宝出来るものとしてまとめさせていただきます。

29、鮮明な黄緑色と赤も使われており、炎のような赤色は『虫の緋色』(worm scarlet)ヘブライ語で『トラアット・シャニ』と呼ばれ、木に寄生する虫を潰して、灰汁で煮て抽出した顔料である。後に錬金術師が硫黄と水銀からそれにそっくりな赤色を作る方法を編み出し、その時もその色の名は『小虫』という意味の『ヴェルミクルム』と名付けられた。今ではその色は『ヴァーミリオン』と呼ばれている。

30、書物にとって1番望ましいのは温度、湿度などの環境が常に一定であることである。

31、サラエボ・ハガダーは極めて困難な状況で持ち出されて準備も予防措置もないままに急激な気温な変化にさらされてきたがゆえに、羊皮紙が縮み顔料がひび割れて剥がれていても不思議ではないにも関わらず、意外にも顔料はしっかり定着して、絵が描かれたその日のままに澄んで鮮やかで、擦り切れた装丁とは対照的に挿絵に使われた金箔は輝いていた。絵には銀箔も使われていて、それは案の定、酸化して灰色になっていた。

32、専門家からしたら、1890年のオーストリアの装丁師より500年前の金箔師の方が仕事に関する知識が豊富に見える。

33、羊皮紙は生もので人の体に付着したバクテリアで腐食することもある。

34、国連はこの手の捜査に関しては『ボスニアの為に力を貸している。適切に展示されるように出資している。』と考えるが、国立博物館の主任学術員側からしたら国宝級の所蔵品となれば、よそ者に指揮を取らせたがりたくない。

35、古書の修繕は化学薬品を使って汚れをすっかり落とすとか、本の状態をきちんと把握してからでなくては、どこまで手を加えるかは決められない。が、新品同様の修復を求めて雇う人はいない。

36、新品同様の修復を求めて雇う人の修復作業を非難する論文が山ほど。

↑ツッコミどころ満載(フレスコだから関係ないって言わないで。)

英語版(*´Д`*)

37、サラエボ・ハガダーにはヘブライ語の流麗な文字の上に広がった茶褐色の染みがある。

38、この手の小さな染みの部分の微細なサンプルを取って分析すれば何の染みかがわかる。きちんと分析したら染みがついた時に、この方がどこにあったのかという手がかりが得られたりするが、すぐに分かるわけではなく50年後、100年後に科学技術が進歩して未来の保存修復家が突き止めてくれたりする。

39、この手の捜査や修繕は、染みを損傷とみなして化学的な処理で消してしまったら染みがついた時の状況はこれからも絶対に分からない。

40、この手の古書の修繕期間中は、修繕作業が終わるたびに銀行の警備員が交代時間の前に金庫に本を戻しに行く。

41、The Wall Street Journalの記者としてサラエボでボスニア紛争(1992年4月6日 – 1995年12月14日)の取材を著者Geraldine Brooksがしていた時にサラエボ・ハガダーの存在を知った。当時、街は国立図書館が破壊されて、セルビア人の激しい爆撃で燃えた本の煙が立ち込めていた。東洋研究所も傑出した蔵書とともに灰と化し、国立博物館は度重なる砲撃によってめちゃくちゃになった。当時はボスニアが有する宝であるサラエボ・ハガダーの所在は分からず、マスメディアのさまざまな憶測の的となった。

42、紛争が終わると、イスラム教徒の学芸員エンヴェル・イマモヴィッチが砲撃からその本を救って、銀行の金庫室に隠していたことが明らかになった。

43、イスラム教徒によってユダヤの書物が救われたのは、サラエボ・ハガダーが初めてではなく1941年にはイスラム社会の高名な学者デルヴィシュ・コルクトはのちに戦犯として絞首刑になったナチスドイツの将官ヨハン・ハンス・フォルトナーの目と鼻の先で、博物館唐その本をこっそり持ち出して、山の中のモスクに持って行き、第二次世界大戦が終わるまでそこに隠していた。

44、サラエボ・ハガダーが初めて学者たちの注目ゆ集めたのは、1894年のサラエボで困窮したユダヤ人一家がそれを売りに出した時で、多くの美術史学者がサラエボ・ハガダーの発見に興奮した。現存する中世の彩色画が描かれたヘブライ語の最古の一つだったからである。

45、サラエボ・ハガダーの発見によって宗教的な理由で中世のユダヤ教が絵画的な表現を禁じていたというそれまでの定説が揺らいだ。

46、サラエボ・ハガダーがどのようにして作られた本かは学者たちには殆ど突き止められなかった。わかったのは14世紀半ばからコンビベンシアと呼ばれる時代。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教徒が比較的平和に共生していた時代にかけてスペインで作られたということだけだった。

47、しかしながら1609年にサラエボ・ハガダーがヴェネツィアへ渡っていたのはほぼ間違いない。『ヴィストリニ』というカトリックの司祭の署名があることから、それによってローマ教皇の命による異端排除の焚書を免れたと考えられる。だか、その一点を除いてヴィストリニなる司祭に関しては全く分かっていない。

48、1609年頃は当時のカトリックのヘブライ学者の多くがユダヤからの改宗者であったのは事実である。

49、1894年にそのハガダーがボスニアで発見された時、そこはオーストリア=ハンガリー帝国の領地であり、その本が研究と修復のために文化と学問の中心であるウィーンに送られたのは至極当然のことだった。

50、サラエボの学芸員は卓越している。そのひとりアイーダ・ブトゥロヴィッチはサラエボの燃え上がる図書館から蔵書を幾晩もかけて安全な場所に移した。エンヴェル・イマモヴィッチは激しい砲撃の最中にサラエボ・ハガダーを救った。

51、羊皮紙は数世紀も持ちこたえるほど丈夫でありながら、ほんの一瞬の不注意で台無しになってしまうほど脆いのが羊皮紙である。

52、サラエボ・ハガダーの場合には毛穴の大きさと散らばり方わや見ただけで、目の前なかある羊皮紙がかつてスペインの山に生息し、すでに絶滅した毛の濃い羊の皮から作ったものと分かった。

53、その地方の羊皮紙職人の間で、その種の羊の皮を使うのが流行した時代は、アラゴン王国とカスティリャ王国の連合が成立した時期から100年以内に作られたと推測できる。

54、羊皮紙はもちろん革だが、見た目や感触は革とは全く違う。なぜならば蛋白質の繊維が引き伸ばされて平らになっているからである。濡れると繊維はそもそもの立体に戻ろうとする。本が金属の箱に入れられていなかった。

55、結露や雨の種のダメージは殆どなかったが、かなり昔のものとおぼしき気候による損傷が見られるページがいくつかあり、顕微鏡で調べると、立方体の結晶が1つ見つかった。塩化ナトリウム、いわゆる一般的な塩のようであった。本をわずかに損なった水は、過古書しの祭のセデルのテーブルで使われるエジプトの奴隷の涙を象徴する塩水かもしれない。

56、古書は、金箔師、石を擦り潰して顔料を作る者、能書家、製本師といった人々の手で作られる。

57、サラエボ・ハガダーのような高価な顔料が用いられている古書は、宮廷や大聖堂で使用するために作られたものが多い。

58、しかしハガダーは家庭で使うものであり、ハガダーという書名はヘブライ語の『語る』という意味を持つ動詞の語源hgdから派生したもので、出エジプト記の物語を親から子へと語り継げという教えからきている。とはいえら語り継ぎ方は千差万別で各家庭で行われるこの儀式は、何世紀ものあいだにさまざまなユダヤ社会で独自の変化を遂げてきた。しかしサラエボ・ハガダーが作られたのは大半のユダヤ教徒が絵画的表現は戒律に背くと考えていた時代だから、なぜこのハガダーだけがいくつもの細密画で彩られているかは謎である。

59、サラエボ・ハガダーの絵の様式はキリスト教徒の絵師が描いたものににていなくもなあ。それでいて多くの絵がミドラシュ(古代ユダヤの聖書注解書)やユダヤ教の聖書解釈に基づいて描かれている。

※前回22に留め具が消えていたと書いたが、それは著者の空想である🙇‍♀️

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