🇫🇮 等身大のフィンランド vol.11 アヌさんと辿る冬戦争の記録(5)
アヌ・カーリナさんの祖父アルヴィさんは、ソ連が宣戦布告なしでフィンランドを国境を越えて攻撃し、1939年11月30日に始まった「冬戦争」の時代を生きました。
等身大のフィンランド第11回は、アヌさんが追いかけたアルヴィさんの足跡を一緒に辿りたいと思います。
今回は第5話を紹介します。
前回(1939年12月4日)のお話はこちら
アヌさんの記録から
1939.12.5
位置関係をざっくり紹介
フィンランド語で書かれたテキストを、その場面にふさわしい日本語で表現することももちろん難しいのですが、わたしが一番てこずっているのが、位置関係の把握です。特に、冬戦争の主な舞台となったカレリア地峡は現在はロシアに領土を割譲されているので、地図にはキリル文字で表されていることがほとんどです。
ひょっとすると間違っているところがあるかもしれませんが、記録をもとに地図を作りましたのでご紹介します。ノートの右ページが全体図、左ページは話の舞台になっているラドガ湖の北側エリアを抽出したものです。
ここでいう「ロッタ」とは、ねずみ(rotta)ではありません。1918年に設立された、フィンランドの女性のための自主的な準軍事組織 Lotta Svärd を指します。1920年代から30年代に組織はますます拡大し、多くの女性がボランティアで活動に参加したそうです。
人はそれぞれ事情を抱え、
平然と生きている
マンネルヘイムとヘイスカネンの考え方の違いについて、正直なところ、アヌさんの文章をどこまで正確に翻訳できているか自信はありません。敵を攻撃することにフォーカスしているマンネルヘイムとは対照的に、ヘイスカネンは避難する人たちに目をむけていたということなのでしょうか。
最後に、アヌさんの家族の話が登場します。母方の家族がラドガ湖の北にあるスイスタモに暮らしていたということは、ウウクニエミ出身のアルヴィさんは、アヌさんにとって父方の祖父にあたるというわけですね。
スイスタモには、12月2日の午後にアアルネ・ユーティライネンが救出に訪れました。最初の荷台が到着してから3日が経っても、アヌさんの家族はまだスイスタモに残っていたのですね。
アヌさんの記録によると、スオヤルヴィでの避難の遅れについて「貧しい人たちには自力で逃げる術がなかった」とあります。その言葉の意味を考えて、ひとつの可能性にたどり着きました。
避難することが目的ではなく、避難した先でも暮らしを続けなくてはなりません。
身の回りの荷物を運ぶ荷台を用意できなかった人たちもいらっしゃったでしょうし、避難先での暮らしを続ける準備が整っていなかった人たちもいらっしゃったのではないでしょうか。小さな子どもたちを抱えていたら尚のこと、選択には慎重になっていたはずです。
前後のストーリーが少しずつ繋がってきました。次回に続けましょう。
戦争博物館の記録から
1939.12.5
この日に撮影された写真は見つかりませんでした。
代わりに12月1日にロイモラで撮影された写真を紹介します。
マンネルヘイム最高司令官がヘイスカネン司令官の任を解く場面での描写を、私は次のように訳しました。
雪野原を意味する元々のフィンランド語は〈lumihanki〉、英語では snow blanket と訳されます。写真に写っている風景こそが、lumihanki だったのですね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?