見出し画像

🇫🇮 等身大のフィンランドvol.11 アヌさんと辿る冬戦争の記録(3)

アヌ・カーリナさんの祖父アルヴィさんは、ソ連が宣戦布告なしでフィンランドを国境を越えて攻撃し、1939年11月30日に始まった「冬戦争」の時代を生きました。等身大のフィンランド第11回は、アヌさんが追いかけたアルヴィさんの足跡を一緒に辿りたいと思います。

今回は第3話を紹介します。

前回のお話はこちら


アヌさんの記録から
1939.12.3

12月2日の真夜中に始まった防衛戦のあと、2つの部隊と荷台がスヴィラハティを出発しました。彼らが向かうのは、コッラーンヨキ(コッラ川)です。

Anu Kaarina さんのInstagramから翻訳

スヴィラハティは、元はカレリアのスオヤルヴィの南にある小さな村です。アヌさんの記録から、前回その場所を特定できずに保留していた〈アルタフフタ〉が、このスヴィラハティにあったことがわかりました。

そしてこのことから、ユヴァスキュラの付近と仮定して話を進めてきた「ミュッリュヤルヴィ」をカレリア地峡の南に発見しました!

これでようやく、話の辻褄が合います。1939年10月9日に結成された部隊は、故郷のウウクニエミから遥か南東のミュッリュヤルヴィを目指して230km以上の行程を進軍したのでした。道中、サウナで体を温めることも忘れずに。

✅  3/5追記
その後の記録から、ミュッリュヤルヴィが想定している場所よりも北(北東)に存在する可能性が浮上しました。スヴィラハティまで、わずか数日で移動するには到底不可能な距離だからです。今はこのまま話を進めて、分かり次第、補足します。


凍土の上に張るテント


Komppanian majoitus etulinjalla Kollaalla, L/JR 69. Kollaa 1940.03.13

12月3日は日曜日で、祖父アルヴィの所属する第34連隊第5中隊は休暇でした。

冬戦争では段ボールテントも使用されましたが、第34連隊第5中隊では、最低限の暖をとれるテントやストーブを用いていたことが当時の写真から推察できます。おそらくは祖父たちもこのようにテントのまわりを木の枝などでカモフラージュして建てていたのではないでしょうか。

このほかにも、写真ではもっと小型のテントも確認できました。地面を浅く掘ってつくった溝や穴にテントを少し沈めるようにして立てていたのかもしれませんが、地面がすぐに凍ってしまう現地の気候では、不可能だったに違いありません。

Anu Kaarina さんのInstagramから翻訳

1939年12月下旬以降、フィンランドは記録的な寒波に見舞われ、マイナス40度を下回る時もあったそうです。当初、私はフィンランドブランドのサヴォッタにあるようなサウナテントを想像しながらアヌさんの記録を読み進めていたのですが、戦争博物館が公開しているいくつかの写真を確認していると、彼らが(おそらくは妥協して)追求した快適さと私が想像するそれが大きくかけ離れていることを実感します。

Suomalaisten joukkojen paluu Petsamoon. Leirihommia. Petsamo 1940.04.14
Savotta ホームページより HIISI 2
https://savotta.jp/wp-content/uploads/2022/02/Savotta-hiisi2-01.jpg

12月3日は、午後2時にソ連軍から何発か発砲があったことを除けば、穏やかな休日を過ごしたようです。

この日、部隊には日当が支払われました。祖父たちはそのお金で食料を手に入れました。

午後に一部の部隊が、テントをスヴィラハティの教会の村から(彼らが前日に戦って死守した)アルタフフタの端へ移動させました。そのうち、ひとつの部隊は、ポーランド人の中尉が率いる兵舎の宿泊施設に到着しました。

Anu Kaarina さんのInstagramから翻訳


戦争博物館の記録から
1939.12.3

Lapsia matkalla Tallinaan höyrylaiva Donaulla. Helsinki 1939.12.03

冬戦争が始まってまもなく、蒸気船ドナウがエストニアのタリンに向かってヘルシンキを出航しました。この船には443人のドイツ人と当時ヘルシンキにあったソビエト大使館の関係者69人が乗船したという記録が残っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?