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🇫🇮 等身大のフィンランド vol.11 アヌさんと辿る冬戦争の記録(6)

アヌ・カーリナさんの祖父アルヴィさんは、ソ連が宣戦布告なしでフィンランドを国境を越えて攻撃し、1939年11月30日に始まった「冬戦争」の時代を生きました。

等身大のフィンランド第11回は、アヌさんが追いかけたアルヴィさんの足跡を一緒に辿りたいと思います。

今回は第6話、独立記念日の1日をご紹介します。

💁🏻‍♀️ 前回(1939年12月5日)のお話はこちら



アヌさんの記録から
1939.12.6



この日、ささやかではありますが、フィンランドの22回目の独立記念日がお祝いされました。ヴァイノ・ターナー外務大臣は外交官と記者をホテル・カンッピで出迎え、フィンランド政府が国を逃れていないことを証明しました。

一方、祖父アルヴィが所属する第36歩兵連隊第5中隊には、お祝いできる余裕などありませんでした。12月に入ってからというもの、部隊はスヴィラハティとソ連軍の間に留まりながら、何度も危険な目に遭っていました。パニック状態で逃げる兵士たちにも遭遇し、かなり重苦しい雰囲気だったのです。

それでも朝は穏やかでした。偵察をしたり、各自の持ち場についたりして、部隊はいつもどおりに任務に就いていました。

朝10時、静寂を破る轟音が響きました。

最初に発砲したのはフィンランド軍でした。
このとき、いくつかの砲弾がソ連軍のテントと貨物エリアの後方を爆破したのだそうです。

夜、食事を受け取りに行くときになっても、砲撃は続けられていました。

のちに敵兵は、砲弾が大きな威力で持ち場を射抜いた、と証言し、『冬戦争の記録』の1334ページに加筆されました。

この日、フィンランド軍は敵に大きな人的被害を与え、砲撃によって勝利を取り戻しました。部隊には、靴下とタオルが支給されました。


1939年12月6日、私の曽祖母アルマと6人の子供たちが避難しました。
アルマたちが家を発ったのは、夜8時のことでした。

彼女たちが停戦中に再びこの家に戻って来たとき、裏庭には砲撃のあとが大きな穴となっていくつも残っていました。牛小屋も同様でした。

2001年、アルマは97歳でこの世を旅立ちました。

自分で編んだ靴下を履いて、一緒に棺に納められた缶には、生前、彼女が用意した故郷スイスタモの土が詰められていました。

Anu KaarinaさんのInstagramを翻訳


カレリアの歴史


1940年3月13日に、フィンランドとソ連は「モスクワ講和条約」に署名し、105日間に渡って続いた冬戦争に終止符が打たれました。

しかし、この条約でフィンランドは、「カレリア地峡」「ラドガ・カレリア」、北部サッラークーサモ地域、ルイバチ半島の西側部分とフィンランド湾の東側諸島をソ連に譲渡しなければなりませんでした。加えて、ハンコ岬も、30年間ソ連に貸与することが要求されました。フィンランドにとって、衝撃の内容だったと言われています。


中世以降、カレリアは、ロシアとスウェーデンの争いの舞台となりました。
1323年にノーテボリで結ばれた条約で、双方は東西にカレリアを分割することで合意しましたが、その後も戦争を繰り返し、その度に「カレリア地峡」と「ラドガ・カレリア」は、スウェーデンまたはロシアの領土になりました。

1809年、フィンランド戦争に終止符を打ったハミナの講和条約によって、スウェーデンはオーランド諸島と「フィンランド」をロシアに割譲しました。
このとき、ヴァンハ・スオミと呼ばれていた「カレリア地峡」「ラドガ・カレリア」も、1812年にはロシアによって「フィンランド」に統合されます。

以来、冬戦争が終わるまでの128年間、カレリア地峡とラドガ・カレリアはフィンランドの一部だったのです。

故郷を追われて
在りし日に重ねて


アヌさんの曽祖母アルマさんの故郷スイスタモは、「ラドガ・カレリア」地方にありました。ルート・ブリュックが1969年に発表した作品のモチーフにもなったので、フィンランド美術に関心が高い方には聞き覚えがある地名かもしれません。

1941年6月に継続戦争が始まるまで、フィンランドは休戦期を迎えます。おそらくアルマさんはこの時期にスイスタモの自宅に一時帰宅なさったのでしょうね。

冬戦争をきっかけに故郷を追われた人々は、馬車や電車に持てるだけの荷物を積み、はじめは小学校などに避難し、そこでは集団宿泊施設が作られていたのだそうです。中には、継続戦争が塹壕戦に変わると自宅に戻った人もいました。

1944年6月、ソ連はカレリア地峡で大攻撃を開始します。夏至を迎える頃には、ヴィープリを失い、一時的にカレリアに戻っていた人々も再び避難を余儀なくされました。1944年9月、フィンランドはモスクワで休戦条約に調印し、継続戦争が終わりました。

2001年に97歳だったアルマさんは、当時40歳。どんな気持ちで瓶に故郷の土を詰めて、それを亡くなるまでずっと大事に保管していたのでしょうね。

喧嘩は一人でできないけど、止むを得ず、武器を持たなければならない場合があることを、今、目の前の国際情勢から理解することはできます。

ただ、戦争で犠牲になる市井の人々を思うと、簡単にこの先の言葉を続けることができません。俵万智さんの歌を引用して、次回に続けます。

なんでもない会話 なんでもない笑顔
なんでもないから ふるさとが好き
              (俵万智)

 俵万智『サラダ記念日』より


戦争博物館の記録から
1939.12.6


今日もこの日に撮影された写真は見つかりませんでした。
代わりに、アルマさんの故郷スイスタモでクリスマスイブに撮影された1枚を紹介します。

Jouluaattoilta mökissä.
Suistamo. 1939.12.24
【SA-kuva-arkisto】

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