小説『ヌシと夏生』14_化け猫
原稿整理に飽きると、夏生は会社を出て電車に乗った。
夕暮れの街並みが、眼下を通り過ぎていく。
この一ヵ月、ヌシと出会ってから、いろいろなことがありすぎた。会社では結局、また美津さんに甘えている。このままのではいけないという気もするが、かといって何ができるわけでもない。
そんな不安と、あとはお地蔵さんが居座っている家に帰りたくないという気持ちと。少し、一人で考えたかった。
適当に降りた駅は、住んでいるところからそう離れてはいないが、特に何があるということもなく、これまで下車したことがない駅だった。
駅前の古い雑居ビル。再開発に遅れ、そのまま放置されたのだろう。火災なんかあったらひとたまりもないだろう。ふと看板が目についた。
「КОШКА」
英語ではなさそうだ。見慣れない文字の下に猫と、その横に酒の瓶か?ボトルの絵が描かれている。バーか何かか?
「お兄さん煙草持ってる?」
背後からの声に思わずドキッとして足を止める。妖怪だか何だかに命を狙われているというヌシの話をふと思い出した。
馬鹿々々しいとは思いつつ、少し警戒しながら振り向くと、今通り過ぎた看板の真下に一人の女の人が座っていた。小さな椅子に腰かけている。サイズが合っていないのではないか?と思えるやや大き目のワイシャツ。ストライプの柄が薄暗い明りの中で浮かんでいる。
「煙草、一本くれない?」
「すみません、持ち歩いてなくて。全く吸わないわけじゃないけどあまり吸わないんです」
「あらそう。じゃあいいわ。ところでここ私の店なの。良かったら何か飲んでいかない?ソフトドリンクご馳走するわよ」
「いや。今日はもう帰って眠りたいんで」
「まだ夕方じゃない。そんなに早く寝るの?」
「でもお酒飲みたい気分じゃないし」
「じゃあお茶でもどうぞ」
女は強引に夏生の腕をとると、扉を開けた。引きずられるまま、店に入
「本当にお構いなく。もう帰ります」
「遠慮しないの。何にする?」
やせた女が薄暗いカウンターの中に立ち微笑みかける。
「じゃあとりあえずお茶を」
店内を見渡すと壁やカウンターなど、至る所に傷が目立つ。鋭い刃物か何かでひっかいたような傷。本気でヤバイ店かもしれない。全身から噴き出した汗が背中を滝のように流れ落ちた。
目の前で、女が冷蔵庫から出した冷えたグラスに氷を入れ、お茶を注ぐ。
「どうぞ」
「いただきます」
「どうかしたの?何か怖がってるみたい」
「そんなことは……。表の看板、見慣れない文字だなって思って。なんて書いてあるの?」
「ああ、あれ?『コーシカ』ってロシア語で猫って意味よ。この店のオーナーが猫を可愛がっていて」
「ロシア人なの?」
「そういうわけじゃなくて。ただ好きなだけだと思う。猫とウォッカが」
「このカウンターとか壁の傷は?」
「さあ?わからないわ」
にっこりと笑った女の口の中に並んだ歯は小さくて鋭くとがっていた。
(つづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?