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小説『ヌシと夏生』15_化け猫

「遅かったな」

玄関を開けるとヌシが立っていた。お地蔵さまも玄関に立っている。

「何をしているんだ?」

「噂話だ。お地蔵さんと」

「噂話?」

「夏生がまた災難を持って帰ってくるぞという噂だ。ところでずいぶんと臭いな?」

「臭い?」

「ああ。獣の臭いがする」

お地蔵さんは黙ったままだが、ヌシにはお地蔵さんが何か発言しているのがわかるらしい。何かしきりに相槌を打っている。

「何かあったか?」

「別に特には……」

ポン引きじゃあないが変な店に引っ張られそうになったけど。

「行こう。案内してくれ」

「どこに?」

「君が居たところに」

「嫌だよ。仕事もしたし疲れてるんだ。どうして今じゃなくちゃいけない?」

「神だから」

「はあ?」
「助けて欲しいと願ったとき。神が『えー、もう夜遅いし。また明日ね~』と無視したら君はどうする?」

「誰も助けなんて求めていないよ」

そんな夏生の声は、無視された。

「よし。行くぞ!」ヌシは龍の刺繍の入ったスカジャンを羽織ってくるっと回った。その浮かれた姿を見ると、これを着て外に出たいだけじゃないか?としか思えない。

「ちょっと。その石の塊は置いて行け」

いそいそと玄関に立つ地蔵を見て夏生が叫んだ。石の塊が歩いたらそれこそホラーだ。

「夜だし。誰も見てないから大丈夫」

そういうと、ヌシとお地蔵さんが玄関を飛び出した。
石のくせに普通に歩く速度で進む。一体どういう構造になっているのだか。夏生には理解ができない。すれ違う人は誰も違和感を持たないらしい。お地蔵さんが動いていても誰も意に介さない。しかしさすがに電車に乗るのは気が引けたので、仕方なくタクシーを捕まえた。

重そうなお地蔵さんが車を傷つけないか心配だったが、ヌシが軽々と抱きかかえて座ったので、問題はなさそうだ。運転手はこのお地蔵さんを、若い女性でも持ち上げられるほど軽いレプリカか何かだろうと思っているのだろう。車の車体がずっしりと下がってもいぶかしげに首を傾げただけだった。助手席に座ると夏生は行き先を告げた。

木の板に猫とロシア語で彫られた手作りの看板。
ビルの中はもうほとんどの店が看板の電気を落としている。薄暗い中古めかしい飲み屋が並ぶなか、この看板は特に、重みがある。この立派な看板の下に、明らかに見劣りするごく普通の扉をヌシが開けた。カランカランと鈴の音がする。小さな店の中。五人も入ればいっぱいのカウンター、丸い椅子、壁。そしてやはり、至る所にひっかいたような激しい傷跡が見える。

「いらっしゃい」

女の声が突然響く。ぎょっとして声のする方を見ると、カウンターの下から、さっきの女性が顔を出した。

「あら、さっきの?」

「どうも」と軽く頭を下げる。

「嬉しい。また来てくれたの?あら?そちらは彼女?素敵ね。座って」

夏生とヌシは勧められるまま椅子に腰かける。お地蔵さまもその横に立った。ほかに客は誰一人いない。

「何にします?」

「じゃあ……」

夏生がかろうじて壁についている、これもさっきよりももっと切り刻まれた感がある。メニューの文字は解読すら不可能だ。
ヌシが「ウォッカ」と言った。
「え?じゃあ俺も」夏生がそういうと、女性は嬉しそうに冷蔵庫を開け、ちょっと迷うように聞いた。

「そこのお地蔵さんみたいなお兄さんは、何が良いかしら?」

「必要ない」慌てて夏生が答えた。お地蔵さんが少し揺れたが構うものか。石の塊の分まで飲み代を請求されたらかなわない。

カウンターに並んだ二つの小さなグラスは周りの水蒸気を一瞬で冷やし真っ白に曇った。

「とろっとろよ」女が、今度は冷凍庫からガラスの瓶を出して、グラスに注ぐ。無色透明のウォッカがねっとりと入ると、強い酒の香りがふわっと漂う。ヌシは嬉しそうに目を細めた。

「どうぞ」

水に氷を浮かべたグラス。そしてライ麦が入っているのか、黒っぽいパンを二切れ乗せた皿を、出す。
「出会いに!」ヌシがグラスを鼻の辺りに上げた。一気に飲み干すと、鼻の奥に甘い香りが抜けた。パンをちぎると、鼻でにおいをかいだ。夏生も真似をして、かいでみる。何だか懐かしい、臭いがした。

「うまいな。これは」

ヌシが嬉しそうに、顔を崩した。

「でしょ?」

小さな小皿に小粒の水餃子を二つ載せて「お通し」と並べた。

「これも美味いな。猫のくせに」

ヌシがつぶやくと、カウンターの中で女性も「分かっちゃった?」と笑った。

「どういうこと?」

夏生が不思議そうに尋ねる。

「猫だ」

ヌシが言うと、女性も「猫よ」という。

「猫が人間相手に店を開くというのは普通のことなのか?」

ヌシが空になったグラスをちょっと持ち上げると、女性が再び、冷凍庫からウォッカを取り出して注いだ。

「どうかしら?別に良いんじゃない?」

女性がころころと喉を鳴らすように笑った。

「どういうこと?」

話について行けずに口を挟んでみる。
ヌシが空になったグラスの底でテーブルをたたく。
女がカウンターにもう一つグラスを並べると、三つのグラスに並々とウォッカを注いだ。「お客さんが来てくれたことに。乾杯」といって一息に飲み干した。ヌシも一気に飲み干し、夏生もつられてもう一杯、一息に飲み干す。

「フー」

うまい。

「神様は三っていう数字が好きなのよ。知ってた?」

やせた女がカウンターの向こうで笑う。神様……ヌシの話か?

「……三位一体って言って、キリスト教だと神様とイエス様と精霊?だっけ?の三つが一緒なんだって。だから一体……で神様は三が好きだと」

「なるほど。勉強になります」女の話に素直にうなずく。よくわからないけどそんなものなのだろう。何だかおかしな宗教のアンテショップ的な飲み屋なのだろうか?
そんな夏生の警戒など気付こうともせず、女がまた、グラスにウォッカを注ぐ。

「つまり神様に敬意を表して三杯は飲み干さなくっちゃ!」

女が「はぅっ」と音を立てて息を吐きだして一瞬呼吸を止める。と次の瞬間にはそのまま、息を吸うようにグラスのアルコールをのどに流し込んでいる。

「で、どうして猫がわざわざ人の姿で店を開いてるんだ?」
「もともとはね……」とカウンターに肘をついて女が語り始めた

(つづく)

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