春先の駄日記

年明けからずっと体調が悪いのです。動けるときを狙って動いたりはするのですが、気を抜くと痛むし、すぐに疲れてしまって体力が全然持たない。まともな生活が送れてないです。当然生活費なんて底をつくどころか突き抜けちゃったし、社会のご迷惑にならないようにするにはもう私の存在を消すしかないな、どこぞの占い師に「このまま予知夢見続けてたら死にますね」って言われたからじゃあそれでいいんでは?って気持ちです。
こんな状態でも心配すらされない。嘘でもいいから「大丈夫?」とか言って欲しい。プログラムだから嘘みたいなものだけど、大丈夫かいって声をかけてくれるペッパー君が欲しいです。でも生活費の足しにするから速攻売るね、ごめんねペッパー!!←意味不明

そうなんです、予知夢は全然止まりません…。すごくショックなことがあって、これでもう見なくなるんじゃないかと思ってたのに全然。そのショックなことがあってから、とにかくブログの更新だけはやろうと思って、夢日記なら何とか書けるかもって自動筆記状態で記録を始めたんですけど、それらのいくつかは…。あわわ。

それまでnoteに載せてたのは、夢ながらそれなりにストーリーのあるものや笑えるものだけをピックアップして載せてたので予知夢率は実は低かったんですよ。実在の人物が出てこないものとか、出てくる場合は無意識が見ているギャグということで許してもらえそうなやつとかだったので。

それ以外の夢は、誰の話か分からないように、本当に自分のメモ書き程度に呟くくらいだったり、自分の胸の中にしまったりしてました。万が一、それが誰のことだか気付いたり、無駄に詮索する人がいたら夢に出てくる人に申し訳ないと思って。まずわかる人はいないと思うけども、なんとなくブレーキをかけてたんですよね。予知夢になる夢はどっちかというとそっちが多かったんですよ。だから私以外にはそれが予知夢だなんて誰も気が付かないわけで、私は予知夢体質なんですなんて言ったって誰も信じちゃくれないわけで。中には、私以外でもその夢の記録をチェックすれば何の話だかわかるものもあるのですが、そこまでする人はまずいないでしょう。私でも忘れることがあるものを、いちいち覚えてる他人なんかいるかい。どんだけ私のマニアなんだよ(笑)。

しかし、昔は結構見ていた自分に関する予知夢を今のところ見ていない。昔見てた予知夢のパターンからしても、自分の仕事の未来などはなかなか見られないことはわかってるんですが、他人の転機とか自分が行けもしないイベントの夢とかばっかり見てどーすんだ、と自分に呆れてはいます。
私が夢に見る誰かの未来は、基本悪いものじゃないみたいなんですよね。大好きな誰かの幸せを願うあまり夢に見ちゃってるのかもしれない。そんな小さなこといちいち見なくてもいいんじゃない?ってのも混ざってるのが何ともですけど。

この予知夢の件からも何となく想像するのですけど、私は自分のために「力」を使えないタイプなのかもしれません。占いだって自分のことを占ってもさほど当たらないし、神社で祈っても自分の願いは全然聞いてもらえない。けど、人の病気の回復を願ったり、他人を占った場合は綺麗な結果が出ることがある。予知夢だってそうだし。

自分のためには使えないから、人のために使うしかない。そうやって人に分け与えてばかりなので、自分で自分にエネルギーや運気を与えられない。人から与えてもらわないと生きていけない。与えたから与えられることもあれば、与えていないのに与えてくれることもある。どっちにしろ、ひとりでは生きていけない典型のような気がする。よく考えなくても、自分の努力が実を結んだケースってほとんどないんですよ、今までに。あまり自分で考えず、誰かに助けて貰って流されてた方がいい結果が出ることが多いような…。

私とは逆に、人から運気を吸い取って生きてるのかな、と感じる人がいたりします。自分のためにしか力を使えない人。自分のために使えるので一人でも生きていけるし、他人から吸い取れるから枯渇もしない。私から見れば正直あんまりいい人じゃないんだけど、何故か「普通」に生きていられる人ってそうなのかもしれない。
そうやって力を吸い取って体内にため込んだまま生きていけるのかどうかはよくわかんないんだけど。与えなかった分、強制的に奪われるときの落差が凄いのかもしれない。それを防ぐためにも自ら意識して与えないと怖いことになるのかもしれない。そして、自分のそんな性質にはたぶん気が付くこともないんだろうなと思うし、それが悪いものかと問われれば、そういう性質だからしょうがないって話なのかもしれない。

私が何故か「苦手」と感じる人はこのタイプなのかもしれないな。自分の中で力を循環できない私がこのタイプといると奪われるだけ奪われてしまうわけで、ぼろぼろになってしまう。しかも意識しないと与えてもくれないわけで。そんな人にも私の方は与えちゃうのかもしれない…。報われねえ~…。だから必ず誰かが与えてくれるような見えない仕組みがどこかにあるのかもしれない。何とか生きてこられたのはそれが理由だろうから。

前々から不思議なのですが、可愛い動物の写真だったりゆるいイラストだったりして、何の攻撃性もないアイコンなのに、なぜかブラックホールに吸い込まれるような感覚になるアカウントの人がいたりするんですね。たぶん悪い人じゃないんだけど、かなり間違いなくそうなんだけど、ツイートの内容もどこか「自分のことさえ良ければそれでいいのかな」的な感じがすることがあったりして、決して悪い人じゃないはずなのに、なぜかうまくいかなかったりするんです。もういちばん最初に直感でわかってしまうというか。
それが上記のタイプの人なのかもしれない。私は来るもの拒まずだし基本他人にはなついてしまいやすいアホなので仲良くしたいんだけど、心のどこかで「たぶんいい結末にはならない」って気付かされてる。その日が来るのをどこかでびくびくしながら覚悟してる。んで、ああやっぱりという結果になってがっかりしてしまうという…。私と合わないだけでその人が悪いわけではないんだと思うのだけど、何とも悲しい。最初から「何か嫌な予感がするのであなたとは付き合えません」なんて言えないし。話してみたらいい人かもしれないし。

SNSには本性が出てるなんて言うけど、攻撃的な内容とかあまり明るいとは言えない内容だけを見てそれを判断できないと思うのはこういうケースも多々あるから。本人はいいことだと思ってたり自分は間違ってないと思ってるんだけど、一見ポジティブに見える内容が実は思慮の浅さとか配慮のなさとかの塊だったりする。それを心地よいと感じる人もいるのだからそれはそれでいいけど、恐ろしいと感じてしまう人間もいる。どっちが正しいのかを簡単に言ってしまうことはできないですけれど。
本人の発言がいくらまっとうそうに見えても、本人の関心の先を辿れば、ああ…とそっと画面を閉じる場合も多々ある。それが悪いわけじゃないんだと思う、そういう人たちで仲間を作って楽しくやってるならそれでいいのかもしれない。けど、私はその中にいられないし、違和感を殺してまで仲良くもできないというだけなのだと思う。前述したように基本はアホなので誰にでもついて行っちゃいそうになるんですけどね…。

もちろんそれらは絶対ではないので、ある程度時間をかけて判断したり、特定の内容だけから判断することを避けたりしないといけないかなと思ってます。結局、誠実さなのかもしれない。自分以外の存在に対して誠実でいられるかどうか。それが誠実に見えなくても。その誠実さは、お金とか成果とかで測れるものではまったくもってないんだと思う。

自分と合う人なんて基本的にはいないという前提を頭に入れたうえで、この人は大丈夫かもしれないなって自分が判断するポイントのひとつはユーモアセンス。面白いことを言ってる人は笑いで人気を取ろうとしてるわけじゃなく、気遣いや頭の良さや周囲を見渡す余裕やその訓練ができているからそれが可能なんじゃないかと思うのです。単なる天然でそれができてる人もいるかもしれないけど、天然って言うだけあってあまりいないし、天然性と知能が共存してる場合も少なくない。
すごくいいこと言ってるはずなのに全然刺さらない。面白いことを言おうとしてるはずなのに嫌味にしか聞こえない。それはユーモアセンスが決定的に欠けてるからかもしれない。それは生まれ持ったものなのかもしれないし、ユーモアセンスを磨く機会があまりなかったからなのかもしれない。ユーモアセンスは、挫折や慟哭の中から生まれてくるものでもあると思うから。

何だかよくわからない話になってきましたが、一言でまとめると「人間って難しいな」ってところでしょうか。とりあえず私は自分の霊感なのか何なのか的なものをどうしたらいいのか困ってしまいました。今の私はよくわからない未来が見えるだけのただの粗大ゴミ。占いに使えばいいのかもしれないがこんなご時世だし占いしますよって言ってもなかなかねえ。身体も正直とても辛いので、もう目が覚めなくてもいいのになって毎日がっかりしながら起きてます。

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主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、現在は週3、4回ペースで更新中。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。


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