指先は命の半分 ―side A―

私はnoteを創作の場としても使っています。当初は丸4年近く続けているはてなブログのサブブログ的に、日記やエッセイ的な内容だけを書き記す場にするつもりだったのですが、なんとなく出来心で小説を載せてみたところ、「意外と楽しかった」ことと感想をいただけたこと(ものすごく嬉しかったです、ありがとうございます!)がきっかけで、詩のようなものや短編小説を時々書いてみるようになりました。

初めて物語を書いたのはたぶん幼稚園の頃です。あまりよく覚えていないけど、絵を描いてそれにお話をつけていたのですね。最後の一文だけ何故か覚えているのですが、
「おとこのこはおはなをおってしまいました」
と書いた記憶があります。花畑に現れた少年が花を折ってしまったとかそんなラストだったようなのですけど、何故そんな救いのない物語を書いていたのかいくら思い返しても全然わからないのですよこれが。あまり幸せな子供ではなかったので、心の苦悩が出ちゃってたのかもしれませんねえ。全然関係ないかもしれないですけど(笑)

ほんの子供の頃からそうやって、絵を描いたりお話を作ったりするのが好きでした。小学生の頃にも、自分で考えた冒険物語を大学ノートにちょっとずつ書いてた記憶があります。「何をどうしたらそんな発想になったのか」と突っ込む以外にない、いかにも子供の考えそうなお話でしたけど。

お話の種を考えては友達に話すと「よくある話だね」と必ず言ってくる子がいて、だんだん私は物語を作らなくなっていきました。頭の中には自分だけの主人公が元気に走り回っているのだけど、それを表に出す勇気が出なくなっていった。中学生の知っている物語なんておそらくそれほど数は無く、「よくある話」の定義なんて曖昧なのに、同じく中学生だった私の狭い世界で、その友達の言葉は幅を利かせてしまったのです。

ずっと離れていた「文章による創作」の世界に私がふと舞い戻ってしまったのは、この2年程度のことです。頭の中に勝手に生まれて、まるで兄弟のように育ってきた登場人物たちはずっと私のそばにいたけれど、私は彼らを自分の枠の外に出す方法がわからなかった。物語をとりあえずまとめて書ききるというのは、私にはとてもエネルギーの要ることでした。

それでも少しずつ、書けるようになっていきました。いえ、突然書きたくなるようになってきたというべきでしょうか。

エッセイを書くのも私は大好きなのですが、時々突然、自分の頭の中を覗かれているような気分になってくることがあるのです。読んでいただけるのは嬉しいし、おそらくほとんどの人が好意的に読んでくださっているはず。こんな何処の誰かもわからない人間のブログやnoteをわざわざ探して読んでくださっているのだもの。感謝しています。

けれど、残念だけどそうでない人もいる。はじめは好意的だった人と何かのきっかけですれ違い、粗探しをするためにあえて発信したものを見に来るというケースも残念ながらあります。誰かの行動や思考を観察するのが好きだという人もいます。それらはその人たちの自由なのだけれど、おそらくその多くはネガティブな行動原理によるもので、何かきっかけがあれば突然牙を剥いてくることもあるのです。

そんな感覚にふと捉われるとき、自分を主人公とし自分の視点から書くエッセイの執筆を躊躇ってしまうことがある。創作が「降ってくる」のはそんなときです。
変な言い方になってしまいますが、心の中にもやもやした感情や言えない何かが積もっていって、それが一定のゲージを超えた瞬間に、創作の種が一気に育って開花するような感覚です。それが訪れるまでは書けないのに、訪れたら書かずにはいられなくなってしまう。

ひとつの感情が、日常生活で感じた些細なことやこれまでに頭の中で遊ばせていた想像の塊を巻き込んで、詩や物語に生まれ変わっていく。「書きたい」から生まれてくるというよりは、「どうしようもなくて」生まれてくるような感覚。

たとえば、応援している人の写真をじっと見つめていたら、子供の頃からずっと頭の中にあった切ない物語の主人公の顔や名前が突然はっきりし始めて、あっという間に主人公を取り巻く人々までもが動き出したことがあります。長い作品ではないけれど、何年もひとつの文字にすらできなかった物語が、気がついたら書き上がっていたのです。
また、占い師の方に雑談の中で言われた一言がふと思い出されて、その言葉や自分がその時感じた感情をベースに物語が生まれてきたこともありました。それらは確かに自分の心と頭が作り上げたものなのに、自分ではコントロールできないような感覚です。

よく、登場人物は皆作者の分身などと言われますが、あれは確かにその通りだなと思います。自分が見聞きしたもの、抱いた感情、それらをベースに置かなければ何も書けない。ベースの通りに書くこともあるしそうでないときもあるけれど、無から想像して書くことはどうやら私にはできないらしい。読者としての目線も必ず持ったうえで書くようにはしているけれど、「創造主」として容赦ない判断を下すときはある意味自分ではないけれど、創作はエッセイ以上に「自分そのもの」のような気がしています。

本当の私はエッセイの中にはいない。私はよく「裏も表もない」と人から評されるしたぶんその通りで、note等に掲載する文章は基本的に素直に書いてます。それでも、エッセイの場合は面白く感じてもらえるように「道化を演じている」場合もないわけじゃない。
しかし、創作の中には「本当の私」がどうしようもなく見つかったりする。私には簡単に見つかってしまうのだけど、「私」ではない「誰か」が登場人物なので、他人にはおそらく一見してそれはわからない。おまけに創作は好き嫌いがあるため読まない人は読まない。普段エッセイを読みたいと思ってくださってる方は特に読まないと思われる。創作はエッセイより読んだ時のエネルギー消費が激しいので、私もよっぽど文体が好きだとか本人が好きだとか「ピンときた」等の理由がなければわざわざ読まないと思うのでそれはよくわかる。
だから、「どうしようもないとき」は創作に逃げ込んでしまうようになったのかもしれません。

文章を書くことは好きだけど、文章にも色々あって、私はこんな風にある意味「自由」でなければそもそも書けない人間だったようです。ライターとして生活のために書く文章もパズルみたいで面白いと思っていたけれど、だんだん息が詰まるようになってきてしまった。それではいけないと思うのに、どうしても意識が向かない。
私は「私」と切り離しては何も書けない、何も作り出せない。そんな人間だったようです。言葉で何かを生み出すのがとても好きだけれど、それをしていないとたぶん息もできなくなるけれど、あまりにも気まぐれで、生活に直結させるのには失敗してしまった。
気まぐれすぎるのはわかっていたので、とにかく「安定」を求めて仕事をして、「何かを創ること」は趣味でいいと思っていたけれど、どうしてもどうしても「安定」からははじき出されてきてしまう。だからいっそ、自分には向いていないと思っていた「創る側」として生きようと思ったけど、私は自分が何を武器として持っているのかよくわからなくなっている。

わからないけれど、やっぱりこれをせずにはいられない。

小学校入学からずっといじめられていた私を救ってくれた、高学年の時に担任だった先生が、卒業式で私にこう言いました。
「あんたはよく勉強して、将来本を書きなさい」
私はその約束をいつか果たすために、誰に届くかもわからないまま、今日も言葉を綴っています。
書くことは戸惑い。書くことは苦しみ。けれどとても楽しい。何より私は、それがなくては生きてはいけないのです。たぶん。

--------------------------------------------------------------------------------
主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、現在は週5、6回ペースで更新中。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。

気に入っていただけたなら、それだけで嬉しいです!