【小説】『これはなんだろうか』2
コーヒーのカップを捨てて、席に戻る途中、ひとつ上の先輩であるタイシに声をかけられた。
「あれ、もう終わった?」
「……まだです」
あれとは、まちがいなく朝からやっているマクロのバグ問題だ。コーヒーなんかのんびり飲んでいるから、そう思ったのに違いない。
早速お小言を言われたと、サキは内心肩をすくめる。
「大変だよな、ああいうの。まあ、できなかったら、別のやつに回しちゃえばいいから、深刻に考えないで」
「え?」
カラカラと気楽そうに笑うタイシを、サキは胃の底が冷たくなるような思いで見た。
自分の代わりはいくらでもいる、ってことかな。
そりゃ、そうか。
と、どこかですんなり思い、でもそんな仕事なら、最初からサキに回すなよとも思う。できる人が取り組んで、さっさと終わらせた方が効率がいいのに。
ひとつ上のタイシは、プロジェクトの立ち上げも、リーダーも任されることがある。今をときめく出世するタイプの人間だ。
一方サキは、プロジェクトの立ち上げも、リーダーも、サブすらも経験がない。せいぜい資料を整えるとかで末席を汚すくらいだ。
わざわざリーダーをやりたいと思わないから、どうでもいいと思いつつ、これはいわゆるガラスの天井というやつか、ジェンダー格差というやつかとふと思ったりもする。
私はずっとこういう仕事をして人生を終えるんだろうかという、モヤモヤした不安と、寂しさ。
エナの結婚や出産を、一大イベントとして求める気持ちと似ているのかなと、変なところで共感できたようで、嬉しくなった。
ひとつ上なだけなのに、随分格が違ってしまう自分とタイシ。タイシに軽く頭を下げ、サキは自分の席にそそくさと戻る。
自分の無能さを、自分で証明することほどつまらないこともない。
エナと違って、サキは結婚も出産も興味がない。だったら仕事しかないのだ。
なんとしてでも、このバグをすっきり解消してみせる。サキは自分の頬をぺちっと叩く。
パソコンの画面に張り付き、そのあとは昼ごはんも忘れて、サキはバグ解消の作業に没頭した。
午後二時をまわったころ、ふと閃いたことがきっかけで、バグはあっさりと解消し、マクロがきちんと動くようになった。
肩も腰も目も疲労でがちがち、ぎんぎんだが、達成できた喜びと開放感で、サキは立ち上がってうんと背伸びをした。
その途端、ぐおおおお、くうううんと勢いのいい音でお腹が鳴った。
静かなオフィスに響き渡る、サキの空腹音。
周りの人達は、何とか笑いをこらえようと肩を震わせて我慢してくれているが、結局は笑われている。
サキは顔が燃えるかと思うほどの恥ずかしさで、うずくまって小さくなった。
もう、なにやってるのよう。
くうううん、ぎゅおおおお。
まだまだお腹のラッパは、鳴り止まない。
「……コーヒー行ってきまーす」
蚊の鳴くような声で呟いて、サキはその場から逃げ出した。
コーヒーメーカーの前には、タイシとその同期のリョウタがアイスコーヒー片手に笑いながら喋っていた。
リョウタもまたプロジェクトリーダーを担当することもある、若手の出世頭だ。
「おつかれ。アイスにする? ホットにする?」
タイシは気やすく、サキにコーヒーを聞いてきた。
「あの、じゃあ、アイスでお願いします」
サキはお腹が再び鳴りませんようにと祈りながら、片手でお腹を押さえて静かに言った。
「中垣さん、あのバグ終わったの?」
「ええ、まあ、はい」
早くコーヒーでもなんでもいいからお腹に入れないと、またお腹が素敵なラッパを吹きそうだ。
「すごいね! 今の時間までかかって?」
「ええ、はい、まあ」
今日二回目のコーヒーは完成にいやに時間がかかる。じりじりとコーヒーメーカーの仕事を待つ。
「休憩はちゃんととらないと。お腹すいてるんじゃないの?」
「はい」と、やっと完成したアイスコーヒーのカップを差し出してタイシが言う。
「はい、まあ。ええと、ありがとう、存じます」
速くコーヒーが飲みたい。お腹が鳴る前に!
焦りすぎて、言葉遣いが最近読んだファンタジー小説の侍みたいだ。
タイシから受け取ったアイスコーヒーに、サキは勢いよくかぶりつき、ストローで啜り上げる。
の、瞬間。
お腹が空腹のためにラッパを吹くことはなかったが、乾いた喉や胃に急に冷たい飲みものが流れ込み、くーるくるくるくる、きゅううう、ぽけっ、と盛大に音が鳴った。
タイシもリョウタも、戸惑ったのは一瞬で、弾けるようにして笑い出した。
「中垣さんって、面白いね。腹芸ならぬ、喉芸?」
「コーヒーで、そんな笑い取れる人いないわ。なんでそんなに焦って飲んじゃうの」
「ちょっと待ってて」
ああ、まじうけるわ、と涙を流して笑い、目尻を拭ってタイシが自分の席に向かって行く。
リョウタと残されたサキは、消え入りたいような気持ちでいっぱいだ。
コーヒーなんか、ここで飲まなきゃ良かった。
つくづく今日はついてない。
「くるくるーって鳴るのは、まあ、あるけど、最後のぽけっ、って何? どうやって鳴らしたの?」
「……さあ。というか、あの、分かりません」
サキだって知りたい。
なんだ、今の音は。どうやって鳴らしたんだ、私の体よ。
タイシがまだ笑いが収まらぬ様子でにやにやしながら戻ってきて、菓子パンをサキに差し出した。
「はい。腹も減ってるんじゃない?」
「は、あの、これは」
「あの厄介なバグ、ここの所みんなでぐるぐる押し付けあってたんだよね。中垣さんが解決してくれて、本当に助かった」
「え?」
「これは、簡単なお礼と報酬」
人好きのする笑みを浮かべて、タイシは笑った。
「ありがとう。おつかれさん」
タイシはサキが菓子パンを受け取るのを見ると、ぽんぽんとサキの頭を撫でた。リョウタに「それでさ、さっきの話なんだけど……」と言い、2人してサキに背を向ける。
渡された菓子パンは、大手コンビニのあんぱんだった。
ぽんぽんされた頭がぽかぽか熱いようなのは、なぜだろうか。
ぽんぽんされていない頬が熱いようなのは、なぜだろうか。
アイスコーヒーと、かぶりついたあんぱんが、特別な味がするようなのは、なぜだろうか。
ふむ。これは、なんだろう。
なんだろうか。
【今日の英作文】
「絵を描くのが好きです。特に手を描くのが。」
"I love to drawing puctures, especially of hands.''
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