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売れたい。描き続けていれば、きっと。ー雑事記⑪ー

先日、出身高校の美術科が30周年記念ということで、在校生の卒業制作展と同時に、過去の卒業生による特別展が地元美術館で行われた。

縁あって、お声かけいただき私も出品することになったのだが、搬入の日、集まった人々は知らない先輩・後輩ばかりで、同級生が1人だけ出品していたものの、郵送での搬入だったため姿を見ることは叶わなかった。
在校生たちは元気そのもの。油絵具だらけの制服ズボンをはいた男の子が、配られた通行証がわりのシールを胸でなく眼鏡に貼って先生の前を通り過ぎ、先生は先生で「おい、ふざけるな」と叱ることなく「おい、それ(シール)落とすなよ」。
美術科の雰囲気は20年前の、あの頃のままだった。

エネルギッシュな在校生の展示と違い、卒業生(美術科教員も含む)の展示は当然ながら成熟した空気が流れていた。私は現在油彩をやめて漫画とイラストに主軸を置いているため活動範囲が異なるのと、地元名古屋の作家より岐阜の作家さんと交流が深いのでどのお名前も失礼ながら思い当たらなかったが、他の出品者は
「うわ!この人めっちゃ有名な人じゃん!!」
「えーこの作家さんもウチの美術科だったんだ~!」
などと、中々の盛り上がりをみせていた。
私のことも、かろうじて
「ん?この猫の漫画どこかで見たことある」
と、立ち止まってくれる人がいてちょっと救われた。

制作をしている人が必ずしも全員「売れたい」と考えているわけではない。「そんなことを考える輩は芸術家ではなく俗物」と思う人もいるだろう。けれど、趣味ではなく仕事として、または生きる目的として絵を描いている人間にとって「売れたい」という気持ちはものすごく切実で、切っても切り離せるものではない。それは作品が金銭に変わる、という意味だけでなく、
「有名になりたい」
「認められたい」
「評価されたい」
「自分が素晴らしいと思い表現しているものが、他の誰かにとっても素晴らしいものとして映ったら幸せ」
という、さまざまな意味合いにおいての「売れたい」である。

いみじくもそれを肯定するかのように、搬出の時に美術科の某先生(私も当時お世話になった)が他の卒業生と立ち話をしていて、
「いいなあ~○○(その卒業生の名)は売れてて。おれも売れたい」
とつぶやいていた。

先生の絵が実際、売れているのか否かは知らないが(この展示では誰も実際販売はしていないので、あくまで芸能人とかが使うような「売れたい」に近い意味で)、先生が長く作品制作を続けていることは知っている。
それが惰性で続けているのではなく、何かを求めてすこしずつ表現が繊細に変化している過程も、個展へたびたびお邪魔するのでわかっているつもりである。

描き続けていれば、きっと。


いつかそんな日が来ることを夢見て、今日も紙やキャンバスに向かっている無名の「売れてない」作家たちがあちこちにいる悲哀も、私は美術の魅力だと思ってしまう。


そしてもちろん、私もいつか、売れたい。





今週もお読みいただきありがとうございました。制作をしている人のこういう話はタブーとか苦手と思われる向きもありますが、そんな話も明かしてしまうのが、宇佐江noteとご理解いただけますと幸いです。

◆次回予告◆
『美大時代の日記帳』⑳

それではまた、次の月曜に。


*本文に出てきた展示で私が出したのがこちら↓


*作家の華々しさでなく、今回のようなダークサイドを知りたい方はこちら↓


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