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(短編エッセイ)テレビに出るまでの1ヶ月/嗚呼、寺山修司。

表題イラスト/©宇佐江みつこ

テレビに出るまでの1ヶ月

昨年、テレビに出る機会があった。

依頼をいただいたのが収録日のちょうど1ヶ月前。驚きと喜びで、実家の母と同期のAさん(いつも仕事の相談をする)に思わず電話した。翌朝出勤する時も、まだ心臓がどきどきしていた。
収録楽しみだなあ~。どんな感じなのかなあ~。
って、最初は浮かれていたのだが。

テレビ?

ふと我に返る。この自堕落な姿で私、テレビなんか出て大丈夫か?
いつも出勤までの余り時間でテキトーにする化粧。体重も自己ワーストを記録中。新しい服だって随分買っていない。え、ていうか、何着ていけばいいのだテレビって?
ひとつ焦ると次から次へと心配が溢れだした。

まずは食事制限と運動を始めた。
こんな短期間で、仮に瘦せたとてイコール綺麗になるわけでもないのは分かっている。しかし、せめて自分の持てるポテンシャルを最大限発揮させ見栄えを良くしたいといういじましさ、否、女心が私にもあるのだ。
ああ。
仕事帰りのデパ地下で、手羽先が、味噌串カツが、私を呼んでいる。しかし必死に振り切って、焼き茄子と油分を削ぎ落した豚の冷しゃぶを自炊し食べる。眠気をこらえて筋トレやストレッチをし、脚と二の腕をマッサージしてから寝るようにした。

メイクも毎朝練習と思いきちんとした。クッションファンデなるものも、初めて購入してみた。
こういうとき、今までだったら「とりあえずデパコス買えばなんとかなる!」と安直に走ったろうが、YouTubeで拝見できるプロのメイクアップアーティストさんたちが教えてくれるとおり丁寧にやれば、手持ちの道具や安価なドラコスだってじゅうぶん出来栄えに差が出るものだ。そしてメイク以上に、食事に配慮していると肌が自然と明るく、キメも整ってくる。

毎日色んなことに気をつけながら送る生活は、正直めんどくさい。

けれど楽しい。
「めんど楽しい」。そんな感じ。
いちばんの問題だった服も、結局当日着ていくもの、下着から靴に至るまで上から下までぜんぶ買った。大出費!ひーがんばって働こう……!

テレビに出るまでの準備は、かような外見問題のみならず打ち合わせ等々、慣れない素人ゆえ想像以上に大変で、東京へ発つ前夜は実は追い込まれて泣きそうだった。
しかし後日、
「ぜんぜん緊張していなかったね」
と放送を観た知人全員から言われて、どうやらなんとかこなしたらしい。あの1ヶ月間の悪あがきが、画面から透けてみえてなくて良かった~と、ほっとしたのだった。


嗚呼、寺山修司。

寺山修司。

という名を聞いて、無条件に胸が「きゅん」としてしまう人が世の中には一定数存在する。と勝手に思っている。
少なくとも、私はそうだ。

ものすごいファン、というわけではなく、ぜんぜん詳しくもない。寺山修司について私が知っているのは、世代がこれだけ離れていても名を知っているという圧倒的な偉人感と、たった1冊の本だけ。その名も、『寺山修司少女詩集』(角川文庫)である。
この本を買ったのはたしか大学時代。すでに「少女」と名乗るにはビミョーな年齢(20歳前後)だったけれど、寺山修司の紡ぎ出す詩の世界には、当時の自分がまだかろうじて持っていて、このまま成人しても持ち続けたいと願っていた壊れやすい、大切なものがたくさん詰まっていた。まるで、クッキー缶のなかのクッキーのように。

おとなになって以降、何度かの引っ越しの際スペースの問題で、泣く泣く本を処分したこともあったが、この1冊だけは必ずコレクションとして持ち続けた。めったに開くことはないけれど、自分にとって御守りのような特別な本。
ある日の仕事帰り。
職場の後輩とおしゃべりしていて、ふとした流れで寺山修司の話題になり、『寺山修司少女詩集』の話をした。すると後輩が、

「私もその本持ってます!」

と興奮気味に答えるではないか。彼女もまた、寺山修司と聞いてきゅん、な人種に違いない。
そう約束したわけでもないのだが翌日、ふたりともお互いの本を持って出勤した。出版された時期が異なり、私の表紙は林静一さんのイラストで彼女のは実写の女の子が映る表紙だったけれど、まぎれもなく同じ本。
私は金沢の美大で、4つ下の彼女は京都の美大で、同じ年頃に同じ1冊を胸に抱き感受性を爆発させていたなんて。

ついでに、美術館勤務の同僚ならもう一人ぐらい仲間がいそうだと、「あの人は、恐らく」と目星をつけた人に
「とつぜんですが、寺山修司はお好きですか?」
と尋ねると、
「私は青森の記念館にも行きましたし、恐山おそれざんにも行きました。」と予想を遥かに超える回答が返ってきた。

この詩集でいちばん好きな「時には母のない子のように」の1編、「ダイヤモンド」のなかに、淋しいという字についての美しい詩がある。
この詩を読んで以来、私はさびしいという字には「淋しい」という漢字を必ずあてている。常用漢字じゃないので、校正でたいてい「寂しい」や平仮名に変えられてしまうのだけれど。

いつかどこかで、私の書いた「淋しい」を見て、
「この漢字を見ると、寺山修司を思い出しますね」
と言ってくれる人に出会ったら、私、恋に落ちてしまうかもしれない。





今週もお読みいただきありがとうございました。寺山修司同様に、「尾崎豊」や「山田かまち」の名も、私のなかできゅんとしてしまう存在です。同時代を生きてみたかったと思う反面、その人となりやスキャンダルに左右されずに純粋に、遺された作品世界だけを味わえるのは得だったのかも…と今では思います。

あなたにも、大切にしている特別な1冊はありますか?

◆次回予告◆
『ArtとTalk㉗』最近行った美術館の話。

それではまた、次の月曜に。


*宇佐江みつこエッセイ集、その他のお話はこちら↓









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