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元葬儀屋勤務の娘、父の葬儀を手配する。

「この仕事に就くことを親御さんはなんとおっしゃってますか?」

就活のとき、重役面接でそう尋ねられて驚いた。世間ではこの仕事への偏見が未だにある―と実際に働く人たちが認識しているということに。

その会社は葬儀社で、内定を得た私はのちにそこの社員になった。

縁もゆかりもアートもない葬儀業界を私が選んだ理由は、一言でいえば非日常を仕事にしたかったこと。そして、日本人特有のごたまぜな宗教観や冠婚葬祭に対して昔から漠然と興味があったから。
在職期間はわずか4年半、けれど濃密な4年半だった。

退職して約10年。

当時の常務が尋ねた「葬儀屋で娘が働くこと」に対して「ふーん」とすんなり受け止めてくれた私の尊敬する父が、亡くなった。

病室で、母はひとしきりの涙のあとに言った。
「さ、ここからは任せたよ。」
「わかった」
携帯にまだ残っていた本社の番号を呼び出し、私は昔、自分が何度もその耳できいたセリフを初めて口から放った。

「すみません、今、父が亡くなったんですが」





【お読みになる前に】
この記事は、元葬儀会社勤務だった私が父の死をきっかけに、約10年ぶりにかつての職場を訪れ、お手伝いする側だった葬儀を「行う側」になった経験を文章にしたものです。誰でもいつかは経験することなのに、なかなか知る機会のない葬儀の話をなるべく重くない内容でまとめました。

葬儀文化には地域差がかなりありますので、あくまで一例としてお読みください。また、故人様に対する具体的な表現は極力避けておりますが、気になる部分は各自のご判断で読み飛ばしていただけたら幸いです。


①亡くなった直後の話

電話に出た相手は偶然、昔同じエリアで働いていた人だった。向こうは覚えていないだろうと思いつつ、データを呼び出せば一発でバレるので先に「以前勤めていた者です」と名乗った。

病院で亡くなった場合、通常は簡単な処置を看護師さんにしてもらったあと自宅か斎場(※斎場…火葬場のことをさす場合もあるが今回の記事では葬儀会館のこと)に故人様を移さねばならない。肉親の葬儀のことは前もってあまり考えたくないものだが、いざ亡くなったら即どこかの葬儀社に依頼しなければならないのだから、ある程度は目星をつけておかないと遺族じぶんが困る。

葬儀社が手配したお迎えの車(寝台車という)が来るまでの間、病院から死亡診断書が渡された。いきなり「何通いりますか?」と訊かれて「へ?」となると思うが、後々保険や各種手続きで必要になるので2~3通もらって置くと良い。
そして大事なことがある。
母と弟が一時退出しているあいだ、父が眠る隣で私は携帯をいじり区役所の受付時間を調べた。葬儀日までに遺族が揃えなければならないもっとも重要な書類、「火葬許可書」をゲットする段取りだ。感傷に浸る暇もなくテキパキと行動する娘を見て父は淋しいかもしれないが、それ以上に頼もしく思ってくれていると願いたい。

お迎えの寝台車に母が乗り、自宅前を通り過ぎて斎場に向かった。最後まで、父がいちばんお世話になった看護師Yさんがずっとそばで見送ってくれたことは感謝してもしきれない。

②葬儀日程の話

斎場に着くと、昔の先輩が駆けつけてくれていた。見知った顔とこんなに早く会えることにも驚いたが、渡された名刺の肩書がかなり上席だったのにも驚いた。やはり10年である。
「名前見て驚いたよ、ちょうど昨日、○○さん(私の本名)家の近くを通った時、『ああ、この辺だったなあ』って思い出したとこだったんだよ」
入社当時、本社から現地斎場へ通った時期に何度もこの先輩のハイエースに乗せてもらった記憶が蘇る。
そして、知った仲だからこそ話も早い。その場で先輩と相談し、火葬場の予約を取った。

葬式というと「通夜・葬儀の日時」をまず決めなければとたいていの人は考えるが、実はそれより先に一刻も早く抑えるべきは火葬場の予約である。
近年、葬儀件数の増加と共に火葬場の予約が取れないせいで葬儀日が遅れてしまうケースが多く(火葬日に行うのが葬儀式であり、その前夜が通夜式というスケジュールになる。)実際、この時の私たちも「明日~明後日で通夜・葬儀」を希望していたのだが、火葬場の空きが全然なく、なんと3日後に通夜で4日後の葬儀となってしまった。業界でいう「べ」(日延ひのべの2乗)である。
けれど、あとで振り返ると亡くなるタイミングが急だったぶん、父とゆっくり5日間も過ごせたのは家族にとってむしろ良かった。
日延べも決して悪くないと、当事者になり初めて知った私である。

そのまま祭壇セットの打ち合わせを営業者と一気に行い(この人も知ってる元上司だったので話が早かった)、クタクタになりつつ私も母も弟も、朝から何も食べていないので猛烈に空腹で、この日は父を斎場に残し(ごめん父、)中華料理屋でおなかがはちきれそうになるほど食べまくった。
残された家族にちゃんと食べる元気があることは、父も安堵していると思う。

③湯灌の話

翌朝。会場で流すスライドショー用の写真を明け方まで選んでいたため寝不足だったが、なんとか「よいしょ」と起き上がる。
家族そろって斎場に行き、父の湯灌ゆかんを見守った。

湯灌とは、棺に納める前に故人様の体を洗い清める儀式である。映画『おくりびと』が話題になった当時、私が職業を名乗ると
「ああ、おくりびとですね!」
とよく言われたものだが、正確には映画で描かれていたのは納棺師であり、私の行っていた業務とは異なる。

葬儀屋時代の私の主な仕事は、病院や自宅への故人様のお迎え、通夜~葬儀の式進行、寺院との打ち合わせ、お供え物の手配、骨安置こつあんち(葬儀、初七日を終えたあと自宅でお骨を安置する仮祭壇を作る)などだった。簡略化した納棺なら経験はあるが、湯灌はできない。

たいせつな故人様のお体に直に触れる湯灌は、遺族の要望や状況に応じたメイクなども施さなければならないプロフェッショナルな仕事である。そのぶん、相応の値段はするのだが「処置なら病院でしてもらったから、いいです」という理由で断るのはもったいないくらい、貴重な機会と私個人は思っている。病院の簡易的な処置と違い、ふだんの好みの恰好やヘアスタイルを担当者が再現してくれたり、最近ではアロマのサービスまで選べるそうだ(父はそういうのが苦手なので辞退したけれど)。
それに、何かと慌ただしい葬儀準備を一時中断し、親しい者だけで扉を閉めて故人様の旅支度を見守る湯灌の儀は、遺族にとっても安らぎの時間だ。

実を言うと、私が葬儀の仕事に興味を持ったのも、中学生のときに立ち会った祖父の湯灌だった。その時の担当者の立ち居振る舞いは、凛としてとても美しかった。結果的には、湯灌部ではなく私は他部署になったのだけれど。


体がつらくて最後の方はなかなか湯舟に入れなかった父も、久しぶりにあたたかいお湯に触れて気持ちが良さそうにみえた。


➃お寺さんの話

付き合いのあるお寺(神式の場合は神社)がない、という家も最近は多いと思う。葬儀会社に頼めば紹介もしてくれると思うが、うちはたまたま、祖父母の代からお世話になっているお寺があり、電話をするとすぐに引き受けてもらえた。

枕経のために斎場へ来た馴染みの住職は、副住職を連れていた。なんと私よりも若い30代前半の女性。このお寺は尼寺で、住職は想像しやすいイメージで言うと瀬戸内寂聴さんみたいにハキハキした闊達な人だ。とても80代半ばとは思えない。
この日も、法事で家に来る時とまったく同じ調子でニコニコと現れ、「あらあ」と、父の顔を覗き込んだ。父の病気が大腸だったと言うと、「通夜の時に、お芋を持ってこようかしらね」と冗談を言って場を和ませてくれた上、枕飾り(通夜葬儀までのあいだ故人様の枕元に用意しているお参りセット)の前に座り、スタンバイしてからも延々続く世間話。
「おしゃべりやめて、そろそろお経読まないとね」と自身で笑いつつ尚も続く師匠のトークに、斜め後ろで正座していた副住職がもぞもぞしだす。
「あの……すみません、……お手洗いに……。」
一堂、大笑い。
こんな明るい枕経を、呆れつつ父も笑っているはず。

通夜の日に、住職は本当にさつまいもを持参して現れた。斎場の職員さんの手で有難く祭壇にお供えさせてもらう。通夜のおつとめは50分近くもありとても長かったが、聴き慣れた住職の声と、透き通るような副住職の声が重なり合うお経に耳を傾けているあいだだけは、私も葬儀の段取りを忘れて無心になれた。
お経のあとの住職の法話も感動的だった。

「心配しなくても、みんな誰でも、ちゃんと死ねます。死なない人はいませんから。だから生きてるうちは精一杯。いいかげんに生きて極楽に行こうなんて、とんでもないですからね。」

病室で父が亡くなる直前、
あきらかにもうこのまま眠ってしまいそうな父を眠らせまいと呼びかけながら、私の頭のなかの冷静な一部分が、しっかりと私自身に告げたことがある。

何もできなくなるまえに、生きているうちに、やるべきことを私はやらねばならない。

そんなことを、死にゆく親を前にして非情なと自分でも後ろめたかった私の心がこの法話で救われた。


⑤やっぱり葬儀は難しい。

日時の決定、祭壇の打ち合わせ、死亡届と火葬許可書(亡くなった翌日に区役所へ取りに行った)、寺院手配、花の手配、湯灌、枕経、通夜、火葬場で食べる弁当と引物(初七日まで付き合ってくれた親族に渡す品)の手配―。
自分で言うのもなんだが、昔取った杵柄を最大限に発揮してここまでほぼ完璧に葬儀が進んでいた。逆に言えば、現場でサポートしてくださった斎場スタッフ(昔の私とは面識がない)がやりづらくなかったかな~と反省するほど、万事において前のめりで決めていった。

それにしても、当事者になってあらためて思うがこれを知識ゼロからやるってマジでしんどい、というか絶対無理だろう…。
「(私が)いてくれて良かったわ」と滅多にされない感謝を弟からこの5日間、何度言われたことか。

あとは葬儀式と出棺を無事終えて、火葬場へ行って戻って、残るは初七日と骨安置。
いや、その前に今日の親族挨拶がある。

葬儀式のあと、喪主である母に代わって世話人役の私が遺族代表の挨拶をすることになっていた。通夜でも簡単に挨拶したが、葬儀の挨拶はやや具体的な父のエピソードか、私の気持ちをちょっとだけ添えて、そのあと出棺前に棺をあけて父を囲む「お別れの時間」へと繋げよう。
葬儀屋時代、司会なら少なくとも400回はこなしている私にとっては挨拶なんて余裕のよっちゃん、原稿も用意せず頭のなかだけで話す内容を考えながら、スタッフさんが示してくれた位置に立ち、参列者を向いた。
「父は、」


―父は、病気で苦しみましたが、最後は家族に見守られ、私は岐阜から、弟は関東から駆けつけたのに、父はがんばって全員が揃うまで待っていてくれました。

それか、少し笑える話。

―亡くなる直前、今思うと私たちも少し冷静じゃなくなっていて、父の様子がずっと変わらないので三人揃ったあと、ごはんを食べに外に出ようとして看護師さんに慌てて「今は病室にいらした方がいいですよ」と止められて、その直後、父の様子が急変しそのまま亡くなりました。まるで「おい!待て待て今、めし行くな!」と、しっかり者の父がマイペースな私たちを引き留めてくれたかのようでした。


言いたいことは、頭にあった。

けれど、私の口からは、なぜか声が出なかった。昔はご遺族から聞き取ったエピソードをまとめて、毎回ナレーションまでつけていた私なのに。
「父は」
いちばん肝心な、自分の父のための言葉が、震えるばかりで出てこない。

「父は」
「とても、自分に厳しい人でした」
「体がつらくても、たくさん我慢をしていたとおもいます。立派な、父でした」


ああ、自己採点10点。

しかし母はのちに言った。
「珍しく言葉に詰まってたね。でも、あれくらいでちょうどいいの」


私の父への最後の親孝行はこうして終わった。
すべてを終えて家族4人、愛猫・キキの待つ自宅へと帰った。



(記事のトップ画像は、宇佐江が葬儀会社にいた当時に描いた創作祭壇アイデア図です。)




今週もお読みいただきありがとうございました。今回、内容とは直接関係ないので省きましたが斎場で過ごした5日間、昔お世話になった上司や同期が代わる代わる来てくれて、ほんとうにありがたいなあと思いました。勤めていた当時は忙しかったという記憶が強いのですが、思い出話では、暇な時間に隣の公園へ行って館長とカブトムシつかまえて事務所で飼っていたことや、20代前半の小娘だった私が上司との喧嘩でティッシュ箱投げつけたり(おいおい)したことなども飛び出して。葬儀会社で働く人間も、当たり前ですが、ごくふつうの人々です。
けれどあらためて、本当に大変な仕事だと思いました。

最後に、私が葬儀会社に勤めていたのはだいぶ昔なので、今回ご紹介した知識も現在とは異なる可能性があります。また、冒頭でも述べましたが葬儀には地域差がありますし、宗教の違いもあります。葬儀会社によってサービスもさまざまです。
記事をお読みになった方から、葬儀に関することで私にいまご質問が来ても、無責任に答えることはできないので控えさせていただきますことをどうかご了承くださいませ。

◆次回予告◆
『接客業のまみこ』㉛㉜

それではまた、次の月曜に。


*宇佐江みつこの経験集。その他のお話はこちら↓







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