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祖父の命日


2022年4月から、1年たった。
この時間で、祖父のことを思い出すこと多かったか、、な、、どうかな、
亡くなる前も、祖父のことはわりと思っていたようにも思う。

海外旅行やスノーボードとか少し危険(わたしが身体的に緊張するイベント)な気がしている予定があると、必ず夢に出てきてくれる祖母、
祖母は18年前に亡くなったのだけど、その祖母をすごく愛していた祖父だった。

家族思い、でも自己中でマイペース。
人懐っこくて、どこに行ってもお友達を作ってくるひとだった。
娘たちを愛していて、結婚していない次女(わたしの叔母)のことをずっと心配して、何が残せるかずっと考えていて、結婚の早かった長女が、それをみて不公平だとヘソをまげるほど。そのヘソ曲げてる人がわたしの母。

家で時間があれば囲碁をしている、畳であぐらをかき、囲碁台を抱くように座り、打つ相手がいないから教本を片手に練習している。
先に亡くなった祖母の役割も担っていたから、おばぁさんみたいなおじいさんになって、あの方にお歳暮を、あの人にお中元を云々といつも気にしていた、これゆえ何十枚も宅配便の送り状を叔母は夏と冬に書いていた。
夏はずっと甲子園、
夜は毎日お酒を1合、
筆のような泡だてブラシで泡を作って髭を剃る、
背広で出かける時のカフスボタン、
外出先に持っていくのはポケットティッシュじゃなくてチリガミ(まさかこれで鼻を噛むのか?と目を見張るほど硬いキッチンペーパーのようなもの)、
そしてパンツでなくてふんどし。

こう思い出すと、祖母のことも思い出す。
一番に思い出すのは、目が合うと恥ずかしそうにはにかむ笑顔、手を振るときは振るというより手のひらと指でパクパクとしていた。
1番小さな頃の思い出は、旅行から帰ってくる叔母を迎えに、祖母とリムジンバスに乗って、空港に行った時のこと。
幼稚園生のわたしと祖母2人でバスの発車を車内で待っていた、しばらく時間があると分かった祖母は飲み物を買ってくるわ、ここにいてね、じっとしていてね、荷物はおいていくわと、私を座席に残し走って車外まで行ってしまった。残されたわたしは心細く、祖母が戻る前にバスのドアが閉まってしまってしまわないかと気が気でなく、窓に張り付き、祖母の帰りを待った。
あんなにドキドキしたことはなかった、このままバスが発車してしまったらどうしよう、荷物を置いていった祖母はどうなるのだろう、1人になるわたしは一体どこに行くのだろう、知らない人と話をしてはいけないと言われているから、周りの大人はみんな敵⁈のような気持ち、誰に頼ることもできないし、話しかけられても困る、どうしよう、、、
もちろん祖母は戻ってきた、バスの発車にも間に合った、ハニカミ笑顔で手をパクパクしながら走ってきた。
走っている祖母を見たのも初めてだった。
もうどうして置いていったのか、聞いたり泣いたりしたんだろうと思うけどその後のことはよく覚えていない、笑顔でクノイチのように素早く走っていった姿だけ、、覚えている、ずいぶんと元気だったね。

元気な頃の祖母は、家ではいつもお台所にいた。今年は水餅にしたのよとツボからお餅を出したり、ご近所の豆腐屋さんへ豆腐と油揚げを買いに行き、夕方にはかつお節を削る。
かつお節削りは格好が良かった、鉋(カンナ)に小さな引き出しがついた、かつお節削りで、シャーックシャーックと木のように硬いかつおを削る。やらせて欲しいとお願いすると、指を削ることのないように、1、2回すったら、はい、おしまい。
誰かが咳をしたりお腹の調子をくずすと漢方薬を煎じる。
こうして思い出せるのは、台所から出てくる姿ばかりなのに、祖母の料理の味をあまり覚えていないのがさみしい。
晩年、関節リウマチになったことをきっかけにだんだんと体調を崩していった祖母。
私が大学生になりその頃からは数年に渡り入院していた、大人になってから祖母のご飯を食べる機会が少なかったのだった。

よく1人でも顔を見に、病気へお見舞いに行っていた。ある日、恋人とだったかけんかして悲しい気持ちだった私は、会いに行った祖母がちょうど眠っていて、なんだかそれも寂しくて、寝顔を見ながら1人で涙を流してしまっていた。
ふと目を覚ました祖母が、あらあら泣かないで、どうしたの悲しいことがあったの?と。
心配をかけたくなくて涙を拭くも、どんどん溢れてしまった、もしかしたら2人で話をした最後だったかもしれない。
おそれいります、ごめんください、と、丁寧な言葉遣いがかわいらしい人だった。

さてふんどしの祖父は、
2022年4月は、コロナの状況から、今より人と距離をまだ取らなくては行けない時期。
そんな中、練馬の自宅で亡くなった、103歳だった。
叔母と二人暮らしで、年末に入院した後にの自宅に帰って来ていてしばらくしたときだった。
退院後は、略毎日訪問介護の看護師さんがきてくださっていて、ちょうど亡くなったのが、看護師さんがいたときだったから、その後病院に行くこともなく、ずっとお家にいられた。入院していると、十分にお別れもできない時期もあったと聞く、お家にいてくれて、顔を見せてくれた。ずっと家族のといたかったのかな、タイミングを見計らったのでは、とも思う。

祖父のお葬式は家族だけでした、
娘である私の母と叔母、父、わたしと妹、の5人、自宅でお通夜と、告別式を。
ゆっくりと、祖父との時間を大切に過ごすことができてすごくよかった。
最後までずっと顔を見ていられたし、
たくさん話したり触れたりもできた。
賑やかな場が好きな人だったから、小言を呟いていそうだけど、そんな感じも私たち家族らしいと言い合いながら、思い出話しを泣きながら笑いながらして、過ごした。
困ったのが、祖父の洗礼名が誰もわからなかったこと。祖父と祖母は、祖母が亡くなる前にカトリックの洗礼を2人で受けていた、
自分で全て取り仕切っていた祖父だから、娘たちは教会関連の書類など名前が書いてありそうなものをなにももっていない。
聖書の勉強会に熱心に通っていたから、そのノートなどに書いてあるのでは、どこかに記録しているはずだろうと、そこいら中を探すも、出てこない。名札らしきものを胸につけた姿の写真が出てきた、これにはきっと書いてあろう。目を凝らして拡大鏡で見てみるもピントが合っていないのと、ちょうど手を胸元に置く仕草がおおくて(十字をきったり、お祈りとか)、どれも名札の文字が読み取れない、ざんねん。
祖母の洗礼名には印象的でわすれない、
メルセデス〇〇なのだ、聞いた時ベンツなの?と思い記憶にしっかりきざまれたのだが、祖父のは、なんだったか、、、
洗礼名がわからなかったら、神さまが祖父を誰だかわからないなんてことになったらどうしようと、家族みんなで大慌て。
結局、叔母がお世話になっていた教会に電話して教えていただいた、よかったよ

祖父や祖母と写っている写真をみんなで見ていた時、小学生のわたしと妹を見て、
叔母と母は
「ほんっとうに2人はかわいいわねぇ」と目を細める。嬉しいけれど、そう??と目を静かに合わせる妹とわたし、贔屓目にみても、ほんっとうにふつーの小学生、無表情でただ突っ立って映っていたりでそんなにかわいい?
今、私が姪たちをほんっとうにかわいいと愛おしく思うように、この人たちも私たちのこと可愛がってくれているんだなぁと、嬉しかった。
気持ちは言葉にしてみないとわからないし、伝わらないものだなぁと気がつかされた

祖父を見送るなかで、本当に寂しいのは、もう顔が見られなくなるとき、だった。
今ぱっとその場所の名前さえ思い出せない。
そうだ、火葬場、そこでお別れすると、もう顔は見られない。
明日がその日、という日の夜、
祖父の顔をみんなに見てもらわなくてもいいのか、もっと顔を見ていたい、もう見えなくなるのは悲しすぎると、混乱し、妹と急ぎ電話で話しをした。
家族だけで見送るので本当によかったか、
他に会わせたい人がいる気がするが例えば祖父の義理の妹や弟(わたしからすると大叔母大叔父)にはまだ知らせなくて良いと母と叔母は本当に納得していたか。
そういった身近な親戚はみんな高齢で、かつケガで入院したばかりだったり、病気だったりする、
でも皆温かい人だから知らせたらきっと無理をしてでも会いに来たがる、
無理をさせたくないし、みんなの年齢や体調体力もきになる。こう母と叔母が何度も話していたから大丈夫だと思い出せた。

5月にお世話になっていた教会で、ごミサをしていだからことになった。
家族5人で教会に伺うと、
偶然、本当に偶然に祖父の代父をして下っていた方が教会を訪れてらして参列してくださったり
日曜のミサに参加した方の中に、祖父と聖書の勉強会でご一緒していた方がおいでで、急遽参列し皆さんで讃美歌を大きな声で歌って祝福してくださって、涙を流してくださったりで、本当にありがたかった。
賑やかなあたたかなお式になって、さぞや喜んでいただろうとおもう。

まさか亡くなるなんて思っていなかったから
もっと会いに行けばよかった。
祖父はわたしと同じ業種の仕事をしていた、
それゆえ、わたしと会うと現役時代のことをよく思いだし、昔話に花が咲く、その話を聞くのも楽しかった。
ある時、独身の叔母を心配するあまり、
さっちゃんのお給料には家族の扶養が考慮されているはず、仕事をしていない〇〇(叔母)の分も含まれているはずだと言いだした。
そんなわけないと、なだめる家族に、いやいやそんなはずはないと、後日、うちの会社の本社に電話をかけてしまったらしい。
そんな祖父の行動を重く見て、しばらくわたしは祖父に会わないよーにしたら、母が言い、どーしようかなと会わないでいたら、とコロナ禍になってしまった

今思えば、電話かけちゃうくらいなんでもない、もっと会えばよかった。
さっちゃん、ぼくね100になるのと、電話で話したとき、数えで言っているから、、、
ってことは99ってことねと、計算をしながら聞いていた。
そうか、去年で祖父は数えだと104になっていた。その間会えていなかった。
知らない間に時間はあっというまに過ぎていく、時間が過ぎれば悲しくも別れの時間に、近づいていくということなんだ

会いたいときには遠慮せず会いに行く、
会いたい気持ちを、仲良くしたい気持ちや大好きな気持ちを伝える、最近、改めて思っている。

ところで家族のバースデーカードには、毎回大好きだよと、略全員に書いているのだけど、わたしに大好きだよって書いてくれるひと少ないかも、まぁいいか
大好きっていうことで、一番癒されているのは自分だから。
大好きって言える相手がいて幸せだなぁって実感して、書くことで、こっちが幸せになっているのだから

じぃじばぁば、大好きだよ
ずっとお空から見守ってね

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