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短編小説|「痛」

最近、痛みが簡単に引く。
酷く散らかった部屋でベッドに腰かけながら、左手首に視線を落とす。まだ一回だって線が引かれたことはない手首。
換気不十分の空気を浅く吸って、諦めのように吐き出した。自分で自分の体を傷つけることができない臆病者なのだから、せめて心の方には傷が残ってほしい。自分のどうしようもなさを否応なく自覚し、確かに行動に移せるだけの。

自分の先延ばし癖のせいで、第一志望の企業のエントリーを逃した。
相手への配慮を欠いた言葉をSNSで送り、数少ない大切な友と仲違いを起こした。
ボロボロボロとひとしきり泣いて、それだけ。

十数分程度激しく激しく痛んだ後は、感覚そのものが静かに引いて消えている。意識しなければ痕跡さえ掴めない。あぁ絶対に自分は同じ間違いを繰り返す。そんな最低な予想から逃げるために、ベッドに寝転んでスマホで動画配信サイトを開いた。好きな配信者の動画は見尽くしていて、特に見たいとも思わない映像に何となく視線を注いでいる。時間を石臼でゴリゴリと曳き潰しているイメージが浮かぶ。やるべきことは自分の四方に城壁を築けるくらいに山積みなのに、壁がこちらに向かってなだれ落ちてくるそのギリギリまで、無意義な娯楽で思考を潰す。得意なことは現実逃避。苦手なことは客観視。好きなものは漫画やゲームの中のひたむきに頑張るキラキラした人たちで、嫌いなものはそうあれない自分だった。

はじめは、あの日の痛みを繰り返させたくなく、自己防衛で感情が鈍麻しているのかと疑った。
ただの不毛な、一年間の片思いと二年間の横恋慕。自分の好きな人が好きなのは自分じゃない、なんてもう何百篇も歌われたような苦しさで胸が割け、起きてから寝るまで血が流れていた。意識を胸に向ければ切られるような痛みはさらに鋭く、とめどなく涙が溢れて自分の全部をぐしゃぐしゃにした。この先ずっとこの痛みが引かないというのなら、生きている限りこの痛みに苛まれ続けるというのなら、一刻も早く終わらせるというのが自分にとっての救済じゃないか?
思考できる暇ができるのが怖くて自分を強引に動かし続けたら、いつしか止まれなくなっていた。ボロボロになった体と余計働かなくなった頭で、誰か麻酔薬でも内蔵に直接手刀で叩き込んでくれないか、なんて。いつか見たBLEACHの一コマを思い返しながら、路上では体を引きずり、帰宅すればベッドで動かなくなった、三年前。

「……惨状、だなぁ」

緩慢とベッドに寝転がりながら、視界の端に部屋を映す。
放置された惣菜のパック、床に転がった箸。机は無造作に放り出された資料で埋まり、服は脱いだまま散乱し山になっていた。物を突っ込んだだけのラック、埃を被ったフローリング。水を飲もうと思っても、全てのグラスとコップとがシンクに入れられてから早二週間が経過している。ベッドの壁寄りの人ひとり寝転がれるスペースしか、最早自分の居られる場所はない。

きっと、あの日々は原因じゃない。
多分……ああ、そっか。

脳が砂袋に置換されたみたいで、思考は回らないし体は重い。
どんな痛みも、続かないから自省に繋がらない。
どんな感動も、続かないから行動に反映されない。
良作な漫画に全力で感銘を受けた気になったって、感化は一時間程度しか残ってくれなかった。

……突然、この部屋に誰か現れてくれないだろうか。
「何してんの、アンタ」と、意思の強めな女子が見下ろして、「どうした、自暴自棄ちゃんよぉ」と、気のいい不良が絡んでくる。
不可思議な奇跡を少しだけ妄想して……不毛さに唇の皮をベリベリに剥いた。

布団の中に潜り込み、一旦は落とした動画配信サイトを開く。
お酒に逃げないのは酒代がかかるからで、薬に逃げないのは薬代がかかるから、ギャンブルに逃げないのは借金が怖いから。
少額で手軽に快楽を得られる、そして長期的に見れば何よりも有害であろう時間浪費機関に、自分はまた頭と心を明け渡した。

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