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短編小説|ガチャガチャ・上

 生気の薄い眼をして、お前はアパートの玄関に鍵をかけた。朝8時15分の光線の白さに剣呑な表情で目を細め、頼りない足取りで歩を進める。先に部屋から出て、お前のことを小一時間待っていたこちらに見向きもしないで路傍を行き出したものだから、俺は思わず強めにお前の肩を掴んだ。お前はこちらの手が存在しないかのように肩を軽く揺すって抜け、黒鞄をかけ直す。一つ舌打ちをした。いつだってお前は俺の話なんざ聞きやしないんだ。

「明日こそは30分前には出社できるよう家を出るんだって言ってたのはお前だろ。結局今日も定時ぎりぎりじゃねぇかよ」
 くたびれたスーツに、よれたシャツ。一応社会人、しかも入社1年目なのだから、もう少し身なりに気を使った方が良いと、俺は再三言っているのに。
「………………」
「機嫌悪ぃな。寝不足だ、寝不足。翌日も勤務日だってのに夜中の3時まで漫画読んでたお前が悪い。忠告したろ」
 お前は黙って鞄の中からイヤホンを取り出し、スマホに繋げて両耳に挿した。鋭い音の乱高下が、こちらまで微かに漏れ聞こえる。気怠い不快が、苛立ちが、荒れた曲調に少しは溶けてこいつの中から流れ出してくれるのだろうか。或いは音の洪水で神経を圧迫し、感情や思考の麻痺を正当化しているのかもしれなかった。無雑作につけた所為で絡まったまま首に這う黒いコードにどこか不吉な想像をして、俺は眉根を寄せた。お前は目を合わせない。

 その内、手首の腕時計に視線を落とし、お前は駅まで500メートルのアスファルトを駆け始めた。俺も慌ててついていく。万年文化部のお前が、毎朝の駅までのダッシュを理由に少しずつ鍛えられているのは皮肉だ。この一本を逃したら遅刻する、その寸前にならないとお前の体はもう動かない。駅前のティッシュ配りや街頭演説の前を乱暴に抜け、エスカレーターの右側を駆け上がる。改札の電光掲示板からは目的の便の表示は既に消えていて、発車メロディが流れ出した。お前は定期を改札に叩きつけ、ホームへのエスカレーターを走って下る。息を荒げながら人の限界まで押し詰められた車内に滑り込み、マスク越しでも十分聞こえる、乱れた呼吸音を響かせた。

「……会社、頑張ってこいよ。俺が見送れるのはここまでだから」

 声は「ドアが閉まります」のアナウンスにかき消され、扉がお前の身体を削るように肉薄して閉じてゆく。人とドアとに押しつぶされたお前が、キメラの一部の様相を呈して遠ざかる。
 深く息を吐き出した。髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。状況は悪化の一途を辿っている。単調な毎日を繰り返しながら、1ミリずつ、しかし確実に。

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