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村上春樹作品という個人的な隠れ家について

村上さんの好きなところを書いてみようと思う。

まずはエッセイが好きになった

僕と村上さんの出会いは、『走ることについて語るときに僕の語ること』というエッセイだった。その頃、僕は自分の生活スタイルと性格に似あうスポーツが無いかなと探していた。すでに登山は好きで、月に一二回は付近の山で汗を流していたけれど、それよりももっと身近で、手軽で、頻繁に出来る運動はないかと探していた。その時にこの本に出会ったのだ。

この本は独特な筆致で書かれている。マラソンと創作活動、肉体鍛錬と精神鍛錬、肉体の衰えと精神的停滞のようなテーマが、ふわりふわりと漂うように、彼の経験した順番で綴られている。主張するでもなく、解説するというのでもなく、自分の感じていることと考えていることを丁寧に紡いでいくような文章であった。

内容といい、文体といい、一番良いタイミングで出会ったのだろう。村上さんの文章が、気持ちよく自分の思考の中に入り込んできて、ほどなくランニングが趣味になった。マラソンに出たいというほどの意欲はなかったが、それでも一日7キロのコースを自分で見つけて、涼しい時間帯に走るのが好きになった。

行動する→感じる→考える→行動する

というサイクルに馴染みのある人は、村上さんのエッセイは好きになるんじゃないかと思う。そこから、旅行記や音楽についての本などを読み、どれも楽しんだ。

『村上さんのところ』は人柄が感じられて更に好きに

他に、エッセイ作品の中でとくに印象に残っているものとしては「村上さんのところ」はリアルタイムで読んで、楽しかった思い出である。ウェブサイトでQ&Aを繰り広げ、その後抜粋したものが書籍化された。これも僕の感受性にぴったりとマッチしていて大好きだった。

受け答えから伝わってくる村上さんの人生への取り組み方が、真摯でユーモアがあって心地いいのだ。
一つ、僕が大切に受け取った言葉がある。

「腹が立ったら自分にあたれ 悔しかったら自分を磨け」 村上春樹

これは、理不尽な状況や怒りを、いかにエネルギーに転換してこれまでやってきたかという村上さんの静かな熱を感じた言葉だ。それも、大変誠実な熱だ。しなやかで、強くて、励まされた。

あと、村上さんは、人生で直面する軽々に口にできないような種類の悲しみに、とても忍耐強く優しく接しようと努力される。そういうところが好きだ。

悲しみを忘れようとする必要はない。
でも、そればかりを考えているのも適切ではない。
規則正しく生活をしていくなかで、心に空いたその穴が、どんなふうに形を変えていくか、見守っていこう。
そんなスタンスだ。

エッセイだと、そのような村上さんの人間性をダイレクトに感じられるのが良かったと思う。

小説は短編集から少しずつ好きに

その割に、村上さんの小説を好きになるのにはずいぶん時間がかかった。
有名どころで『ノルウェイの森』や『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』などをなんとなく読み終えてみたものの、これといって心が動くことはなかった。(たぶん、その当時の僕が必要としていなかったのだろう。後で読み返したら、『ノルウェイの森』はとても面白かった。ワンダーランドもまた再読してみたい。)

まず好きになったのは短編集だった。『東京奇譚集』の「偶然の旅人」がすっごく好きだった。「ハナレイ・ベイ」なんかも印象的。村上作品の特徴として、「これが言いたいこと」というのがはっきりしていない(ように感じられる)ことがあると思う。分かりやすく伝えようとしてはいないのだ。
でも、それは、そのようなやり方でしか伝えられない心の襞(ひだ)を描こうとしているからであって、無意味に小難しいわけではない。
短編だと、その「あてのなさ」があまり気にならずに、むしろそれを楽しみながら読めた。

短編集では『レキシントンの幽霊』、『女のいない男たち』も大好きだ。『女のいない男たち』は、全編面白かったな。今のところ一番好きな短編集はこれだ。

死とセックスという道具立てによって進んで行く物語

村上作品のテーマには、死とセックスが出て来る。最初これが出て来る意味と理由が分からなかったので彼の小説が好きになれなかったのだと思う。
現実の世界では、死とセックスがどれくらい身近にあるか、かなり個人差があるだろう。

でも、身近な人の死、大切な人の死、昨日まで隣りにいた人の突然の死などは、体験してしまうと「もはや体験する前の状態には戻れない」というような変化を促すものだ。村上さんはそういうものを扱ってくれている。

セックスについては、一概には言えないけれども、人と人とを大変深く結びつけるものだと思う。その代り、ふさわしくない扱い方をすると、ふさわしくない心の状態に進んで行く(のではないだろうか)。でも、ふさわしさ、ふさわしくなさというのは、生き方、タイミング、身体の状態、精神の状態でいろいろと変化していくものだ。セックスがもたらしてくれる恩恵と呪い、豊かさと空しさというのは、村上さんの一つのテーマだと思う。

ただ、死とセックスを描くために彼の小説があるのではない(と思う)。それはあくまで道具立てであって、生に絡み付いてくるそれらのものたちとともに、進んで行く主人公たちの物語自体に意味がある。

村上さんが描きたいのは、そのような心の変容とか、身体と心の関係とかそんなものだと思う。でも、説教臭くなく、さりとて気持ち悪いほどスピリチュアルでもなく、グリム童話のような感じがある。

話しはともかく進んで行く。ほっとしたり、どきどきしたりする。エロティックだったり残酷だったり、幸福になったり、悲しみに絶望したりする。何が描きたいのかというのは、一緒にその物語を進んで行った人だけが心に感じ取ることのできるものだ。その心持ちを共有することこそ、小説を読む醍醐味だ。

村上さんの小説で好きなところは、気持ちよく読み始められるところだ。シャワーを浴びた後にアイスを食べるみたいな。パリッとしたシャツを着て、朝のコーヒーを飲むみたいな。ふさわしいところにふさわしいものがあって、それを一つずつ手に取っていくようなスムーズな感覚がある。それなのに、いつの間にか不思議の国に入り込んでいて、出て来たときには部屋が少し違って見える。
これが好きになったら、こういう気持ちにさせてくれるのは村上さんしかいないし、同時代にこういう作家がいてくれて本当に幸せだなあと感じると思う。

今は長編小説も好きだ

長編で好きなのは『1Q84』だ。これは読んでいる間ずーっと楽しかった。すべての登場人物が魅力的で、読み終えた後でも彼らが僕の心の中にいてくれている。青豆、天吾、ふかえり、牛河。みんなそれぞれが、濁流に呑まれそうになりながら必死に生きている姿にとても励まされた。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』もよかったなぁ。フィンランドに行ってみたくなるよ。赤、青、白、黒とつくるの関係性は、僕にはとても現実的に感じられた。誰かを犠牲にしてでもともかく前に進まなくてはいけない、という時が誰にでもある。逆に自分が犠牲にされることも、それによって人生が狂ってしまうこともある。人生ってそういうところあるよね、というような話し(ほんとか)。
そして今楽しんでいるのは『騎士団長殺し』。肖像画を描く主人公の拘りについての描写がとても好きである。
村上さんの描写は、具体性と抽象性の両方をバランスよく保っているところが素晴らしい。「本当にこういうことを考えながら仕事をしているプロフェッショナルがいるんだろうなあ」と思わせてくれる。僕にとってはそのようなリアリティはとても大事で、なおかつその人の内面性も見せてくれるところが嬉しい。

長編の面白さは、その世界に長い時間浸っていられるところ。よく寝る前に、眠くなるまでベッドで読むのだけど、それは一日の終わりの楽しみになっている。個人的な、ひっそりとした特別な儀式みたいに。どこで眠くなって寝落ちても問題はない。物語は緩やかで大きな川の流れのように、僕をどこかへ運んで、また安全な岸辺に戻してくれる。

村上さんを誰かに勧めるか?

そんなわけで、僕は村上作品とともに年を重ねているといっても過言ではないくらいには村上さんが好きだけれども、では村上作品を誰かに勧めるかと言われると……勧めない。「どんな本が好きですか」と聞かれても、村上さんが好きですとはすぐには言わない。言いたくない。

それは、本来ひっそりとした個人的な隠れ家みたいな所だから。

わかる人には分かる。彼の作品を必要としている人が、良いタイミングで出会えば、きっと唯一無二の居場所になると思う。

でも、そうじゃない人にはきっと必要がないだろう。分からない人には分からないと思うし、分からないならそれはそれで幸せなことだとも思うのだ。小説を必要とせず、元気にバリバリ毎日を送っていて「余は満足じゃ!」と言っている人に、村上さんという面白いエンタメがありますよとは、とてもじゃないが言えない。どうぞ健やかにお過ごしくださいませ。

でも、なんとなく村上さんが好きそうな感じの人がいたら、良い出会いがあるといいなと思う。
出会い方も大事だ。誰に、どんなふうに、どんなタイミングで出会わせてもらうか。そういう巡り合わせも、読書体験の重要な一部だ。

皆様にも良き出会いがありますよう、陰ながら祈っています。



村上さんの小説の良さについてはこちらの記事に書いてみました。よろしければ、ぜひお読みくださいませ。

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