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中編小説『バランス・ゲームのゆくえ』1

【あらすじ】
 15歳の角谷春樹すみたにはるきは、中学生活最後の夏が迫る放課後、学校司書の勧めで「とある神頼み」を勧められた。現在自分が置かれている生活環境を打破できるならと、それに頼ってしまう。
 それから時が経ち、人生の勝ち組として生活していた春樹は、人生の負け組に分類された男・倉持くらもちアキラを助けた。マイケル・ジョーダンモデルのスニーカーを履いたアキラが春樹と真逆の生活を送っていることを知り、さらに自分が「誰かの人生」を歩いていると確信した。ふたりは話し合いの末、ある決断をする。その決断とは…
「おみくじみたいな感覚だと思えばいいよ」この言葉から始まった、転落と好転が行き来する奇怪なミステリー。

 ──

「お前、この先の人生に悩んでるな? ちょっとわたしに相談してみないか?」

 さすがに、すぐに飛びつくような人間はいない。この傑作が胡散臭く見えるのか、と穴が開くほど見るのだが、そんなことはない。自分でもよくできたほうである。
 実験対象は自分の力で探したかった。これ以上、能無しだとか、バカだとか言われないようにするためにも、自分の力だけで完成させ、また完結させる必要があった。人生に迷う人間に道を示し、感謝され、力を示すのだ。
 幸い、自分には優れた誘導の力がある。これをうまく使って導けば、もっと上に行くことだって夢ではない。
 実験を終えた彼は、実験対象から「感謝」された。感謝されると、とてもいい気分になるのがわかった。では、これを使ってエネルギーを集めるのはどうであろう。

 それから何年もの時間が経った。通りで「ある人」を見つけたときであった。急に実験を始めたころのことを思い出し、ピンときた。

「お前、そこのお前! わたしを覚えているか──覚えてないとか、嫌だとかは言わせない。お前には罪悪感の塊が残ったままだろう。なにがなんでも、協力してもらうぞ!」

 1

「春樹、大学行くん?」

「慶應? 早稲田?」

「慶應の文学部。金は自分で工面する」

 いつものことだ、スルーすれば問題ない。見えないように拳を握る。昼休みが始まって10分と経たずに話しかけてきたクラスメイトの成績など、たかがしれている。自分のほうがずっといい。中間テストは角谷春樹が約30点差をつけて勝っていた。アベレージは60点台だと現代文の教師は教えてくれたが、春樹はもっと低いと考えていた。ずば抜けた点数とそうでない点数を足して出した数値はあてにならず、あくまでも「平均」を取っているだけでなんの指標にもならない。

「頭いいやつはこれだからなー。ま、せいぜいがんばれよ、ハルキくん」

 春樹はコンビニで買ってきたおにぎりの包装紙をむいた。パリパリの海苔をまとった白飯。中身は定番の紅鮭。幸い、目の前には誰もいない。食べる姿を誰にも見られたくないがために、席替えのときは一番前を死守したものだ。
 春樹は読み書きが人一倍早くできたと聞いている。神童かと言われたが、春樹は神童などではなく、ただの一般家庭のこどもであった。よく言えば内向的で静か、悪く言えば影が薄い。自分からオープンに接したいと考えたこともあったが、嫌われたときのダメージを考えてすぐにやめた。つまり、臆病者なのである。
 ひとつめのおにぎりを無心で噛んで飲み込む。頬の内側に海苔が貼りつく。次のおにぎりで取れるだろうから、無理やりはがさない。貼られたレッテルをはがしても痛いだけで得などひとつもない。春樹の場合「内向的」と「貧乏人」だ。内向的なのは仕方ないとしても、貧乏であると自分では思ったことなどなかった。ただ、すきなものをすきなだけ買えないとか、光熱費を節約しているとか、遠出するときに万札1枚しか持たないとか。くだらないことで「貧乏人」のレッテルを貼られている。趣味のひとつでも持っていればよかったが、春樹は目立つような趣味を、ただのひとつもあげられないことを咎められたときは「くだらない争いに巻き込まないでくれ」と言いさっさと離れてしまうのだ。だから内向的というレッテルが一番多く貼られている。
 春樹だって、すきでこんな性格になったわけでも、こんな生活をしているわけでもない。神のお告げとやらがあるなら、ちょっと耳を傾けてもいいかなと思ったこともある、ごくふつうの15歳である。
「俺の頭が羨ましきゃ、代わってほしいよ」目の前に誰もいないのをいいことに、誰もいない空間に向かって手を合わせた。エア神頼みでも、効果はきっとある。
 変な目で見られるのは慣れている。すきに想像すればいい。どうせ俺は外から見たら「底辺」なのだから。

 放課後、春樹は図書室のバルコニーでひとり黄昏れていた。じめっとした風がもうじき来る夏を知らせていたり、空高くに雲が点々としていたりする景色は気持ちがよい。グラウンドでは野球部やサッカー部が汗水流して活動している。夏の大会に備えた練習だろう。一年生はこれがスタートで、三年生はこれで負ければ引退を迎える。運動部でも文化部でも、青春を謳歌できるのは学生時代だけだ。

「角谷くん、なーに黄昏れてんの」

「司書さん」

 学校司書の森永由美もりながゆみがバルコニーに出てきた。彼女は春樹の横に並んで一緒に黄昏れた。

「司書さんは、神頼みってしたことありますか」

 サッカー部はPKの練習中で、エースが蹴ったボールはまっすぐゴールポストに突き刺さった。ハイタッチ。余計な野次馬がいないときのほうが力を出せると聞いたことがあるがほんとうであろうか。春樹は羨ましそうに練習風景を眺めながら森永に聞いてみた。

「角谷くん、その顔、なにか悩んでるの?」

 森永は妙に察しがいいときがある。だから司書教諭やほかの教諭と対等にわたりあえているのだ。スクールカウンセラーに話せないことも、学校司書の森永にはなぜか話せると噂が立つほどで、春樹もそれに期待している部分があった。この機会を逃すわけにはいかないと、春樹は横を向かずに独り言として話し始めた。

「やり直しできないなら、せめて『ここから』変わらねーかな」

 頭がいいことを妬まれ、クラスではほぼ孤独。家系は日本によくあるがん家系。祖父も祖母も、その前の代も、ほぼすべてがなにかしらのがんで逝去。母親もその兆候が見られたので検査入院させたら案の定胃がん確定、そのまま入院、治療を受けている。父親は重度の糖尿病で左足を切断している。幸いにも仕事は在宅が可能な職業であるため収入がなくなったわけではないが、そのほとんどは治療費で消えている。そのくせ親戚も同じように難題を抱えているため、金銭的な援助は受けられそうで受けられない。完全に貧乏くじを引いていた。

「うーん、角谷くんがそこまで言うなら」

「えっ」

 ふっ、と春樹の隣から森永の気配が消える。言葉だけ残して気配を消すなど忍者のようであるが、彼女は存在感がおおきく、忍者の家系とは考えにくかった。
 残り香が鼻をくすぐる。これはなんの香りだろうと考えていると、森永が汚らしい箱を抱えて戻ってきた。よいしょ、という言葉とともに箱を下ろして「角谷くん、さっき神頼みがどうのこうのって言ったよね」となにやら意味ありげな表情を浮かべていた。

「え、なんすかこの汚いの。ゴミ?」

「ゴミとは聞き捨てならないなー。これはね、わたしがお世話になった『神頼みの箱』よ」

 その容姿に対してのツッコミを返すべきか否か、春樹は戸惑った。経年劣化でパリパリになった紙に「人生の茶」という、なにとかけているのかわからない名前らしき文字が書かれている。梵字とかエノク語とかではなく、ひらがなと漢字。ひどくてものも言えない。子供騙しだろうと思い、森永の提案を断ろうとした。
 校庭から人の声が消えていた。サッカー部と野球部が練習を終えたことにも気づかなかった。じきに下校時刻を迎える。

「角谷くん、この続きは明日でもいい?」

「家にいたくないから、別にいいっすけど」

 落ち合う時間を決めて、その日は帰った。

 日曜日、セミがじわじわと鳴き始めている。まだ本格的な夏ではないのに、セミが土から出てしまっていた。いつもより空気も重く、彼方の空には、ソフトクリームを雑に盛ったような雲が積み上がっていた。

「角谷くん、おっはよー」森永は司書エプロンをつけていた。春樹の通う中学校は休日でも要望があれば図書室を開放してくれるありがたい学校であった。受験シーズンや長期休暇になると利用が飛躍的に増えるために取られた措置であった。なんでも文部科学省が示す「読書センター」「学習センター」「情報センター」の役割を果たすためだと森永は言った。

「おはようございます」空調のきいた室内に変化はない。汗が引っ込めばなんでもいいと考えていた春樹は、カバンをカウンターから一番近い席に置いた。テーブルの上には昨日の汚らしい箱がある。

「人生に迷ったときのおまじない。はい角谷くん、これを回してみて」

 よく観察してみると、ウォーターサーバーに仕込む水の袋が入った箱に、市場に出回っているガチャガチャのハンドルを取りつけたようなつくりをしていた。「神頼みって言っても、結局は自分の力で拓いてくもんだと思うのよ。おみくじみたいな感覚だと思えばいいよ」

 これだけでは白とも黒ともつけられない。おみくじ感覚という軽いノリに乗せられた春樹は、ついハンドルを回してしまった。ことんと落ちてきたちいさな紙は几帳面に折られており、見た目は神社で引くおみくじそのものであったが、表は白紙。「御神籤」「おみくじ」のような、ご利益のありそうな言葉などは一切書かれていなかった。

「えーと、なになに……『あなたはアタリを引きました。これからは新しい人生を歩いていくことになります』?」

 おみくじよりも雑な説明に、春樹は返す言葉を失った。これなら神社で引くおみくじのほうがまだご利益があろう。「……当たるんすか、これ」どう見ても「遊び」にしか見えなかった。神社の真似事をしたがるこどもが森永家にいるのであろうか。

「信じる、信じないは角谷くんの勝手だけど、結構悩んでるように見えたから……信じてみてもいいんじゃない?」

 春樹は、もらえるものはもらっておくことにしているため、引いた紙を無意識のうちに財布の中に入れてしまっていた。

 2

 それから15年後の3月上旬。埼玉県内のとある公立中学校の学校図書館で、職員会議が開かれていた。

「これだと学校司書の影が薄いのかな……もっと風通しがよくなるように、どんなことが挙げられる?」

「角谷先生、こういうのはどうですか?」

「職員会議以外での発言や主張の機会を持たせるのはふつうのことだろ。学校司書なんだから」

「あ、わかった。先生、これだよ。校内放送で学校司書を紹介するのは?」

「いきなり言って、やってくれるかな」

「結構いい案だと思うけどな。『そこにいる、を大切に!』って校長も言うじゃない。まさか、あの噂がここまで活性化させるなんて驚きだよね」男性教諭が当時を思い出してちいさく笑ったことで、そこにいる全員が笑い始めた。

「あれはあれ、これはこれ!」

 春樹はキーボードを叩いていた。議題は「近々配属予定の学校司書への期待と課題」である。来年度から勤務地の公立中学校にも学校司書が配置されることになり、司書教諭を兼任していた春樹は会議で進行役兼書記を務めていた。
 ただの教諭ではない。「司書教諭」という特別な枠を与えられ、春樹は教職員として毎日遅くまで働いている。辞令が出たころはある程度の時間が取れると思っていたが、春樹の予想とは裏腹に、まったく時間が取れずにいる。だから学校司書の配属には手を叩いて喜んだのだ。うまく時間を見つけて仕事をするにも、ひとたび学級を持ってしまうと、なかなかうまくはいかないものであった。
 多忙で、やや理不尽な日々を過ごしていても、春樹はハズレの人生を引いたとは思っていなかった。この生活は昔と比べるとはるかによくなっている。昔の自分に、今の自分を見せてやりたいくらいである。

「まとまらねえ」キーボードの上に手が当たり、改行してから「jk」と打ち込まれた。中学校だけに、jkとは笑わせてくれる。
 なんとかしようと思わなくとも、今はやってのけてしまう。昔は助けも得られずひとりで足掻いた。足掻いた結果がいいか悪いかは別であったが、基本的に好転しなかった記憶のほうが強い。少なくとも「今の春樹」は「以前の春樹」ではあり得ないような手助けを受けられている。
 そう、春樹は「夢」を手にしていたのだ。

 定時を大幅にすぎることはわかっていたが、職員会議がある日は仕方がない。なにせ司書教諭と学級担任の兼務である。学校の心臓部である学校図書館を任されたことに対して承認欲求は満たされてはいるが、ほぼ休みなしで働いているため、うれしい悲鳴を上げる毎日である。春樹は身支度を整えて学校を出た。
 帰り道、春樹は司書教諭と学校司書の分担を考えながら夜道をとぼとぼ歩いていた。大通りにはスピードを出す車が一台、また一台と増え、先行するテールランプの残像が消えるか消えないかのタイミングで後続車がついていく。そんなに急ぐと事故るぞ、と春樹はひとりごちた。
 歩道橋にさしかかった。ここを渡れば家はすぐそこである。帰りを待つのは嫁と娘、そして手料理。今日はカレーの日で、翌日はアレンジされる。たくさんつくりすぎる奈々美ななみはとにかく調理がすきで、飽きさせないようにと残り物を別物に変身させては、春樹や娘、さらには隣近所をも驚かせている。道路沿いに立つ看板が目に入る。この店が出す牛丼よりもうまい牛丼をつくる人を、春樹は嫁にもらったのである。
 看板から空へ視線を逃がすと光の波が軽減された。暗がりで光源を直視すると視力が悪くなる。たまに光から逃げないと途端に目を悪くしてしまう。そのまま歩道橋へ視線を流すと、桟に人が寄りかかっているのが見えた。下を覗き込んでいるようにも見える。このあとどうするか観察していると、あろうことか片足を上げて桟にかけたではないか。眼下を行き交う凶器が見えないのか、なんとそのまま体を持ち上げた。バランスを崩せば、50キロオーバーで走る、1トンを超える凶器の餌食になる。
 春樹はカバンを放り出して階段を駆け上がり、今まさに命を捨てようとしている人の腰にしがみついた。

「早まるなっ」おとなが二人重なってやわらかい床に転がった。男は壊れたおもちゃのようになにか喚きながら春樹から距離を置き、再び桟にしがみついたので男の足を包むスニーカーごと鷲掴みにして引き寄せ、そのまま羽交い締めにした。男が履いているのはマイケル・ジョーダンモデルの高価なスニーカーで、今日おろしたようにピカピカであった。

「いてえよ、はなせっ」

「やだね。また同じ行動を取るなら、このままにするぞ。それが嫌なら、話を聞かせてくれっ」

 男は観念したのか「くそっ」と吐き出しておとなしくなった。肩で息をしているのが羽交い締めにしながらでもわかった。心臓が落ち着かないのであろう。だがそれは春樹も同じであった。春樹が拘束を解くと、男は水を得た魚のように飛び跳ねてから距離を取った。まるでマグロかサメのようであった。
 男は心臓のあたりに手を置きながら、春樹をじろじろ観察し始めた。逃げる機会を見繕っているに違いない。春樹と同い年くらいに見える細面の男で、よれよれのシャツにスラックス。黒縁のメガネをかけている。スニーカーだけが妙にピカピカしているせいで、春樹はそちらに気を取られそうになった。なにも持たずに家から飛び出してきたのか、手回り品のひとつも持っていない感じではあるが、スニーカーが気になって仕方がない。

「そのスニーカー、マイケル・ジョーダンモデルだろ?」アイスブレイクとまではいかない休題を挟み込んでみるも効果はなかった。そのスニーカーを持っているのであれば、バスケットボールに興味がないとは思わないが。

「う、うるさいっ」上から下まで舐め回されるのは気分がよくないのは男も同じであるようだ。スニーカーに注目していると、手で隠されて睨まれた。なにか恨みのこもった視線に、春樹は危険なにおいを感じた。

「かっこいいから見惚れてたんだ。許してくれ」スーツにしわが寄っていないか確認してから立ち上がった。「ひとまず、ここに至るまでの経緯だけ聞かせてくれ。スニーカーの話はそのあとでいいから」

 男は黙ったまま春樹を睨み続けている。野良猫や野良犬が警戒しているのと一緒で、ひとたび手を出せば噛みつかれる。目は血走っていないので薬をキメているわけではなさそうでも、スニーカーに目をつけてしまったために、春樹をスニーカー泥棒としてとらえていてもおかしくなかった。
 話せばすっきりするかもしれないのに、殻にこもったまま出てこようとしない。話したくない理由でもあるなら話は別だが、男からはその感じが見て取れなかった。むしろその逆で、きっかけがあれば噴水のごとく出てきそうな勢いを感じた。春樹が「マイケル・ジョーダンモデル」と言ったとき、声は聞こえずとも、口元が黙っていなかったのである。

「なあ、なにがあった?」

「いい人生を送ってるようなやつには話したくない!」男のストレートな物言いに、こいつは話せば納得させられると確信した。

「そんなこと言わずに」

「じゃあ僕から質問させてもらうけど、あんたは『平等』ってなんだか答えられるか」

 不意打ちの質問。平等とは。

「平等、平等って言うわりに、国はなんにもしてくれない。医療費の免除もない。補助金出しますって、サービス受けるにしても、証明書くださいとか、保険証の提示とかで、結局補助が出るのは1ヶ月とかそれ以上とか、とにかく審査が通らないと受け取れない」延々と続く男の主張。話してみろよと言った手前、聞かずに帰るわけにもいかなかった。春樹と男以外に歩道橋を渡る人影はなく、この一本橋は、今は春樹と男だけの世界であった。ほかに立ち入るような者がいれば、ものものしい空気にふれて眉をひそめてから階段を下りることになるだろう。

「しあわせになる権利、全員にあるはずだって母親も言ってた。それなのに、満足に生活を送れる金がない。片一方は山ほど持ってて、片一方は底が見える。天と地ほどの差があるのに、なにが平等だよ!」

 身なりのしっかりした春樹、対する男はだらしがない。いや、正確には「身なり」がだらしがないだけで、中身は春樹のようにしっかりしているのかもしれない。男の話す内容がどうにもあのころと似ており、いよいよ違和感を覚え始めた。

「マイケル・ジョーダンモデルのスニーカーはなんとか買えたけど、これのどこが平等だって言うんだ」

 春樹が答えられないところを見た男は「そら見ろ、答えられないじゃないか」と腰を上げて立ち上がり、再び歩道橋の桟に手をかけた。

「やめろ。そのマイケル・ジョーダンを、これ以上悲しませないでやってくれ……あとで答えるから、連絡先を教えてくれないか」

 男は、手をかけただけで暴挙にうつることはしなかった。

 ─

「パパ! おかえり!」

 平等とはなにかを考えながら家に帰った春樹が玄関のドアを開けると、マイケル・ジョーダンも学校司書も吹き飛んでいった。愛娘・千紗ちさのお出迎えがあったからである。お気に入りのくまちゃんも連れてきたので、春樹は千紗とくまちゃんを交互に撫でてやった。

「おかえりなさい。遅かったのね……襟元、歪んでるわよ」間髪入れずに奈々美が出迎える。専業主婦でもないのに、腰につけたエプロンがさまになっている。エプロンが似合う女性は家庭的であるという固定イメージは拭えそうにない。しかし今はジェンダーレスの時代で、男性だってエプロンはつける。春樹も休みの日はキッチンに立って料理を手伝う。このことに、なんら不思議はない。

「ただいま。歩道橋でちょっとな」カバンを預けて靴を脱ぎ、ネクタイを緩める前に手洗いとうがいをすませる。「なあナナ、平等ってなにって聞かれたら、どう答える?」

 待っていたのは宣言どおりのカレーであった。千紗でも食べられる工夫がしてある中辛は、すりおろしたにんじんがたくさん入っている。今日は千紗も手伝いをしたらしく「お手伝いカード」を持ってやってきた。

「今日は千紗の手作りか? ママのお手伝い、いつもえらいぞ。パパ今日はたくさん働いて、お腹と背中がくっついちゃってるから、たくさん食べたいんだ」カードにスタンプを押してやると、愛娘は太陽のような笑顔を振りまいた。シンクの三角コーナーはきれいでも、所々に残るオレンジ色のしみが娘のがんばりを証明していた。

「この世に平等なことはない、とでも?」奈々美はいたって冷静に返してきた。「もしかして、学校司書との業務分担でなにか迷ってるの?」

「まあ、そんなところ」いつかは嘘だとばれるのだ、それまで真相は黙っていることにする。

「平等ってさ、楽しいこともつらいことも、分け隔てなく、みんなで共有とか、行き渡るようにするとか、ってことじゃない? あ、そうそう。町内会長さんがいらして──」予想どおりの答えに、春樹はほっと胸を撫で下ろした。
 俺のように、こうやって家で待つ人が、疲れを癒す料理が、あの男にはいて、そしてあるのか。にんじんカレーはいつもと変わらぬ味で、春樹の胸中に生まれたもやを少しだけちいさくした。

 3

「そ、社会人学生。これでも非常勤で数学を教えてたことはある。病欠の補填だったけどね」

 春樹が助けた、マイケル・ジョーダンモデルのスニーカー男は倉持アキラという名前で、働きながら大学に通っている、いわゆる「社会人学生」というやつであった。すでに中学校の数学教員免許は取得済みであり、しかし司書教諭の夢を捨てきれずにいた。現在は「ふたつめ」の大学で図書館司書と司書教諭の資格取得のために勉学に励んでいるという。春樹はアキラから感じた違和の正体を探るため「一杯やらないか」と誘ってみた。すると「話したいことが山のようにある」と誘いに乗ってくれたことには感謝しかなかった。

「あと一年あれば司書の資格が取れる。それまで我慢してくれって頼む僕がおかしいのかな。角谷さん、どう思う?」

 小ぶりのエビを寄せ集めた、これまた小ぶりなかき揚げをつまみ、アキラは愚痴を好き放題に散らかした。春樹は梅酒のロック、アキラはウーロンハイ。酒は一杯だけと伝えるとアキラも同意した。しかしハイスピードで、話を始めてまだ5分と経っていないのに、アキラのグラスから中身が消えそうであった。

「でね、それまでもやっぱりおかしくて」サクサクと事が運ばないのは全員を平等に見ない国が悪いとか、自腹で通学している人から金をむしり取ろうとする横暴に耐える日々とか、誰も味方をしてくれなかった二重学籍疑惑とか、それらを弁明するのにどれほどの時間を要したかなどを、選挙に出馬する本人のような迫力と気迫で延々としゃべったのだ。違和感解消のために誘った春樹であったが、話を聞いていると、不思議なことに「感謝」されているような気分になってくる。

「高校卒業まではね、おもしろいようにサクッと事が運んだんだ。かき揚げだけに」大学を一浪し、二度目の挑戦でギリギリ合格ラインだったアキラ。「角谷さん、一発合格だったでしょ」アキラはグラスの残りをまとめてあおり、氷を口の中で転がしつつ「ねえ? 先生?」と挑発まがいの言葉を放ってきた。
 話を合わせようと思っていた矢先に図星を突かれた春樹は、どう答えるべきか悩んだ。ストレートだったと言えばアキラはへそを曲げるに違いないから「一浪した」と嘘をつきたかったのに、先手を打たれてしまった。必要な資格を取得して院進せずに採用試験を受けて正式に配属されたのが春樹の就活だが、アキラはそうはいかなかったというのである。

「僕もね、教員免許を取ったところまではよかったの。それが試験を受ける前日に母親が危篤で呼び出された。結局その年は受験できなくて、翌年も親戚に不幸があってダメ、次こそはと思って受けたら今度は不正が見つかって結局その年は諦めた。不正したのは僕じゃないんだけど、なんかそんな気分にならなくてさ。公務員試験で不正って、なに考えてんだかよくわかんなかった。走行中の電車に人が飛び込むくらい意味がわかんない」

 アキラの不運は、高校卒業前の春樹とよく似ていた。十人十色とはよく言うが、こうも酷似していると逆に気持ちが悪い。あのときはただの違和だと思っていたが、どうにも違う。過去の自分と重なる部分の多さに吐き気を覚え、他人事とは思えなくなり、ついには「すまなかった」と春樹が頭を下げた。

「なんで角谷さんが謝んの? 僕の家庭事情なんて知らないでしょ」

 鷲掴みにされた心臓を激しく揉まれる感覚に違和感がのしかかり、気持ちの悪さをプラスされた心臓が変な電気信号を出し始めた。ただの頻脈にしてはおかしい。脂汗も出てきた。留まるな、せめて垂れろ。流れ落ちろ。念じても落ちない汗は春樹を不快にさせた。アキラと話していると気分が崖の下に落とされる。しかし、この男は、アキラは、なぜかほうっておくことができない。

「角谷さん? 顔が真っ青だよ」

「すまん、ちょっと外す」

 言うなりフロアを突っ切ってトイレへ駆け込み、一番奥の個室で盛大に吐いた。

 すっぱいにおいが鼻を刺激する。未消化の小エビが、複雑な表情で春樹を見上げるように浮いている。複雑な気持ちでアキラを探ろうとしたことに恨みでもあるのか、そのまま飛びかかってきそうであった。
 吐いたぶんだけ頭と腹が冷えた。アルコールに負けたわけではないから意識も記憶もはっきりしている。トイレットペーパーをむしり取って口元を押さえても胃液が上がってくる気配はない。すっぱいにおいをシャットアウトしただけだ。諦めて口を拭った。
 個室を出てシャツに汚れがないか確認できるほどには回復してきた。手洗い場で口をゆすぎ、手も洗い、ついでに顔も洗う。ほんとうは頭から冷水をかぶりたいが、あいにく居酒屋にシャワールームはない。

「……まさか、な」

 アキラの話を聞いているうちに、春樹の中に生まれた不確定要素のいくつかは確定要素になった。ふたりの転落と好転の時期は、おもしろいようにかぶっていた。春樹は15歳のときに訪れた「転機」であり、アキラもまた15歳のときに訪れた「転機」である。仕組まれたような、誰かに監視でもされているような居心地の悪さに、蛇口を殴りつけた。いびつな鉄の塊は、なにも答えてくれない。仮に監視するような人がいたとしても、ふたりに共通点はない。
 ドアの奥では酒や肴を片手に、楽しく談笑する人がいる。カウンター席もあったので、ひとり酒をしている人もいるかもしれない。春樹は再び手を洗ってアキラの待つ席に戻った。

「あっ角谷さん、だいじょうぶ?」アキラは自分のせいだと背を丸めていた。「僕の愚痴はつまらないだろ、楽しい話をしよう。揚げ浸しを頼んでおいた。これならそんなに胃もたれしないと思う」

「ああいや、俺のほうこそ悪かった」初対面でいきなり誘った春樹も人のことなど言えたものではない。しかしアキラの「誰かに話したいオーラ」は春樹に向けられていたのだ。「俺も倉持さんに聞きたいことがあるんだ。二、三あるんだけど、いいか? 食いながらでいい、教えてくれると助かる。それと『平等』の答えだけど」

 仕切り直しだ。春樹はウーロン茶2杯を追加した。

 命あるものはみな平等に権利を得られるはずだと言い、「平等」についてはひとまず区切りをつけた。トイレで考えていたことをアキラに話すと、アキラは腕組みをして「監視するって誰が?」と疑った。「僕たち年齢が一緒ってだけで、ほかの共通点ないよ。それに似たようなことをした気はするけど」

「ほんとうか。どんなだったか覚えてるか?」

「ええとね」運試ししないか、と誘われたと言われたという。「進学準備でバタバタしてるときに、ばーちゃんなに言ってるんだよ、って思ったよ」

 春樹はあのころの記憶から「汚らしい箱」を呼び起こして絵に描いた。「俺は司書さん──学校司書な──から提案されたんだ。今の倉持さんと同じような状況を、司書さんに聞いてもらっててさ」春樹が当時を振り返ると、アキラも「僕は親戚の家で見たよ! なんかね、汚い箱があるなーって感じだった」と同じように振り返ってくれた。

「四角い箱に、ガチャガチャに似たハンドルがくっついてるやつじゃなかったか?」

「そんな感じ! 日の光を浴びすぎて色褪せてて、お土産にしては変だなって思ってたの!」

 春樹が学校図書館で箱を見たのと同じ日の同じ時刻に、アキラもそれに似た箱を見たと言ったのだ。汚い箱からどんどん連続ゲームが進み、ついに春樹の記憶と合致する「ガチャガチャ」に行き着いた。汚いという印象は一致している。用もなしにカメラは持たないとアキラは言い、写真はおろか落書きすら残っていなかった。

「色褪せた汚い紙に『人生の茶』って書いてあった」あまりのセンスのなさに、いまだに覚えている。

「うん、たしかに紙が貼ってあった。でもぼろぼろで、文字までは判別できなかったよ。っていうか、なにその名前。お茶の銘柄?」

 ふたりしてネーミングセンスのなさを笑ったが、周りはふたりの笑いに耳すら傾けない。それがたいそうくだらない内容で笑えるものだとしても、人生相談であったとしても、この特殊な環境では誰もが聞いており、しかし誰も聞いていない。居酒屋とはそういうところである。
 ふたりしか知らない秘密の話に花を咲かせつつ、情報交換を続けた。「親戚も他界してるから、箱を持ってこいって言われても難しいかも」アキラが揚げ浸し豆腐の一角を箸で押しつぶし、染み出した出汁の行方を目で追っていた。ちぎれた衣が出汁のたまり場に浮いた。「でも、僕は秋田にいた。角谷さんは埼玉だったんでしょ。もし同じ箱だったとしたら、あの距離をどうやって移動したの?」

 この謎を解くには物理的な問題があった。それは距離だ。約600キロもの距離は車で移動しても約7時間前後かかる計算である。しかし春樹は埼玉、アキラは秋田で箱を目撃していた。ふたりが同じ時間帯に同じ箱を目撃するには、ふたりが同じ場所または地域にいるか、あるいは同じ箱を2つ用意しないと成立しない。

「なんかのトリック? それともほんとに神のいたずら?」

 人生の茶は、とんだ迷惑なお茶であった。

#創作大賞2023

#ミステリー小説部門

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