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「障がいはハンデではなく個性」 #推薦図書

先日、本をあんまり読まないオカンから一冊の本を紹介されました。「お友達から借りたんだけど、読む?」
なんだなんだ、オカンが珍しく勧めてきました。
自分は読んだの? と聞くと「もう読んだ」だけ返されました。
ふむふむ「目が見えない演歌歌手」というタイトル。勉強の合間に読んでみるーと借りました。

結果、本自体は1日でほぼ読み終えて、この文章自体は時間かけて書きました。
以下、本書からの引用と私の考えを書いてます。
否定的なことも一部書いてますが、頑張って最小に留めたつもりです。

 ──

序章、いきなり『僕は幸せです』というのがインパクトでかかったです。たいがいは障害(私はこっちで書きますが引用部分は原文ママで使用します)を持って生まれてくると「どうせ自分ってさあ…」ってなっちゃうんだと思います。周りに同じ人がいなかったからよくわからないだけかもしれないけど、その傾向が強いのかなって思ってました。
清水さん「未熟児網膜症」が原因で全盲に。ただここにね、すごく明るいこと書いてあるんです。

「そんなことないですよ〜! これでも僕、幸せなんですよ〜!」
序章 p.6

いきなりすごいな??
読み始めから一気に「そんなことないですよ〜!」って書いてあったからびっくり。
「この人めっちゃ元気だなぁ」私が読んでる最中にこぼした言葉がこれです。

清水さん、目が見えてたら演歌には興味を示さなかったかもと書いてます。目が見えない=「五感のうち圧倒的な情報を司る視覚が使えない」から、必然的に「さわる」「聞く(聴く)」「話す」でしか外の情報が得られない。聴覚障害の方の場合は「視覚」じゃなくて「聴覚」が使えないってことです。どっちみち、生きづらさはあるはず。

「人は十人十色。いろんな人がいてもいい。だから僕みたいなのがいてもいい。」
序章 p.10

これは身障者でなくとも、他のさまざまな障害を抱えた人にも言えるのかも、と思いました。
精神疾患を持ってる人が、いろんなところでやらかして周りを引っ掻き回したせいで、該当の人が責められてる現場(?)に遭遇したことがありまして(最近ようやくおさまったように見えますがよくわかりません)。私も交流があった時は巻き込まれてた側(?)だったんですけど、数日前からちょっとずつ私の様子が変わってきました。
ある日、障害のことを「わかったつもり」で、本人にしかわからない心の傷を平気で抉っていく人が現れました。「ストレス与えてるのはどっちだよ」とコメントした人の名前を目にするたびに思うようになりました。
リアルな世界で会ったことがあるわけでもないのに、簡単に書いてある批判的な部分だけを切り取ってそのまま鵜呑みにして、似たような診断を下された人全員が「そうである」みたいなものもあって、すごくすごく悲しくなりました。心に傷を持つ人を「おもちゃ」にして遊んでるようにしか見えなくなってきて、コメントを見てから、心の中でひたすら「もやし」を連発してました。
とてもじゃないけど、同じ人間とは思えませんでした。

身体的だろうが精神的だろうが「なにも持ってない人」なんて絶対いないと私は今でも思ってます。
私もなにかしらあるはず(わからないだけ?)ですし、清水さんのこの言葉は重くもあるけど、ある意味では心を「軽くしてくれる」文章になるんじゃないかなと思いました。

実際、清水さんがデビューしてから、同じ障害や別の障害のある人たちから応援の声がたくさん届いたそうです。
「どうせなにもできないから」とか「厄介者なんでしょ」とか思うとどんどん深みにはまって出られなくなる。ますます悲観的になるループを繰り返すことになります。一般の人だって同じです。別に悲観的になるのがダメってわけじゃなくて、自分と向き合う時間を作れるいい機会と思うとさ、また違うでしょ、みたいな?

ご家族のことにも触れてて、たくさん感謝してると書いてありました。責め立てるようなことは一度もなかったそうです。
障害があるからなにもさせないんじゃなくて「逆にたくさんやらせてた」と。お母さんつよいな〜!
もちろんできないこともあったから、そこは手伝ってもらってたみたいですけど、読む限りでは「やれることは自分でやってました」とのことでほとんどご自身でこなしてたようです。
ここで「見えないから手伝ってあげる」を「いろんなことを自分でやらせる」方向で育てたご両親に拍手。頑張ってついてった清水さんにも拍手。
見えないぶん「聞く」か「さわる」か「話す」ことでしか世界を知る方法がない人にとって「音楽」ってとても大事なコミュニケーションになってるようです。これからもずっとそんな気がします。点字もあるけど、あれは「音」がないし、自発的に触れないと点字が示す文章がわからないから。

目が見えない=「五感のうち圧倒的な情報を司る視覚が使えない」から、必然的に「さわる」「聞く(聴く)」「話す」でしか外の情報が得られない。と上にも書きましたが、なんとパソコンでネットサーフィンもやっちゃうそうです。これもすごいな! 音声入力的ななにかを利用はしてるんでしょうけど、それでもすごいと本気で思いました。
閉ざされた「見えない」世界から、足ひとつぶん、いや両足出してる。そのまま体も出して、すっかり溶け込んでる。


清水さんは『のど自慢』に出るかどうか迷ってたそうですが、なんと「期待してないから気楽に唄ってきなさい」の一言に押されて『のど自慢』に出た。ステージで歌ってると、歌唱途中にもかかわらず拍手が上がったそうです。結果は「合格」。そのあとグランドチャンピオン大会にも出てほしいと言われた時は迷ったそうです。

「博正を、目が見えない障がい者という観点で呼ぶなら、出したくない。同情をかうつもりはない。」
第四章 p.97

これは清水さんのお父さんの言葉。
これ、現代でも一般的に通じそう。障害を持つ人が功績を残したとして、さてそれは「障害者だから」注目されたのか「自分が好きで好きで突き詰めて掴んだ栄光だから」なのかがわからないこと、たまにありませんか。
もっとも「どんな人であれ、頑張ったことは讃えられるべき」だと私は思ってます。要は「その人が努力した証」だから。
清水さんはチャンピオンになったあと、例によって「障害があるから云々」の批評をいくつかもらったそうです。でもそんな批判的なものを遥かに超える多くの応援や励ましのメッセージに支えられたとあります。
歌も言葉も、やっぱり力になるし、支えにもなるみたいね。

あとは街中での身障者に対する配慮なんかにも触れてます。点字ブロックが増えてきたとか、駅のホームドア設置には結構なお金がかかるから、ぜんぶの駅につけるとなるとすごいお金がかかるんじゃないかとか。
図書館情報学を学び始めてる私も知らなかった「サピエ図書館」についても少し触れてました。この制度は知らなかったな……不覚!


サピエ図書館は行政というか社会福祉法人の管轄のようです。点字図書と録音図書の存在は勉強したから知識としてはあったんだけど「サピエ」という単語はどこにもありませんでした。図書館概論でも図書館情報資源概論でも、その単語は見かけてません。司書課程の他の科目にあるかな…? サピエが最近できたものだとしたら、まだないかなあ。「点字図書館(サピエ)」みたいに括弧で括られてんのかな。
他の設備その他は行政だけじゃなくて一般の人も参加しないといけない。ほんとに必要なところにはぜひとも設置をお願いしたいところです。
清水さんは「見えないからなんとかしてよ」だけじゃなくて「見えない側も直さなきゃいけない部分がある」とはっきり書かれてます。
お互いの理解があれば…って話も聞きますけど、片方100で片方0のまんまで動かない話をすぐさま50と50にできたらそれは素晴らしいことです。

いろんな立場の人が妥協しつつもよりよく過ごせるようになってほしいものです。
「〇〇だから優先しろ」だと、一向に変わらない。

身障者の証明というか、手帳があるから優先しろ云々は違うのではと清水さん。私もそれは思ってましたが、ある程度は提示してもらったほうがわかることもあるのです。視覚障害者は白杖を持ってる割合が多いけど、聴覚障害者となるとまったくわからない。
……ヘルプマークの活用があればいいのか。依然として知られてない感じのヘルプマーク。お困りの方は導入してみてもいいかも。
あるところでは「キチガイマーク」なんて呼ばれ方されてるみたいなんですけども、キチガイ発言した人が「キチガイ扱い」されても文句は言えないんでしょうね〜
このマークもそうですけども、世界的認知が少しでも広まってほしいものです。正しく理解するのは無理な話でも「聞いたことあるな」くらいの感覚は持てると思いまして。

障がいの程度は人それぞれだし、頑張ろうにも頑張れない人はたくさんいます。
でも、「どうせ自分の人生はもうお終い」と諦めるのだけはやめてほしいです。焦ることはないです。
第七章 p.184

 ──

大変申し訳ないんですけども、私、「パラリンピック」や「ラジオ・チャリティー・ミュージックソン」はほとんど抵抗なく触れることができるんですが…
「24時間テレビ」だけは、どうしても背を向けたくなる。どうしても抵抗があって、ここ何年かは観てもいません。話題に触れてもいません。
なんだろうなあ、慈善が偽善に見えてくる(?)……じゃなくいけど、パーソナリティに「『今』話題のアイドルとかタレントとか」を起用することに抵抗があるのかな。少しならぜんぜんかまわないんですけど、どうしても背を向けたくなっちゃうんですよ。この人を出せば視聴率上がるでしょ的な。この人を起点にすれば広まるでしょ的な。
ないか、そんなの。ただの当て付けになっちゃった。関係者の方や応援してる方、ごめんなさいね。

それと、清水さんじゃなくて違う人のインタビューなんですけど「もっと『お茶の間感』が必要なんです」に疑問を持ってしまったことでしょうか。
お茶の間を笑かすのは芸人だけでいい、なんて考えは毛頭ないんですけど、初めて読んだ時に「なんかちょっと違うんじゃないかね」って思っちゃいました。この人のインタビューだけ。
え、いや、そこは清水さんが決めることでしょ、って。テレビが求めてるのって、やっぱりそっちの方向なの? って。
それに作詞家や作曲家のインタビューと、どこか違って見えたんです。もちろん彼もそんなつもりで話したわけじゃないとは思うんです。でも私はどうしてだか「結局そっちかよ!」と批判的になって。
食い物にされるならデビューしないほうがよかったのでは、とまったくの他人なのに心配する始末。どうも、心がひん曲がってるのは私のようですネ…
これは清水さん本人が決めることなんですけど、どこかで絶対「障害者だから注目された」が出てきそうな気がするんです。表に出ないで、裏のほうでコソコソと。
本人は明るく振る舞ってても、どこかでは「また〜…」ってなってるかもしれない。

 ──

結局、みんなひとりの人間です。
肯定的に捉えるのも、否定的になっちゃうのも、人間だからできること。
だけども清水さんは「できないから閉じこもる」以外の選択肢を示してくれてます。見えないから、聞こえないからって理由で悲観的になるんじゃなくて「なんでもやってあげる」でもなくて「やってみたいから、ちょっとそこで見ててくれる?」みたいな感じでしょうか。

実際、いろんなことを清水さんはやってきた。だから「できないこともたしかにあるけど、できることも多いです」って言える。自信を持って言える。もしかしたら、世間一般に思われてる以上のこともできるのかも? と、やっぱり背中をめっちゃ押してます。こうやって本も出して、いろんなところで演歌うたって、いろんな人を元気にして。
障害は「壁」。壁は壁、なにしてもどうやっても壁。先天性でも後発的でも壁なんだけど、その壁といかにうまく付き合うかの術が書いてあるわけじゃなくて、それを「個性」として見ると、世界が少し変わって見えるんだ、を伝えたいんだろうなと思いました。

「障がい者はハンデではなく個性」
第七章 p.186

清水さん、元気というか、力があるなあ。
つまり「障害あっても、やればできる」「見えなくても、できることが意外とあるじゃん!」を証明してる一冊に入る、と私は思ったわけです。

 ──

作品の種類:エッセイ

なんか、エッセイって随筆とも言うみたい?
ちょっと読書感想文っぽくなってるけど、読んだ本人(私)をその気にさせてるから「誰かの背中を押してくれる本の紹介をしてるエッセイ」ということにならないかな。なりませんかね。誰か教えてください。
自分ではわからんのですよ。


抱える障害、生まれ持ったものや後天的に患った障害など経緯自体がつらすぎて、正直「個性」と捉えることができない方がいることは十分に理解しているつもりです。中にはこれを読んで「そんなはずないじゃないか」と不快に思われる方が出てくるかもしれません。
すべての人に対して「障害と向き合え」と声を上げるつもりはありません。

そうした中で公開してもいいものか、書き上げてから悩みましたが「それでは意味がない」「医学的な知識も大事だけど、一番に伝わるのは当事者の声だ」と私は思ってます。公開することをお許しください。

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