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愛と正義の赤ちゃんごっこ【9―A】


 期末考査が終わった。後は終業式まで「自宅学習期間」となる。事実上の夏休みに入るというわけだ。試験の出来はいつもどおり上々だった。英語、現代文、古文、それに世界史は満点だったし、全教科で九割以上得点できた。試験前にあんな失態を犯さなければ、もっと晴れやかな気持でいられるところなのだが……。

 愛ちゃんの前で粗相をしたのは、これでもう二度目になる。しかも今回は、あろうことか彼女の部屋で失神してしまった。だが幸いなことに、愛ちゃんは僕が目を醒ますと何事もなかったかのように接してくれ、紅茶と茶菓子まで振舞ってくれた。徹夜で作った試験対策用問題集が奏功したのか、ギュンターの悪口を言ったことについては不問に付してくれたようだ。

 四時限目の終了を告げるチャイムに、クラス全体の開放感が呼応し、ざわめきが起こる。塾の授業まではまだ時間があるから、愛ちゃんを誘って吉祥寺で一緒に昼飯でも食おう。そう思って彼女の席に近づいた途端、邪魔者が割りこんできた。茶山(ちゃやま)だ。

「桃下、夏期講習って何取る?」

 おそらく学年ワーストクラスの成績を取ったであろうこの男は、愛ちゃんを我がものとするため僕らの塾に入ってきた。自分の学力レベルを考慮に入れず、無謀にも愛ちゃんと僕が在籍しているクラス、つまり英語の最上位クラスに入ろうとしたものの、選抜試験に落ち、一番下のクラスに編入することが決まったのだという。当然だ。お前なんか中学生に交じって「アルファベットの歌」でも歌ってりゃいいんだ!

「英語と世界史。あ、あと古文も取るよ」

 勉強道具を片づけながら、愛ちゃんはにこやかにそう答えた。

「じゃあ俺も世界史と古文取ろっと」

「世界史はクラス分けないから、茶山君でもあたしと同じクラスに入れるね」

「お前、今さり気なく俺のこと馬鹿にしただろ」

「別にさり気なくじゃないよ?」

「この野郎」

 じゃれ合う二人を呆然と眺め、僕はうすら寒い疎外感に苛(さいな)まれた。怖れていたことが現実になりつつある。このままでは茶山の思いどおりになってしまう。

「まだ塾まで時間あるよな。吉祥寺で飯でも食わね?」

 自分の言うはずだった台詞を盗られ、僕は無言で茶山をにらんだ。ちらりとこちらに目をやって、奴は口元を下品に歪ませた。

「いいね。マー君も来る?」

 愛ちゃんの提案に、僕は苦笑してうなずくしかなかった。

 吉祥寺に着くと、先日も愛ちゃんと一緒に行ったハンバーガーショップで昼食を取ることになった。注文を済ませて品物を受け取り、地階の四人掛けの席へ。僕と茶山は隣り合わせに座り、その向かいに愛ちゃんが腰掛けた。男二人の妙な緊張感を察したのか、まずは愛ちゃんが口を開いた。

「そういえば試験、どうだった?」

 僕が答えるのを阻止するように、テーブルに身を乗り出して茶山が言った。

「英語は八割。それ以外も平均は超えた。どう、見直しただろ?」

「すごいねえ」

「中間はひどかったけど、今回は徹夜で勉強したんだ」

「ちなみにあたし、英語九十七点だったよ」

「この野郎。よし、二学期の中間、英語で俺と勝負しろよ。今度こそ絶対俺が勝つから」

「言ったなあ。賭ける?」

「俺が負けたら好きなもん奢ってやるよ」

「ほんとに? 約束だよ?」

「お前は何賭ける?」

「何でもいいよ」

「それ、『好きにしていいよ』って意味?」

「あはは。そうかもね」

 二人が談笑する中、半ば冷めかけたフライドポテトをかじる。茶山は故意に僕を無視しているのだろうが、愛ちゃんは本当に僕のことが目に入らないらしい。何かしゃべらなければ。何でもいいからしゃべらなければ……。そう思いながらもきっかけがつかめない。運動神経の悪い子供が大縄跳びに入りかねて立ち尽くすように、口下手な僕にはもはや会話に加わる術はなかった。

 終日たっぷりと見せつけられた愛ちゃんと茶山のじゃれ合いを回想しつつ、重い足取りで帰宅するとすぐにパソコンの電源を入れた。デスクトップの壁紙に設定してある、愛ちゃんの画像を見ると溜息が漏れてしまう。もはや僕はほぼ戦線離脱。こうしている間にも、僕だけがどんどん遅れを取っている。このままではまずい。スマートフォンを起動させ、メッセージアプリを開く。とりあえず愛ちゃんにメッセージでも送ってみるか。

こんばんは。
今日も授業、
お疲れさまでした。
暑いけど、
冷房に当たりすぎて
体調を崩さないように
気をつけて。
それでは明日、
世界史の授業でまた。

赤地正義

 愛ちゃんにメッセージを送り、待つこと六分。思いのほか早く返信があった。

またあしたね!

 愛ちゃんからの返信は、非常に素っ気ないものだった。これでは会話を続けることなど到底不可能。ただでさえ他人とのコミュニケーションには難のある僕なのだから、アプリを用いるとなればなおさらである。やはり直接声をかけるしかないか。

 翌朝、夏期講習2日目の教室に、続々と受講生たちが集まってくる。僕は周囲を見まわして、手元の懐中時計を開いた。

 今日の愛ちゃんはどんな格好で来るだろうか。昨日は黒のノースリーブのサマーニットにデニムのショートパンツという扇情的な姿だった。カリカリと板書を写し取る左手、むちむちとしたやわらかそうな二の腕、ニットの生地がぴったりと張り付いたボディライン、小さなポニーテールに結った後ろ髪、うっすらと産毛の生えた艶かしいうなじ、そして、まるでクッションのように机上に載せられた豊かな乳房。思い出しただけで股間が熱くなってくる。

 茶山さえいなければ。あいつさえいなければ何も言うことはなかったのに。あの馬鹿、手相を診るとか言って愛ちゃんの手にべたべた触りやがって。今日もちょっかいを出すつもりだろうな。そもそも、あいつが夏期講習を取ったのはそのためなんだから。

「隣、空いてる?」

 いきなり見知らぬ人に話しかけられ、うろたえて顔を上げた。

「はい?」

 そこには、満面に笑みを浮かべた女生徒が立っていた。美少女、と言えばそう言えなくもない。くりくりとした目に、筋の通った高い鼻。大きく開いた口の中には、真珠色の歯が綺麗に整列し、対照的な小麦色の肌は、頬の部分だけほんのり赤らんでいる。身長は一六五センチくらいだろうか。女の子にしてはやや大柄だ。

「座ってもいい?」

 胸元まで伸びた漆黒の髪を耳にかけ、彼女は僕にそう訊ねた。

「どうぞ」

 ちょうど目の高さにある彼女の胸に、本能的に目が留まった。ぴっちりとした薄手のTシャツに派手な赤の下着が透け、二つの大きなふくらみの存在が際立っている。これは、すごい。愛ちゃんほどではないがなかなかのものだ。ごくっと喉が鳴った。

「エミナです。カナモトエミナ。夏期講習から入ったの。昨日が初めての授業だったんだけど、エミナおっきな予備校って通ったことないから、友だちできるか不安だったんだあ。仲良くしてね?」

「あ、赤地正義(まさよし)です。こちらこそよろしく」

 カナモトさんは席に着くと、僕の肩に手を触れ媚びるように言った。

「ちょっと質問してもいい?」

 返事も待たずに彼女は続ける。

「昨日女の子と一緒にいたじゃん? あの娘、赤地君の彼女?」

 カナモトさんの言う「女の子」とは、もちろん愛ちゃんのことだろう。しかし、仮に愛ちゃんが僕の恋人だったとして、それが一体何だというのか。そもそも、初対面の相手にこんな突っこんだことを訊くなんて、どういうつもりだろうか。

「正直に答えて。大事なことだから」

 一転して真剣な表情になったカナモトさんが、じっとこちらを見つめている。全身に汗が噴き出すのを感じながら、僕は視線を泳がせた。

「付き合ってるの? 付き合ってないの?」

「いや、あの……別に、付き合ってるわけじゃないけど?」

 次の展開に胸を高鳴らせ、上ずった声で答えた僕に、カナモトさんは意外な態度、つまり僕が期待したのとは別の反応を見せた。

「なあんだ。やっぱあの二人付き合ってるのかあ……」

 溜息をつく彼女を見て、ようやくひどい勘違いをしていたことに気づいた。

「いや、あの二人は、そういう関係じゃないと思うよ」

「もしかして赤地君、あの娘のこと好きなの?」

 核心を衝かれ言葉を失う僕に、彼女は薄笑いを浮かべて言った。

「だったら二人で協力しよ。ね?」

 突然教室の音量が下がった。講師が入室したのだ。僕は教科書を広げ、辺りを見まわした。ほぼ満席となった室内には、まだ愛ちゃんが来ていない。

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