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【02_失ったもの。得たもの】


 この春以降、失ったものは多い。 

 まず、3月〜5月に予定されていた撮影の仕事などはすべてなくなった。海外撮影や国内でもどこかに行って撮るというのが主だったので、移動が制限された段階で、すべてなくなった。 緊急事態宣言が解除されたあとも、元に戻るということはなく、時折、ようやく決まった撮影も、結局、また立ち消えになったりを繰り返した。 

 11月に予定していた4年ぶりとなる新作の写真展、および写真集も延期。その他の書籍の企画も、とりあえずストップ。とにかく、入ってくる連絡のほぼすべてが、キャンセルか延期かの連絡であった。同時に収入も激減し、今年は例年の80%減である。

 はじめは落ち込んだりしていたけれど、段々と心が不感症になっていき、何も思わなくなっていった。それはきっと自己防衛だったのだと思う。そうしないと心に負担が大きすぎて、耐えられなかったのかもしれない。
 同時に、その不感症が進行していく自分自身に対する危機感も大きくなっていった。このまま何も感じなくなっていったら、写真が撮れなくなってしまうかもしれない。


 自粛期間中、何が一番苦しかったかと言われれば、失うばかりで何も生み出すことができないということが、一番のストレスだった。時間の浪費、ただ食べて寝るだけの日々。何も生み出さずに変わりのない日々を過ごしているのなら、今日死んでも、明日死んでも、大して変わりはない。自分の存在理由が消えていくような感覚が怖かった。

 そんな日々を過ごし、究極にまで煮詰まり、底の底まで辿り着いたとき、何がきっかけだったかわからないけれど、ふと上を見たくなった。失うばかりではなく、それを悲観ばかりするのではなく、せめてひとつだけでもこの時間から何かをうみだすことはできないだろうか。

 そして、僕は写真を見直し、そこに「日常」を見出し、その「日常」を軸にひとつの世界を生み出せないかと考えるようになっていった。

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