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科学コミュニケーションの場で意識する、機能的価値と情緒的価値

私はこれまで、科学と社会をつなげるためのコミュニケーションの場をつくる「科学コミュニケーター」という仕事をしてきました。

この仕事をしていく上でいつも苦心してきたのは「そもそも何でコミュニケーションが必要なのか?」ということを、情報の送り手である研究者と受け手である参加者にどのように実感してもらうか、でした。

社会の中の文脈ではコミュニケーションスキルは重要視されますが、その割には実はコミュニケーションという言葉が含有する範囲をせまく見積もったり、その価値を見出していない場合ということは非常に多いのです。どんなコミュニケーションを試みるにしても、その認識の違いを共有することがとても大事だと思います。

コミュニケーションには機能としての価値と、情緒としての価値の2つの側面があると考えています。これは、科学という文脈に限らず、コミュニケーション全般に当てはまります。この記事では、前者を機能的価値観、後者を情緒的価値観と名づけ、2つの側面からコミュニケーションの場をデザインする必要性について触れたいと思います。

科学に対する機能的価値観とは

科学に対する機能的価値観とは、簡単に言えば「役に立つか否か」です。

研究者、特に基礎科学に従事する方は「基礎科学が役に立つかどうか?」というトピックに大変敏感です。

たとえば、日本のノーベル賞受賞者のうち、一番多いジャンルが素粒子物理学ですが、それがどう役に立つのかをわかりやすく伝えるのは簡単なことではありません。

ただ、私がここで言いたいのは、実際に基礎科学が役に立つかどうかといった価値だけで測る必要はそもそもないということです。

これは主観なのですが、一見役に立たない分野の研究者ほど「自分の研究は役に立たない」とコミュニケーションの意味を過小評価しがちです。

でも安心してください。そもそも世の中の人の大半は基礎科学のような各分野のことを全く知りません。知らないものを、役に立つか立たないかなどと評価しません、というか、できません。あなたが好きなその分野に対し、多くの人は「嫌い」とは思っていません。ただ「無関心」なだけです。知らないのですから、関心が無いのは無理もありません。だから、役に立つか立たないかは大した意味を持ちません。

ですから、研究者自らその分野がどう役に立つかどうかを一生懸命説明しようとする必要は必ずしもありません。この場合に求められるコミュニケーションの目的は「理解してもらう」前に「まず存在を知ってもらうこと」。それも、その研究分野を知ってもらうだけでなく、そこに真剣に向かう人間の姿(=研究者やそれを取り囲む多くの人たち)も知ってもらいましょう。あまり芝居がかって情緒に訴えるのはよろしくありませんが、人間の知的活動の原動力を、情緒的側面を無視して語ることはできないでしょう

科学に対する情緒的側面とは

同じ学術的活動でも、ジャンルによっては情緒的側面の方が非常に強力に働く分野もあります。たとえば、宇宙分野や考古学は昔も今もある種のロマンがある分野です。ざっくり言うなら、ドラえもんの劇場版に出るような分野です。

宇宙分野や考古学は、地球やその環境の変化の詳細を知ったり、環境保護を考えつつ持続可能な開発による経済的発展にも貢献しますから、機能的価値もあります。が、その前に「宇宙が好きだ!」「恐竜が好きだ!」という純粋な気持ちからその分野を応援するコアなファンが必ず一定数います。その方達にとって、研究者とのコミュニケーションの場は、それ自体に十分情緒的な価値を見出すことができまます。研究者の話をきっと熱心に聞いてくれるはずです。ですからコミュニケーションのハードルはあまり高く感じられません。

ただし、熱心に聞いてくれて満足度が高いからといって、必ずしもコミュニケーションがうまくいっているとは限りません。たとえば、科学啓発を目的とした研究所のオープンイベントを休日に行ったとします。来てくれた人たちは大満足です。でも、わざわざ休日の時間を使って研究所に来る人は、来る前から関心が高い人ではないでしょうか。それは本当に啓発をしていると言えるのでしょうか。その点に考慮が及ばないと、コミュニケーションの成果を過大評価することにつながります。

このような分野では、科学の機能的価値をどのようにコアファンではない人たちとコミュニケーションを取るかが課題になります。もしかすると、基礎科学よりもコミュニケーションが難しいかもしれません。

忘れられがちな「大多数の無関心な人たち」の存在

科学コミュニケーションについて、機能的価値を説明しづらい分野は過小評価しやすく、コアなファンのいる情緒的価値の大きい分野は過大評価しがちになると前節で述べました。

なぜこのようなことが起きるか。それは、価値を伝える対象が定まっていないからです

コミュニケーションの場をデザインしようとする際、「何を伝えるか」と同じくらい「誰に伝えるか」という、コミュニケーションをとる相手への理解は重要です。先の例の場合、機能的価値の過小評価は、一方で科学に対する社会の関心を過大評価しすぎです。情緒的価値の過大評価もまた、コアファンを社会の関心と一般化しすぎてです。

誤解を恐れずに言います。世の中の人はそもそも科学に無関心な人が圧倒的多数です。

ここでいう「無関心」とは、知らない、もしくは気づいていないという意味です。そこには機能的価値観も情緒的価値観も存在しません。役に立つ/立たない、好き/嫌いと思ってもらえる時点で、どちらもその分野に注意を向けているという意味で十分コミュニケーションが成立します。誰を対象にするかが決まれば、伝わる内容も狭まってきます。

私はずっと、どうやったら「大多数の無関心な人たち」ともっとより良くコミュニケーションが考え続けています。しかし、自分なりの答えは見つかっていません。

これを考えるきっかけは「人工知能」と「新型コロナウイルス感染症」でした。人工知能は、数年前第3次ブームが起こりましたが、仕事をしているうちに、このブームに乗っかっている人はごく限られた研究者やビジネスマンだけじゃないかと考えるようになりました。一般の方に人工知能のイメージを聞くと「仕事を奪われる」なんていう人がいますが、正直それを本気で真剣に答えている人はほとんどいなかったという印象でした。

一方、新型コロナウイルス感染症は、感染症に対する関心の有無に関わらず人類全ての脅威となりました。しかしそれでも「ウィズコロナ」とか「アフターコロナ」とか言っている人達は意識の高いごく少数で、多くの人は毎年と同じようにクリスマスや正月、ゴールデンウィークを楽しんでいます。

偶然私はどちらも科学コミュニケーションを試みる機会がありました。けれど、成果以上に多くの課題が山積していることを認識せざるをえませんでした。

どちらにしても思うのは、ブームや有事の際だけに真剣なコミュニケーションを試みようとしてもダメだということです。科学に限った話ではなく、結局のところ普段からゆるいコミュニケーションをとる機会が多いほど、いざというときにもスムーズだということなのでしょう。

今回は科学コミュニケーションの機能的価値と情緒的価値に注目しましたが、きっと他にもまだ多くの切り口があると思います。

この内容が最後まで読んでくださったあなたに、何かの#刺激になれば幸いです。

最後まで読んでくださってありがとうございます!