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肉食とヴィーガンと動物愛護

肉食は動物愛護の観点からどう考えられるか?
動物愛護は人間が肉食をするという事実から、
どう考えられるか?

動物愛護とは動物の生命を守る活動であるが、
無制限に守る活動とは異なる。
大抵の動物愛護主義者は、
人間の肉食を容認する為、
食用家畜の生命を守る活動は行わない。
食用家畜の命を守るべきとするのは、
一部のヴィーガンであり、
ここでは、動物愛護主義者は
人間の肉食を容認する者とする。

また、ヴィーガンも動物愛護主義者も、
人間以外の動物による肉食は容認する。

では、肉食を容認する動物愛護主義者の、
動物愛護の対象はどうあるべきか?

まず、肉食は悪である。
動物を殺すのだから。
それを人類、社会が容認するのは、
肉食の快感というメイットを、
動物の殺害に伴う罪悪感という
デメリットを上回るからである。

「生きる為には仕方ないから、
悪くない」という意見もあるが、
ヴィーガンは肉食をせずに、
生きているから、
肉食は生きる為に必要な訳ではなく、
やはり、食欲の為である。
他にも「自然の摂理だから悪でない」など、
色々な言い訳があるが、
肉食という罪悪を行う自分の罪を、
軽くしようと、醜く言い訳を
しているに過ぎない。

そして、動物愛護主義者が
肉食を容認するのは、
肉食以上のメリットが得られるなら、
動物の殺害を容認するという事だ。

故に、肉食以外を目的とした、
動物の殺害であっても、
それに肉食以上のメリットがあるのなら、
その殺害に反対するのは、
矛盾した行為となる。

例えば、住宅街に侵入し、
人の食べ物の味を覚えた熊を
殺害する事に反対するのがそうだ。

熊を殺す事と豚を殺す事の、
罪の重さに大きな違いはなく、
危険な熊の殺害により、
回復する安全というメリットは、
数十kgの肉を食べるメリットを上回るので、
動物愛護主義者は容認するべきだ。

肉食を容認する動物愛護主義者は
ある程度、動物の殺害や加害を
認めなければいけない。

また、動物愛護主義者でない人は、
ほぼいなくて、
つまるところ、よく言われる、
動物愛護主義者とは、
肉食をしながら、
危険な熊の殺害に反対する様な、
感情的になって矛盾した主張をする人達で、
単純な動物愛護主義は一般的な価値観である。

そして、ヴィーガンだけは
肉食を容認する動物愛護主義者が
反対すると矛盾してしまう事に
反対できる。

また、肉食に反対する事も矛盾しない。
ヴィーガンによる肉食反対は、
一般人から白い目で見られ、
「貴方が肉を食わないのは良いが、
それを私に押し付けるな」
とよく言われる。

だが、その反論は不適当だ。
例えるなら、
「貴方が人殺しをしないのは良いが、
私のする人殺しをやめるよう、
強制するな」と同じだ。

他にも「動物を殺すのはダメで
植物は良いのは差別だ」という反論もあるが
「人を殺すのはダメで動物を食い殺すのは
良いというのは差別だ」という意見と同じで、
故に馬鹿らしい。

悪の定義は不快を与える事であり、
意識のない植物に悪事は成立しない。
こんな意見を言うのは、
石ころを蹴るのは可哀想だという
幼稚なアニミズムを本気で信仰しているのと
同じ程に愚かである。

我々が弁えるべき事は、
肉食は悪で、ヴィーガンは善である事、
一般人側が悪である事だ。
その悪をヴィーガンが指摘し、
やめるよう言うのは道理なのだ。

だが、その様な過激派ヴィーガンは
一般人からすると、
 全く車のいない道路で信号無視をすると
避難する人と同じである。

何故なら、肉食は社会的に容認される程、
小さな悪なのだから。

どうでも良いと感じるくらい、小さな悪で、自分の方が悪いとしても、
反省して、やめる気なんて、更々、ないし、
悪いままでいいと思うだろう。
ただ、うるさく感じる筈だ。

ヴィーガンの肉食をやめよという主張は
善人過ぎて、口うるさい人間の言葉なのだ。

だが、肉食を悪でないと言ったり、
 植物を殺すのだって悪いじゃないかと
幼稚な屁理屈を持ちだしたりして、
自分の罪から逃れようとするべきではない。

肉食という悪を犯している事実は認め、
弁えるべきだ。

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