蝋燭の灯り

 私は眠れないときには蝋燭を灯す。
 蝋燭に火が灯されているあいだ、眠気はさらに遠のいて、昔のことが近づいてくる。

 その夜、いつものようにキッチンで水を切っておいた皿やスプーンやらをふきんで包んで拭いているとき、隣の部屋で点けていたテレビからナレーターの声が聞こえてきた。
 「あなたは子供のころ、どんな大人になりたかったですか。」
 私は何の番組だろうと思い、拭いた皿をテーブルに置いてテレビのある部屋へ行き、母がうたた寝をするソファのそばに立って画面を見つめた。
 その頃の私は、大学卒業を目前に控え、なんとか就職も無事に決まってほっとしたのも束の間、そろそろ引っ越しの準備を始めなくちゃ、という時期を過ごしていた。「社会人」や「大人」ということばに少し敏感になっていた私の中で、そのナレーターの質問はじわじわとわだかまった。
 結局、その場に立ったまま番組を最後まで見終えてしまい、キッチンに戻った。拭き終えた皿を棚に戻し、下着を外してパジャマに着替え、歯を磨いているあいだもずっとそのテレビの映像とナレーターの質問が頭を離れなかった。それはアフリカのコンゴ共和国のどこかの町を取材した紀行番組だった。ひとりの男が自分の年収の倍以上もするオートクチュールのスーツを着て、足をくじいているかのような独特のステップで歩き始める。太い一本道の脇にいる観客の声援にときおり笑顔で答えながら、砂埃を立ててひたすらに歩くそのひとりの男の新品のスーツは、元の色が分からなくなるほど濃いオレンジの太陽の光に染められていた。
 洗面所から戻り、ソファの上でまだ横になっている母の肩に触れて、もう寝るね、と声をかけた。部屋を出るときに母がおやすみと静かに言ったのが聞こえた。
 それは良い質問だった。「なりたかった」というその表現のものがなしさ、それがベッドに横たわってからも私の頭の中をぐるぐると廻った。そのことばはあらゆる未来や希望のないことばだった。それでいて人生を肯定するような潔さに支えられ、堂々とすらしていた。でも、待って。ちょっと待ってほしいんだけどな、と私は誰に向かってか頭の中で声を出した。
 枕の上に頬をのせ、眠りの入り口を探してみるが眠ることができない。私はベッドのわきの抽斗の一番下を引っ張り、キャンドルを取り出した。しばらく使っていなかったが、顔を近づけるとやわらかく甘い香りがした。マッチをこすって火を点けると、じんわりと部屋が明るくなった。その火をそっとキャンドルの先へうつし、私はベッドに横たわり、静かに揺れる炎を見ながら、子どもの頃のことを思い出した。

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